4. 山羽男爵家

 横浜は今も昔も帝都を支える巨大港であると同時に、帝国最大の企業である帝国山羽重工の城下町でもあった。海側には多数のマストと造船所の大きな櫓が、陸側にはレンガ造りの工場と黒煙を吐き続ける煙突が並んでいる。


 汽車を降りると、知里は眉間に皺を寄せて咳き込んだ。煤と酒と塩の混じった独特の空気で、女性が好き好んで来るような街ではない。行き交うのは薄汚れた工員と日焼けした船乗りばかりで、怒声と汽笛、歯車とレシプロの音が街中を包んでいた。さすが山羽の城下町だけあって、横浜は東京ほどの規模はないが十分に進化を遂げていた。見える範囲の道はコンクリートで舗装されていて、レンガ造りのビルが林立しており、中央通りでは電線が引かれている。


 混雑する駅前には辻馬車や蒸気バス、人力車が客待ちをしていたが、その中に一台だけ目を引く車があった。新聞で見たことのある競技車のようだ。流線型の形に低い車高、その脇には身なりのしっかりした老人が佇んでいて、二人を見るなり深く頭を下げた。


「お待ちしていました。どうぞ」


 後部の扉を開かれ、利史朗は思わず知里と目を見合わせた。彼女もこうした車には乗ったことがないらしいが、それでも知ったかぶりをして平気な素振りで乗り込んでいく。内部は上等な観劇部屋のようだった。椅子は柔らかく、脇机には飲み物が並べられている。先ほどの老人が向かい合わせに乗り込み運転席に合図すると、車は不思議な音を立てながら滑り出した。普通の蒸気機関やゼンマイとは違う高い音で、どこからも黒煙を発している様子がない。


「最新型のスチームタービンカーです」察したように老人が言った。「速度は従来の倍、最高時速百五十キロ。無補給で三百キロ走れます」


 言っている間に、他の車をどんどん追い越していく。あっという間に市街地を離れ、枯れた畑が広がる一帯に入り込んだ。知里は肘掛けを強く掴みながら、平然を装って尋ねる。


「急ぎの仕事なんて何もない華族様が喜んで買いそうですね。お幾らなんです?」


「売り物ではありません。燃料が問題でして」


「石炭ではないですね。一体何を?」


 尋ねた利史朗に、老人は左右の畑を指し示した。


「ここは菜の花畑でしてね。そこで採った菜種油を使っていますが、燃費が――まぁ石炭の数百倍といったところで」


「しかし石炭は、いずれ枯渇する」


 ロシア帝国の報道を思い出して言った利史郎に、老人は深々と頷いた。


「はい。それは明日、突然起きてもおかしくない。工業に携わる者なら誰でも知っていることです。しかし五帝国は知らぬふりを決め込んで、互いの勢力争いを二百年も続けてしまっていた。Dloopが我々人類に冷淡なのも頷けます」低い声で苦笑いした。「ま、そういう状況ですが、少なくとも我々は努力しています。この実験車のような形でね」そうして老人は両膝に手を乗せ、頭を下げた。「申し遅れました。山羽正清です。このたびはわざわざご足労いただき、申し訳ありません」


 利史郎はすぐに返事をできなかった。家令か何かだと思い込んでいた。


「いや、失礼を」やっと声が出た。「まさか帝国を代表する財閥の首領が、こうも簡単に出てこられるとは。思いもしませんでした。きっとお話も聞けないものとばかり」


「本当に」と、知里は目を丸くしつつ。「お暇なんですか?」


 ぎょっとして目を向けたが、知里からは不思議そうに見つめ返される。一方の正清は、その痩せた顔に深い皺を刻みながら笑っていた。


「子煩悩、孫煩悩と言われてしまえばそれまでですが。美千代が心配なのです」


 何か含むところのある口調を感じ、利史郎は尋ねた。


「何か心配される理由があるのですか」


「ここのところ、妙なことがあると言っていました。誰かにつけられているようだと。私は散々警備を付けると言ったのですが、絶対に嫌だと。仕方がなく護衛用の銃を買い与えたりしたんですが、こんなことになるなら、無理にでも付けておけばよかった」


 利史朗は手帳にメモを取りながら考えていたが、知里は酷く不機嫌な様子で、窓の外を眺めながら忌々しく鼻を鳴らしていた。


 畑を抜けた先は山の手地区だった。山羽関連の高給取りや外国人が暮らしていて、洋装の庭付き住宅が散在している。美千代の住んでいた白壁のレジデンスはそのただ中にあり、入るとすぐに若い女中が現れた。


「連絡は?」


 尋ねた正清に、不安そうに頭を振る。共用部の先に各戸の扉があり、美千代の占有部に繋がっていた。利史朗はその小さな洋館ともいえる内装を眺めながら正清に言う。


「何か動かしたものは? 書類など調べられましたか」


「手紙の類いはざっと目を通しましたが、これといって。他は何も」


 部屋は居間と寝室の二つ。警察の報告通り綺麗に片付いていて、目立った異常はなかった。出しっぱなしなのはソファーの上に置かれた婦人誌くらいだ。取り上げて流し見る知里に対し、利史郎は書き物机を改める。


 手紙は机の引き出しの中にあったが、目を引く物はない。机上には雑誌の山があり、しおりが各所に挟まれていた。帝国機械学会誌、とある。傍らに置かれたノートには、びっしりと機械的な図と式が書き込まれていた。言語は英語、ロシア語、アラビア語、そして日本語と、五帝国の物全てを使っている。


「研究所に配属されているそうですね。具体的には何を?」


「新型機関の担当です」


「あの車ですか」


「それに類する物です。具体的には」


「職場も拝見できますか。それと同僚の方にもお話を」


 言った利史朗に手配すると応じ、正清は部屋から出て行った。


 寝室に移り箪笥を改める。上等な生地の洋服ばかりだったが、何着か袖口に黒い染みがついていた。匂いを嗅ぐ。動物性の潤滑油だ。恐らく何らかの機械を操作していて付着したものだろう。他にめぼしい物といえば、サイドボードに置かれていたアルバムくらいしかなかった。観光地で家族や友人と撮影したものが殆どだったが、一番新しいのは何処かのバーが舞台だった。美千代を囲んだ四人の中年、老年男性たちが、カメラに笑みを向けている。丸いテーブルの上には薔薇が一輪、飾られていた。利史朗は傍らで佇んでいた女中に尋ねる。


「アルバム、お借りしても良いですか」


「あ。あの、旦那様からは、お任せするようにと」


 相当に緊張しているらしい彼女に、写真を抜き出しながら笑みを向けて見せる。


「大丈夫。ここに危険はありません。あなたは山羽家から来られているんですか?」


「というか、ここは山羽の物で。私はお屋敷からこちらに」


「他には、どんな方が住まれてます」


「全員、山羽に勤めてる方々です。豪華な下宿みたいなもので」


 身元がしっかりした者以外は住んでいないのだろう。ようやく緊張の解れてきたらしい彼女に、一枚の写真を掲げる。


「これが美代子さんのご家族ですか」


「あ、はい。一郎様と、奥様の三条様」


 一郎は正清とよく似ていたが、口ひげを蓄え、神経質そうに眉間に皺を寄せていた。奥方の方は公家の三条家から嫁いだだけあって、平安風な顔立ちの女性だ。その間で洋服を着た小さな美千代が、あどけない笑みを浮かべている。現在の写真に見られるような険しさは、微塵もない。


「一郎さんはご病気で亡くなったそうですね」


「えぇ、中風で倒れられて、そのまま。五年前です」


「奥様は?」


「それでめっきり体調を崩されてしまって、ご実家に戻られたと聞いています。ほら、お公家様ですから――あまりお身体もご丈夫ではなかったと――」


 元々政略結婚だったということか。


「それから美千代さんは?」


「旦那様のご意向もあって翌年からイギリスに留学され、二十歳で戻ってこられて、そのままお館に住まわれるかと思ったら一人暮らしをしたいと。旦那様は随分反対されたのですが、美千代様は独り立ちしたいと――でなければ家を出るとまで言われて。仕方がなく旦那様がここを買い上げて、私も。山羽の者の目が届くようにと」


「へぇ。相当に自立心が強い方なんですね」


「以前は、どちらかというと愛らしい方だったんですが。今はなんだかずっと思い詰めたような顔をされていて――一郎様が亡くなってから、すっかり変わられてしまいました」


「一郎さんとは、仲がよろしかったんですか」


「それはもう。美千代様も機械がお好きで、よくお二人で動く玩具のような物を作られていました」


 ハナと気が合いそうだ――まだ生きていれば、だが。


「警察から聞かれたとは思いますが、美千代さんを最後に見たのは何時ですか」


「七日前の、夜です。普通にお夜食に来られて、後のことは。朝の七時にお呼びしたら、もうおられませんでした。お仕事の関係で早く出られることもあったので、気にしませんでしたが」


「あなた、ベッドメイキングもするの?」


 ベッドの下を覗き込みながら尋ねた知里。女中はぎこちなく応じた。


「え。えぇ。あの、いなくなられてから手は付けていません。そうするようにと旦那様から言われているので」


「そうじゃなく。このベッド、使われたように見える?」


「い、いえ――」


「彼女が言いたいのは」と、利史郎は恐縮してしまっている女中に通訳した。「美千代さんは何時頃に家を出たか、という意味です。夜なのか、それとも朝方なのか」


「それは――わかりません。ベッドの様子からして眠られていないようにも見えますが、そもそも――朝まで本を読まれているようなことも、よくありましたから」


「でも、誰にも気づかれずに外に出ることは可能。でしょう?」


 尋ねた知里に、女中は何度も頷いた。


「それは、はい。私も何度かお見かけして――」そして慌てたように、口元を押さえる。「で、でも、お咎めする事も出来なくて。そういうの、とても嫌われるんです。当然旦那様にはお知らせしていましたし」


 やはり知里の表情と物言いは、他意はないにせよ相手を怯えさせる。利史郎はなるべく穏やかな口調で割り込んだ。


「別に責めてませんから。お気になさらずに。それで、そういう時ですが。何処に行かれていたと思いますか」曖昧に唸る女中に付け加える。「お酒の臭いがしていたとか。煙草、覚えのない香水――移動手段は何でしょう。このあたりは、夜の人通りは少なそうですが」


「そうでもないです。ご覧の通り、華族のご子弟やお金持ちが多いので。夜会や何やらで結構遅くまで辻馬車が行き来しています。でも、何処に行かれていたかは――すいません、雑談のようなこと、殆どされない方でしたので――でもお酒はないと思います。凄い弱い方で――ワインも口をつける程度でした」


「なるほど。他に何か気づいたことはありませんでしたか。ここのところ、変わったことがあったとか。何でもかまいません。何か不安そうだったとか――」


「それが――特に思い当たることも、これといって――」


「化粧が濃くなったとか?」


 化粧台を改めていた知里に問われ、そういえば、というように頷く。


「え、えぇ、すごく真っ白な感じに――あ、で、でも、それが最近の流行なんでしょうか。私は良く知りませんけど」


「別に怒ってないから。単にこういう顔なの」


 笑いながら知里は言って、何気なくポケットにコンパクトを忍ばせていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る