8. 黒女

『2077年1月27日水曜日、朝のニュースをお届けします。昨晩遅く、横浜伊勢佐木町にて若い女性と中年男性の遺体が発見されました。男性の死因は不明ですが女性は銃で撃たれており、警察は市民に情報の提供を呼びかけています。女性は二十代、身長百五十センチ前後、黒く長い髪で痩せ型、黒いフード付きコートを着用。男は五十代、身長百六十五センチ、髪は薄く白髪交じりの口ひげ。茶色いスーツとベストを着用しています。心当たりのある方は、最寄りの交番もしくは警察署までお申し出ください。


 艤装作業が行われていた新型飛行戦艦:千代田が正式に帝国海軍に引き渡され、昨日就航式典が行われました。千代田は無補給で太平洋往復が可能な初めての飛行戦艦であり、近く太平洋艦隊に配備される見込みです。これによりカルフォルニア諸国に対する影響力が強まることを政府は期待していますが、千代田型飛行戦艦についてはオリハルコンの利用量が年間割当量の三割にも及び、またCSAと不要な摩擦を招くとして国防省内でも不要論が根強く、三番艦以降の建造は未定のままです。


 次のニュースは満州から。カビから抽出したエキスが万病に効果があると満州長春の医師、池上象二郎氏が発表した件につき、この方面の専門家である緒方是孝伯爵は〈古くから知られているようにカビは結核の原因とされており、荒唐無稽である〉とし、氏の主張を全面的に否定しました。』



「俺は迷い犬を見つけてくれと頼んだんだぞ? 誰も妙な死体を見つけろなんて頼んでない」


 夜中にたたき起こされ部下を引き連れて現れた牧野警部は、開口一番に愚痴った。さすがの知里も反論する気力がないらしく、店の前にうち捨てられた木箱に座り込み、青い顔で頭を抱えている。


 それほどに、あの遺体は異様だった。


 男と女だった。男の方は四、五十くらい、頭ははげ上がり白髪交じりの髭を蓄え、くたびれたスーツ姿だった。口の端に泡を浮かべていて、すぐにこの臭いにやられたのでは、という疑念が沸いてくる。


 一方の女は――利史郎は一瞬、手遅れだったか、と思ってしまったが――すぐにそれが美千代ではないことを悟る。真っ黒で真っ直ぐな髪が顔の半面を覆っていたが、残る半面は骸骨のように痩せていて、目が異様に大きく、顎が細い。美千代の特長とは明らかに違う。


 美千代じゃない。それで利史郎は安堵した半面、ではこれは何だろう、という疑問に襲われる。


 大きめの黒いワンピースのようなものを着ていて、フードが半分、頭を覆っている。しかし問題は外見ではない。彼女の見開かれた目、尖った鼻、小さな口という穴という穴から、黒々とした液体を流していたのだ。それこそタールのように粘ついていて、床一面に広がり、プツプツと泡が浮いている。


 強烈な臭気の原因は、それとしか思えなかった。


 呼吸も困難になり、詳しく調べることも出来ない。結局捜査は諦め、交番を探し、警視庁に応援の電報を送ってもらったという次第だった。


 牧野警部たちが現れるのに四時間ほどかかったが、それでもまだ利史郎の鼻の奥には焦げ臭さがこびり付いていて、吐き気と頭痛が治まらなかった。彼は依頼通り防護服を着た消防隊を連れてきていて、チューブから送り込まれる新鮮な空気を吸いながら遺体を棺桶のような箱に収め、黒い粘液をバケツに回収する。それでも中に入れるほど臭いが薄れるのに、明け方までかかった。


 おぼつかない足取りで、階段を降りる。鼻が半分麻痺していて、未だに臭うのかどうなのかすらわからなかった。それは知里も同じようで、眉間に皺を寄せながら鼻をクンクンとさせている。


 部屋の中には幾つかのランタンが置かれ、様子は判然としていた。秘密の実験室というのに相応しく、様々な機械や薬品、燃料の類いが置かれている。しかし中央にある作業台の上は酷く荒らされていて、床にガラスや陶器の欠片が散らばっていた。乱闘があったのは確かだ。牧野警部はいかにもな胡散臭い表情を浮かべながら見渡し、言う。


「それで、何なんだ、あの男と怪人女は。山羽美千代は何処だ」


「怪人?」


 問い返した利史郎に、不思議そうな顔を向ける。


「違うのか」


「さぁ。少なくとも僕は、あんな黒い血を流す怪人の話は聞いたことがありません」


「それに怪人は大抵、外形に著しい異常がある」教科書にあるような文句を、知里は口にした。「あの女は、黒い血以外に異常はなかった。ぱっと見はね。解剖したの?」


 部下に偉そうに尋ねられ、上司の牧野は舌打ちした。


「どうやってやるよ、あの臭いで。今、医者の連中が方法を考えてるが――明らかな異常が一つ。死後硬直がない。ますます怪人っぽい」


「それは確かに異常ですが――怪人の遺体も死後硬直します。僕の知る限り、ですが」


 指摘した利史郎に、牧野警部は口を尖らせる。


「そうなのか? 悪いな、君ほど経験はないもんで。それと銃創が一つ。ここだ」


 と、自分の心臓を指す。それを受け、知里は床を見下ろした。彼女の足下には自動拳銃が転がっている。イギリス製の最新型だ。知里はおもむろにそれを取り上げ、弾倉を外す。


「山羽正清が買ってやった銃ね。美千代が護身用に持ち歩いてたっていう。二発撃たれてる。もう一発は――」と、銃を構え、方向を定める。「その辺」


 牧野警部が改めると、すぐに壁に突き刺さった銃弾を発見する。投げてよこされた鉛の玉を掴むと、知里は位置関係を示しながら言った。


「そこに〈黒女〉が倒れてた。美千代はここに立って、撃った。結果に動転して、銃を落として逃げた。男の方は?」


「まだこれからだ。外傷はなく死因は不明。恐らく窒息だろうとは言っているが――死後一週間程度。美千代が行方をくらませた時期と一致する。今、身元を探らせている」


「彼です」利史郎は美千代の部屋で見つけた写真を差し出した。「以前から美千代さんと親交があったらしい」


「貸してくれ。複製する」


 牧野警部は言って、写真を手に階段を上っていく。


 しかし、この装置は一体何なのだろう。利史郎は一つ一つ装置の特徴あらため、手帳に記す。圧力管からの動力を得て、ピストンを動かし、シャフトを回転させ、歯車やクランクに至る。その基本的な動作はあらゆる機械装置と共通していたが、ここにはずらりと並んだ薬品の瓶、細かく砕かれた粉末、大きなビーカーの中で煮立っていただろう黄色い液体と、何らかの研究設備のような特徴がある。


 奇妙だ。山羽美千代の専門は動力機関、すなわち機械であるはずだが、ここにある半分の装置は化学だ。死んだ髭の男の物かもしれない。


 もう一つ、奇妙な装置があった。帝国山羽重工製、五号汎用蒸気機関。小規模な工房や華族の邸宅などで使われる物で、オリハルコンは使われていない比較的安価な代物だ。


「何か変?」


 熱心に改めているのを知里が見咎め尋ねる。利史郎は装置の下部を改めながら答えた。


「改造されているんです。見てください、本来石炭を焚く釜がある部分が取り除かれ、何かの装置が取り付けられるようになっている」


「何かの装置って?」


「わかりません。残っていないんです。大きさは精々、僕の鞄程度でしょうか。何か熱を発する物であるのは確かですが――あるいは美千代さんと髭の男は、ここで新しい〈機関〉を開発していたのかもしれません」


「どうして隠れてやってるの? 山羽には、あんな立派な作業場があったのに」


「疑問ですね」これはハナの得意分野だ。後で尋ねてみる必要がある。「それで、そちらは何かありましたか」


 知里は机の前に向かい、腕組みする。見つめる先には小型の蓄音機があった。従来型と違って拡声器がラッパの形状をしておらず、手回しラジオほどの大きさしかない。


「芝浦の新型携帯蓄音機ですね。録音も出来るタイプだ」


 言った利史郎に、知里は針を落とし人差し指を立てて静寂を促す。間もなく針がセルロースの溝を掻く独特な雑音の上に、少し嗄れた女性の声が乗った。CSAからの輸入物らしいビッグバンドの音管だ。机上には三本の蝋管があり知里は次々と入れ替えたが、いずれもテンポのいいジャズだった。


「いい趣味をしている」


 言った利史郎に、知里は蓄音機の周囲を指でなぞりつつ応じた。


「でも全部じゃない」と、黄色い粉が付いた指先を見せる。「相当何かを録音していたはずなのに、市販物だけ」


「実験記録でしょうか。残っていればここで何が行われていたかわかったでしょうに」


 知里は口の端を歪めつつ針を上げる。そして音楽が収まると、階上で何やら押し問答が起きているのに気づいた。知里と共に向かってみると、一人の老人が牧野警部に詰め寄っている。山羽正清だ。


「正清卿、どうしてここに」


 思わず尋ねた利史郎に、顔面を蒼白にしている正清は縋り付いてきた。


「ラジオで女の死体が出たと聞いて。まさか美千代が――」


「だから違うと言ってるでしょう」牧野警部が呆れて言って、丁度警官が持ってきた二枚の藁半紙を正清に示した。「まぁでも念のため。この二人です。ご存じですか」


 中年男、そして〈黒女〉の似顔絵だった。大きな目に尖った顎と、特徴をよく捉えている。それを見た正清は眉間に皺を寄せ、硬直した。


「誰です」


 不審に思った牧野警部が尋ね、ようやく正清は反応した。身を震わせて鼻を擦り、渋々といった様子で答える。


「いや。男の方は見覚えがありません。ですがこっちは、確か名前は、田中久江――二郎の秘書です」


 突然、知里が吹き出した。


 確かに正清の証言は興味深い。だがこの女性の勘所は、一般とは少し違うらしい。

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