3. 川路探偵事務所

 新橋の雑居ビルにある事務所に戻るとハナが待ち受けていた。相変わらず全身が煤と油、鉄粉にまみれていて、それを改めようとする気すらない。ちゃんと整えれば十分な美人だと思うのだが、普段はその辺の工員たちと同じだ。いつも傷だらけの安全靴を履いて、亜麻色のくせ毛をキャスケット帽に押し込んで、リンゴを丸かじりしている。その彼女は利史郎を認めると、愛嬌のある目を細め、笑顔で片手を挙げた。


「やぁ弟君。これ、持ってきたよ」


 指し示したのは、机上に置いてある十センチ四方の装置だった。上面からは六角形のトルクロッドが突き出ていて、オリハルコン合金の黄金色を晒している。


「予備のゼンマイですね。助かります」


「気をつけなよ? 世界で唯一の〈ハナちゃん超合金〉製ゼンマイなんだから。これ一つで蒸気バス並みの出力があるんだよ? 変な衝撃で格納箱が壊れたら、中のゼンマイが吹っ飛んで周囲百メートルはミンチになる」


「そ、そんな危ない代物なんですか」先日のレヘイサム事件を思い出して、背筋が凍る。「それならそうと、先に言ってくださいよ」


「言う前に飛び出したのはそっちじゃん。まぁ格納箱は相当硬く作ってるから、だいたい大丈夫だと思うけど。ほら、剛性試験とか、ちゃんとしてないし」


 二ヒヒ、と独特の笑い声を上げる。


 祖母によれば川路家では時々、こうした変人が生まれるらしい。華族の淑女としての素養は全くなく、幼児の頃から機械いじりが好きで、目を離せば何でも分解する。行く末を悲観した母は、荒療治とばかりにハナを機械好きで人嫌いの変人として知られる伯爵に弟子入りさせた。数日で泣いて帰ってくるだろうと踏んでいたのだが、その希望は完全に打ち砕かれた。あっという間に見込まれ一番弟子になり、三年で免許皆伝のお墨付きを得て養子にしたいとまで言われ、今では芝浦製作所の技術顧問という名目を得て毎日好き勝手な事をしている。


「そうだ。姉さん、山羽重工をどう思います」


 装置の説明を一通り受けた後、思いついて尋ねる。ハナは机に腰を乗せ、芯だけになったリンゴを窓から外に放り投げつつ応じた。


「山羽? あそこの蒸気機関は最高だね」


「機械屋から見ても、そうですか」


「維新の頃に見様見真似で蒸気機関作って、Dloopの来た十年後には山羽式オリハルコン蒸気機関を完成させたんだ。二百年経った今でも現役の機構だよ? 山羽虎夫は天才だね。あそこに比べたら芝浦製作所(ウチ)もベスラーも政府の占有率分配で食ってるだけの雑魚」


 山羽の蒸気機関の売り上げは世界一位と聞いてはいたが、そこまで優れた物だとは知らなかった。


「なら当然、山羽男爵家は色々と問題を抱えているでしょうね」


「政治のことは、わっかんなーい。でも今の会長はもう60過ぎててさ、そろそろ隠居するんじゃないかって言われてる。けど何年か前にさ、天才技術者って言われてた長男が赤痢か何かで死んじゃったんだよね。まだ40前だったと思うけど」天才は短命と相場が決まっている。「で、次男は経営を学ぶためにイギリスに留学してたっていうから、そいつが後を継ぐんじゃない?」


 ふむ、と無意識に鉛筆を囓りながら考え込んでいると、事務所の扉が乱暴に叩かれた。『川路探偵事務所』と書かれた曇りガラスに映るのはすらりとした影で、相手が誰なのかはすぐにわかる。現れたのはやはり知里新子で、仏頂面でハナ、そして利史郎を認め、言った。


「少年探偵さん。それで、何からする?」


 わぉ、とハナが小声で感嘆した。


「なになに? 今度の依頼って、こんな美形さんが相棒なの? ハナちゃんもちょっと噛ませてよ」


 ハナの宝塚好きにも困ったものだ。利史郎は咳払いして誤魔化し、怪訝な顔をしている知里に言った。


「知里さんはもう、色々と検討されてるでしょうから。従います。僕はまだ資料に全部目を通していませんし」


 数秒、意図を探るように利史郎の目を見つめる。そこに何を見て取ったのか、彼女は尖った顎を外にしゃくった。


「じゃ、とりあえず横浜に行くよ。依頼主から話を聞く」


 新橋駅から横浜駅まで、汽車で一時間ほど。席について資料の細部に目を通す利史郎に対し、知里は携帯ラジオを取り出しゼンマイを巻く。そして帝都放送にダイヤルを合わせると、窓辺に肘を乗せ、流れゆく工場地帯、次いで現れた濁った海を眺めていた。空では羽田飛行場から飛び立った200メートル級の飛行船が銀色の光を放っている。


『2077年1月26日、お昼のニュースをお届けします。オスマン領オーストリアで続く騒乱について、日米英阿露の五帝国会議がローマ共和国連合を批難したことに対し、共和国側は一切の関与を否定。域外の国家の関与こそ地域の安定を失わせるとの談話を発表しました。五帝国会議では共和国に対する石炭およびオリハルコンの禁輸措置が取り沙汰されていますが、オンタリオ問題で米英の反目が続いており、議長を務める川路全権大使は難しい舵取りを迫られています。』


 帝国山羽重工は明治維新後早々に設立された山羽蒸気自動車と、横須賀海軍工廠から生まれた帝国重工が合併してできた。オリハルコン蒸気機関と造船を中心とする重工業分野において帝国の要であり続け、社長の山羽正清男爵は創始者山羽虎夫から数えて七代目にあたる。長男の一郎は死去、次男の二郎が専務を務め次期社長と目されている。失踪した美千代は一郎の一人娘であり、二十二歳。オックスフォード大学卒業後、山羽重工に勤務していた。


『日露の共同委任統治区域、山東半島における石炭採掘についての交渉が大詰めをむかえています。関係者によると日本政府は採掘許可に代わって満州の単独委任統治権およびウラジオストック艦隊の削減を要求している模様で、石炭資源の枯渇に悩むロシア帝国の対応が注目されています。』


 山羽美千代は一週間前に帰宅したきり、出社しなくなった。住処は横浜山手地区にある高級レジデンスで、部屋が荒らされた形跡はないという。この地区の治安は良い方だ。偶発的に夜盗や人攫いの被害にあったとは考えにくい。であればあり得るのは、計画的犯罪の被害にあったか、自分の意思による失踪だ。彼女が消えた二日後に山羽家は捜索依頼を出したが、地元警察では行方は掴めず、最終的には内務卿に直談判し利史郎が指名されたという具合らしい。


『満州長春の医師、池上象二郎氏の主張が話題を呼んでいます。氏によるとカビから抽出したエキスは万病に効果があるといい、僅かな投与で肺炎、結核、破傷風などあらゆる病が完治するとのことです。』


 写真を眺めてみて、少し意外に思った。華族の娘とあれば毒があっても笑顔と柔和さに潜ませる術を躾けられているものだが、彼女の唇には白黒でもはっきりとわかるほどに真っ赤な紅が塗られていた。髪は薄く痩せていて、額が広い。見るからに知能が高そうで、大きな鋭い目が光っている。どことなく知里と雰囲気が似ていたが、彼女よりもなお、悪魔的な非情さが感じられた。


『今日のお天気です。午後から夜にかけて、全国で晴れが広がるでしょう。朝鮮半島から満州にかけては雪、呂宋からジャカルタ方面では夜半にかけて豪雨の恐れがあります。オーストラリアは全域で晴れ、蝦夷地方では十五時から十六時にかけて、D領から廃棄物が大気排出されます。健康への影響はありませんが、黒煙による洗濯物の汚れにご注意ください。こちらは帝都放送協会、三田村宗佑がお伝えしました。続いては江崎洋一オーケストラによる音楽をお楽しみください。次のニュースは、十六分後です。』


 軽やかなダンスミュージックが流れ始め、知里は管楽器の音にあわせて指を叩き始める。利史朗は五十枚程度の資料を散々改め続けたが、相変わらず警察の仕事は肝心な所が抜けていて話にならなかった。彼女がどういう人物だったのか、肉親との関係はどうだったのか、全然記載されていない。それ以上の追求は諦め、目を閉じて音楽に身を委ねた。

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