7. チェルニー・ローザ

 正清は山羽家の邸宅に泊まるように言ったが、まだ調べたいことがあると言って断り、二人は駅前のホテルに向かった。知里は殊更に大あくびをして、また明日と言い残して部屋に向かう。利史郎は次第に彼女の腹づもりがわかってきたが、とりあえず好きにさせることにして、チェックインの手続きをしながら受付に燐寸箱を掲げて見せた。


 山羽美千代の仕事場にあった、黒い薔薇が描かれている燐寸箱だ。どこかのバーの物だろうと見当をつけていたが、受付の男は知らず、ホテル備え付けのバーに向かってようやく手がかりを得た。


「行ったことはなかったですが、話には。ローザなんとかってバーだと思います」


 グラスを磨きながら答えるバーテンダーに尋ねる。


「行ったことは〈なかった〉、とおっしゃいましたね? つまり――」


「あぁ――何年か前に潰れてしまって」


 ふむ、と唸りつつ、黒薔薇を眺める。中には燐寸棒が、まだ半分ほど詰まっていた。しかし灰皿にあった吸いさしの量からして、数年前にもらった物が未だに残っているとも思えない。


 バーテンは正確な場所を覚えていなかった。それでおおよそを聞き、ロビーに備え付けられている住宅地図を開いた。黒薔薇に類する店名は見つからない。去年発行の最新版だ。コンシェルジュの所に向かい過去の物はないかと尋ねたが、ホテルにはないとのことだった。仕方がなく部屋に荷物を置いてから、外に出て人力車を捕まえる。


「市立図書館に」


 轍の磨り減ったレンガ道を数分も走ると、舗装されていない乾いた道になった。昔ながらの木造瓦葺きの家々が増え始め、やがて木造二階建ての小学校のような建物に着く。もう閉館しようとしていた所だったが、川路利史郎の名刺が通用した。司書の老人は喜んで袴を翻し、道々ランプに火を入れながら奥へ案内する。やはり地方の図書館だ、蔵書は小学校の図書室に毛が生えた程度の物だったが、百年分の住宅地図が書庫に残っていた。利史郎は老人に礼を言ってから、新しい物順に調べていく。そして五年前、2071年度版に、ようやく黒薔薇の名前を見つけた。チェルニー・ローザ。ロシア語で黒薔薇。横浜一の繁華街、伊勢佐木町の裏通りだ。


 待たせていた人力車に行き先を伝えると、車夫は苦笑いしながらも駆けだした。確かに、伊勢佐木町といえば工員や船乗り向けの遊び場として有名だ。道は石畳に変わり、左右は豪勢な装飾の施された二階建ての遊郭ばかりになる。早くも浅黒い労働者たちが、露台から笑顔で手を振る遊女たちを品定めしつつ歩いている。彼女たちは顔を真っ白に塗って鮮やかな着物を着てはいるが、顔形がどこか南国風だ。おそらくは殆どが外地人なのだろう。


 酒と香の臭いに包まれた通りが数百メートル続き、やがて人力車は裏通りに入っていく。最初は赤提灯やホルモン屋ばかりだったが、少しすると街灯もなくなり、寂れたレンガ造りの建物が軒を連ねる一角に入っていった。車夫によると一時期流行った洋化区画らしいが、ロシアが石炭の枯渇から不振に見舞われるようになると、すっかり寂れてしまったという。所々の圧力管が破損し蒸気を噴き出していて、レンガ道も穴だらけだ。


 おそらくこの辺だろう、という所で降ろされる。それ以上先には行きたくないということらしい。利史郎は写し取った地図を月明かりに照らしながら周囲を歩いた。至る所でゴミが放置され悪臭を放ち、行き場のない外地人たちが軒先で筵にくるまっている。路地ではぼろを着た数人がたき火を囲んでいて、場違いな格好をしている利史郎に鋭い視線を送ってくる。仕事も戸籍も失って、ヤクザの鉄砲玉になるような連中だ。帝都とそれに連なる街の闇には、こうした有象無象が巣くっている。更に奥深くには大抵怪人や怪人をものともしない狂人が蠢いており、彼らですらそうした場所には近づこうとしない。利史郎は懐に手を入れて拳銃をいつでも取り出せるようにしつつ、更に闇の深い場所へと足を進めた。


 色あせたロシア語の看板で位置を確かめ、地面が泥濘んだ路地に入っていく。そして下水から湯気が立ち上ってきている一角に気づき足を向けると、そのすぐ側に黒薔薇の看板を見つけた。


 幅が数間ほどしかない建物で、隣の木造の家が倒れかかってきている。扉はしっかりとした造りで、黒い薔薇が浮き彫りされていた。懐中電灯を取り出し、ハンドルを回し明かりをともす。特に外見に異常は見られない。そこでドアノブに手をかけたところで、背後から響いた音に身を震わせた。


 銃声だ。すぐに拳銃を取り出し、耳を澄ます。何人かが駆ける音。男の叫び声。そして再びの銃声。間もなく荒い息づかいも聞こえるようになり、硬いブーツの底の音が近づいてくる。


 やっぱりか、と思いながら、利史郎は鋭く小さく声を発した。


「知里さん、こっちです」


 現れた人影は、当然のように利史郎を敵だと思ったらしい。慌てて立ち止まって銃口を向けてきたが、すぐにこちらの正体に気がつく。そして当惑しながらも背後の様子を探り、小走りで近づいてきた。


「ここで何してんの!」


 囁かれ、利史郎はため息を吐きながら答えた。


「知里さんこそ。こんな所に女性一人で来るなんて」


 知里は振り向き、連中が諦めたらしいのを確かめてから、大きく息を吐いて拳銃を鞄に収めた。


「ま、これで連中も、大人しく襲われる女ばかりじゃないってわかったでしょ。それで? ここは何?」


 利史郎は燐寸箱を掲げてみせる。


「研究所の美千代さんの机の上にありました」


「私が気づく前に隠したってことね」


「僕は化粧品と雑誌に気づきましたよ。どうやら彼女は頻繁にここに来ていたらしい。知里さんは辻馬車から?」


 利史郎も燐寸箱が行き詰まったら、夜な夜な出歩いていた美千代が使ったであろう辻馬車か人力車を当たろうと思っていた。そして知里は手柄の独占を企んで――あるいはこれが意に沿わない協業であるとわからせようと――利史郎に黙って聞き込みをした。


 十中八九そうだろうと思っていたが、彼女は特に肯定も否定もせず、ふてぶてしい表情のまま利史郎の肩を押した。


「ま、とりあえず中を調べましょ」


 そして利史郎がしたのと同じように扉を改めてから、ドアノブを回す。鍵はかかっていなかった。中は暗闇で、彼女もまた手回し式懐中電灯を取り出して数度回す。最初に照らし上げられたのは、いかにもバーといった感じのカウンターだった。真っ黒に塗られたペンキは剥がれかけていて、酒瓶の類いは失せている。ただ一つ、一杯に燐寸箱が詰まった小さな木箱が置かれていた。きっと閉店後も放置されていた物を、美千代が利用していたのだろう。その証拠に塵の積もった床の上からは、足跡が何度も行き来した様子が窺える。壁からは漆喰が剥がれかかっていて、額に入れられた写真類が床に落ちていた。利史郎は懐から、美千代の部屋で見つけた写真を取り出す。四人の男性と写っていた物だが、やはりこの場所に違いなかった。薔薇が刺さっていた花瓶もそのまま残されている。


 知里は床に残された足跡を慎重に追っていたが、奥に行くに従って薄くなり判別出来なくなったらしい。カウンターの裏手に回り、倉庫で物音を立て始める。


 利史郎は慎重に階段を上っていく。二階は出し物用の楽屋と倉庫で、三階の屋根裏部屋は事務所兼オーナーの住処だったらしい。朽ちかけたベッドと家具があるだけで、他は何もない。


 何か収穫があったろうかと一階に降りると、知里は倉庫の中央で床にしゃがみ込み、何かを探っていた。六角の軸受けだ。床には四角く切れ込みがある。おそらく地下室への入り口だ。周囲を探ると、すぐに壁に立てかけてあったハンドルバーが目に入る。取り上げて知里に手渡すと、彼女は無言で軸受けに差し込み、ゆっくりと右に回した。


 カリカリと、歯車が噛む独特の音がする。数周回したが何の反応もなく、押しても引いても床は開かない。知里は立ち上がって首をかしげた。


「鍵じゃ――」


 言いかけた利史郎を、苛立った口調で遮る。


「わかってる。金庫鍵のような――右に三回、左に二回。上は?」


「これといって」


「じゃあ交代」


 あっさり言って、階段を上がっていく。何事も自分で確かめないと気が済まないらしい。仕方がなく利史郎は、押しつけられたハンドルを眺める。刻印がないということは特注品だろう。一方の軸受け側は綺麗に床に収まっていて、分解して内部構造を探るような事も出来なさそうだ。


 しかし、汎用的な施錠構造なら手はある。利史郎は鞄から、ダイヤルが付いた箱を取り出す。そして幾つかの継ぎ手を噛ませて軸受けに接続し、ハナからもらったゼンマイを装着して稼働させた。


 軸受けが右に左に動き始め、歯車がカチカチと音を鳴らして文字盤の値を変える。それを眺めている間に知里が戻ってきて、興味深そうに眺めた。


「なにそれ」


「僕が開発した鍵開け装置です。この手のダイヤル錠は回転させた時の負荷によって――」


「ふぅん、凄い」


 興味がなさそうに説明を遮る。そして、それで打ち破るつもりだったのだろう、手にした斧を床について、じっと装置の動きを見守る。しかし彼女の性格から想像出来たように、忍耐力も極々僅かしかなかった。十秒もせず、苛立ったように尋ねる。


「で、どれくらいで開くの?」


「さぁ。組み合わせは何万通りもありますから、数分で開くこともあれば数日かかることも――」


「そんな待ってらんない」


 知里は立ち上がり、斧を手に取って振りかぶる。それを見た利史郎が慌てて装置を取り外した瞬間、錆びついた刃は床に食い込んでいた、それなりに上等な木材を使っているらしい。一度ではびくともせず、二度、三度と振り下ろす。


「待ってください、ここが重要な場所なら、無理に開いたら爆発するような罠があっても――それにもし美千代さんが隠れていたりしたら――」


「それなら、一件落着、でしょ!」


 言っている間に、床は次第に割れてくる。そして最後のかけ声で大きく穴が開くと、斧は勢い余って知里の手から滑り落ちた。下にはそれなりに深い地下室があるようで、斧は派手な音を立てて転がっていく。


 咄嗟に二人は息をのみ、耳を澄ます。何かの機械装置がカリカリと歯車を回すような音、圧力弁から蒸気が漏れるようなシュウシュウとした音がする。一方で予期していなかった感覚もあった。強烈な臭気だ。利史郎は途端に咳き込みそうになるのを堪え、知里は口元をハンカチで覆う。苦く、刺激があり、甘い。それに非常に濃密で、すぐに内臓が真っ黒になってしまうような感覚がある。


 いや、しかし、この臭いは――


「木炭? 煙草?」


 呟いた利史郎に、知里は渋い表情で応じた。


「そうね。何かが焼ける臭いを――千倍に凝縮したみたい。タールの臭い?」


 彼女は一度階段を背にし、新鮮な空気を大きく吸い込む。そしてハンカチを畳み直して口に当てると、慎重に階段を下っていった。


 利史郎も後を追う。特に火災が起きている気配はなかった。粉塵も、焼け焦げた跡もない。だというのにタール臭は更に強くなってきて、息をするのも辛くなる。目や喉が痛み、咳き込んでしまえば呼吸困難になりそうだ。


 これは何かで空気を送り込み、換気をしなければ命に関わる。


 そう知里に一端撤退を進言しようとした時だ。彼女は階段の一番下に足を着き、四方に光を投げかけ、そして一点を見つめ、目を見開き、硬直した。


 何事かと、利史郎も地下室に降り立つ。それなりに広かった。十数畳程度はあって、壁はコンクリートで覆われている。黒板が掲げられ雑多な数式と図が描かれ、その隣には世界地図がピン止めされている。


 部屋には小型の旋盤やボール盤の他に、見覚えのない装置が4つほど置かれていた。圧力釜のようなもの、蒸留器のようなもの、そして――蓄音機やタイプライターといった雑多な機械が置かれた机の前に、知里の懐中電灯から光が投げかけられていた。


 そこには、全体が灰色に変色した、二つの身体が横たわっていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る