2. 或る令嬢の失踪

 帝都の朝は、いつものように霧に包まれていた。この霧が重要な問題となった事件で利史郎も調査をしたことがあったが、原因は街中で動く蒸気機関のせいだと言う者もいれば、地球規模の環境変動のせい、あるいはDloopが何かをしているのだとまとこしやかに述べる新聞もあり、定説はないようだった。


 この十メートルも先が見えない中でも、街は動き始めていた。交差点ごとに汽笛を鳴らしながら慎重に走る蒸気バス、利史郎と同じくゼンマイ二輪車で走る若者、闊歩する馬車は帝都の中心部に向かい、地下からは疲れた顔の労働者たちが絶え間なく吐き出されている。


「新聞! 新聞だよ!」ベレー帽にチョッキ姿の少年が、駅前で声を張り上げていた。「かの大悪党、怪人二十面相に死刑求刑だ! 近いうちに吊されること間違いなし! 捉えたのはかの少年探偵だ! これを読まなきゃ職場でやっていけないよ? さぁ買った買った!」


 動力亭に入り、『高温注意』の札が下がっているパイプからノズルを引っ張り出す。入力と出力の二本を二輪車のゼンマイ箱に差し込むと、朝食らしい握り飯を食べている店員に片手を挙げる。彼が傍らのレバーを下げると街中のパイプを巡っている高圧蒸気が流れ込み、二輪車のゼンマイを巻き上げていった。数秒で出力パイプの圧力計が跳ね上がると、店員はレバーを上げてダイヤルに出た数字を手元の伝票に書き込み、利史郎の元に持ってくる。


「五十二銭」


 財布の中を探っていると、隣では蒸気貨物車に石炭を積み終えた運転手二人が、機関の加熱を待ちながら新聞の内容を談じあっていた。


「この二十面相ってあれか? 長崎で何人も殺したっていう」


「長崎だけじゃねぇよ。あちこちで沢山殺されてる。吊されて当然だ」


「でもなんで裁判受けてんだ? 怪人なのに?」


「さぁな。お役人が働いてるって宣伝したいだけなんじゃねぇか?」


 別に珍しくもない。一般市民の認識はこの程度だ。その人心掌握の巧みさから怪人二十面相などと呼ばれていたが、彼は怪人ではない。普通の人間だ。それに彼が帝国の属領となっている蝦夷共和国の独立のために戦っていたと知っているのは、帝国臣民四千万の中で一万人もいないかもしれない。当然体制側としては彼のアイヌ名を認めることは出来ず、お仕着せの和名――閉伊権兵衛などと呼んでいる。


 代金を払い終え、利史郎は桜田門へと向かった。裏通りの朽ちかけたレンガビルの壁に、見知った落書きが残されている。二重円に十字。標的を示すその印は、レヘイサムの組織が掲げているものだ。彼の試みは決して成功してはいなかったが、この帝都にもシンパは存在する。帝国からの分離独立。何をやっても上手くいかないと嘆く外地人にとっては心地いい言葉だろうが、帝国は今のところうまくやっている。十九世紀末に確立した五帝国体制は、もう二百年も続いているのだ。さまざまな問題を孕んでいるとはいえ、五帝国の支配によって、大規模な戦争や飢饉、恐慌が防がれている。それ以上を望むのは、歌舞伎やパンクと呼ばれる永遠の反抗期の人間くらいだろう。あるいは分離主義者たちもそんなことは百も承知で、手段が目的になってしまっているのかもしれない。


 赤煉瓦の五階建ての建物は朝から大混雑だった。盗人に暴漢に詐欺師に売春婦、そしてその取り巻きたち。彼らに比べたら、レヘイサムは聖人と言ってもいいかもしれない。彼には大義があった。だから無差別殺人を許すというわけではないが、少なくとも世界を変えてやろうという気概があった。比べて、このロビーを埋め尽くしている連中は何だろう。警官を大声で詰り、脅し、嘘八百で情に訴え、少しでも罪を軽くしようとするだけの輩。レヘイサムは彼らのために死刑になったようなものなのに、世界は微塵も変わる様子がない。


「利史郎君、こっちだ」


 ロビーの上から声をかけられ、目を上げる。そこでは見知った人物がパイプをふかしていた。丸顔に髭を生やした小男。牧野警部だ。


「警部」利史郎は階段を駆け上がり、奥に引っ込んでいこうとする彼を追った。「今日はまた、大繁盛ですね」


「あぁ。給料日の翌日はこんなもんさ。しまいにゃ怪人まで出てくるし――」


「怪人?」


 そこで脇の扉が開き、左右の腕を屈強な警官に捕まれた女が現れた。薄汚れた白いワンピースに裸足という姿で、長い髪が顔の殆どを覆っている。隅に寄って一団が通り過ぎるのを待っていると、女が僅かに顎を上げ利史郎に目をやった。途端に背中に寒気が走る。女の青白い顔には異常なほど大きな口が付いており、耳の近くまで裂けた唇の中にはサメのようなギザギザの歯が覗いていたのだ。


「あれは噂の――」


 一団が階下に消えてから言うと、牧野警部は忌々しげに応じた。


「あぁ、口裂け女。『私綺麗?』ってヤツだ。いくら逃げ足が速くてもゼンマイ二輪には勝てんな。目撃情報の多いあたりに銀輪部隊を配置していたら一発だったよ」


「言葉は通じる相手ですか」


「いや、五類。相当下級の怪人だな。気味が悪いったらありゃしない。ニタニタ笑って『私綺麗?』しか言わん。さっさとDloopに引き渡すよ」


 大部屋に入り、煙草の煙とタイプライターの音をかき分け、ガラスで隔てられたブースに入る。そして利史郎を向かいの席へ促すと、自分は安そうな椅子に倒れ込みながら喘ぎ声を上げた。


「とにかくもう少し人を増やしてもらわんと、手が回らんよ。ただでさえ最近は外地の出稼ぎ労働者が増えてる。満州、呂宋、あと――なんだっけ、パ、パプなんとか――」


「パプアニューギニアですね。去年、委任統治領に加えられた」


「そこだ。連中は言葉も通じないどころか、人の常識すら通じん。たまらんね。だいたい津波の復興支援か知らんが、どうしてその金を内地が出さなきゃならんのだ? また税金が上がった。日本語も通じない未開地なんて、放っておけばいいってのに」


「日本がやらなければイギリスかCSAが手を伸ばしてきたでしょう」


「それで基地でも作られたら困るってか。ふん、いつから俺は、あの言葉も通じん連中の父親になった。俺は嫁さんと三人の子供を養うので精一杯だ」


「なら、内務省に上申書を出しては? あくまで帝都の保安の観点から」


「だれが読むよ、こんな中卒の木っ端役人の上申書なんて。連中が俺にやるのは、上意下達だけさ」


 そして引き出しの中からファイルを引っ張り出し、机上に投げ出した。首をかしげながら眺めていると、牧野警部はその表情を読み表紙を開いた。


「そんな訳で、ちょっと頼みたいことがある。迷い犬探しだ」


「迷い犬?」


 差し出された書類に目を落とす。何人かの身上書、時系列で記された出来事、そして地図。やがて利史郎は一つの名前に目がとまった。


「山羽美千代? まさかこの山羽というのは――」


「あぁ。あの山羽男爵家だ。そこの令嬢が失踪した。先週の事だ」利史郎が眉間に皺を寄せて資料に目を通す間に、牧野警部は資料に記されていない背景について説明を加えていた。「知っての通り山羽財閥は、オリハルコンの一次受けを担っている帝国山羽重工が中心の財閥だ。皇族も何人か降嫁してるし、国営と言ってもいい。それで――ただの不良娘が家出しただけなのかもしれんが、地元の警察じゃ何の手がかりも得られず、こうして警視庁に捜査依頼が来てな。かなり上層部からの物だから無碍にもできんし――」


「そんな大事、一介の私立探偵に丸投げしていいんですか」


「二つ訂正しよう。一、君は一介の私立探偵ではない。警察組織の宗家と言ってもいい川路家の次期男爵でもある。平民の警部が仕切るより、連中は喜ぶさ」


 かもしれない。


「それで、二つ目は?」


「丸投げするつもりはない」言いながら立ち上がり、扉を開いて大部屋に叫んだ。「知里!」


 呼ばれて顔を上げたのは、色白で丸顔だが視線の鋭い女性だった。赤茶けた髪を今風のイギリス結びにしている彼女は、苛立たしげに立ち上がるとブーツの底を殊更に鳴らしながらやってくる。そして牧野警部に向けて何か大声を上げかけたが、警部は指を一本立ててそれを遮り、恭しくブースの中へ促す。


 それでやや、毒気を抜かれたらしい。知里は大きくため息を吐きながらも中に入り、利史郎の隣に乱暴に座った。


「嫌ですよ私は」


 ハスキーな声で女性は言ったが、牧野は無視して笑顔で紹介した。


「知里巡査だ。この件で君の補佐をする。何でも言いつけてくれ」


「華族の娘の反抗期なんて、私の知ったことじゃないです」


「我々は、その華族に雇われてるんだよ」


「え? 私は帝国の臣民に雇われてるのだとばかり思ってましたが」


 牧野はこれ見よがしに舌打ちした。


「餓鬼みたいなことを言うな。君の方が反抗期だ。幾つだった? もう十九だろう。利史郎君なんてまだ十八だというのに立派に――」


「十八!?」驚き、まじまじと利史郎を眺めた。「少年探偵っていうから、まだ十五、六だと思い込んでた」


「その頃から彼は一線で働いていたんだよ。釧路事件を知らないのか? あれは実際のところ、彼が解決の糸口を――」


「和館の役人が蝦夷を何人殺してから掴んだ糸口でしたっけ?」


 慌てて牧野は遮った。


「よせ、やめろ。彼を挑発するな」


「挑発? 何処がです。事実でしょう」


「いいからよせ」


 こんな状況では、利史郎は撤退するより他の手は思いつかなかった。


「僕も警察の活動に干渉するつもりはありません。知里さんはとても優秀な方のようですし、牧野さん、この件は彼女に任せて僕は――」


「あら、少年探偵に優秀って認められちゃったわ」


「それは、蝦夷で帝国の中央官僚になられたんです。優秀なのは間違いない」


 言った利史郎に、知里は口を半開きにし、牧野警部は頭を振りながら言った。


「だからよせと言ったんだ。丸裸にされるぞ」


「蝦夷? 私が? どうしてそうなるの」


 牧野の忠告も構わず挑んでくる知里に、利史郎は仕方がなく応じた。


「それは――知里という名字は、蝦夷が使う和名の一つですから」


「それだけ? 現職閣僚にも知里というのがいるけど?」


「釧路事件――帝国通商連絡局の役人数人が蝦夷共和国の主権を無視し、私腹を肥やし性的欲望を満たすため蝦夷を酷使。結果、十三人の死亡が確認されましたが、実際の被害者は更に多かったとみられています。凄惨な事件でした。しかし、日蝦の関係悪化を懸念した両国政府の圧力で、詳細は殆ど報じられなかった。その事件の内容を知里さんは知っていて、独自の見解まで持っている――何故か。


 一番可能性が高いのは、知里さんは華族の子弟であるということ。しかしそうならば一級試験を通って警部補からのキャリアになるはずです。だがあなたは巡査。ならば釧路事件を知ったのは、次の可能性、近くに住んでいたからと考えるのが妥当でしょう」


「だから蝦夷? 短絡的ね。それこそ、私は連絡局役人の娘かもしれない」


「論文で読みましたが、そうした桃色の肌色と赤茶色の髪の色は、蝦夷にある程度多く見られる民族形質だそうです。ロシアの血が混じっているからだという学者もいます。本当かどうかはわかりませんが。それに仮に内地役人の娘ならば、上司である牧野警部に面と向かって反抗するような教育は受けません。あなたの態度は、そう――身一つで、誰の後援もなくのし上がってきた人のもの」利史郎は目を上げ、知里を見据えた。「ひょっとして知里さん、あの事件で――ご両親を?」


 牧野警部が宙を見上げる。知里は顔を真っ赤にし、勢いよく椅子から立って、ブースを出て行ってしまった。


 参ったな、と頭を掻く利史郎に、牧野警部は机上で手を組みながら言った。


「すまない。彼女が優秀なのは間違いないんだが、何分あの気性で――それで彼女が蝦夷だというのは、ここだけに留めてくれないか。未だに外地人に偏見を持つ輩は多くて」


「牧野さんは言葉とは裏腹に、外地出身のお子さんが沢山いるようですね」ぎょっとして身を上げる牧野警部に、笑って言葉を継ぐ。「変な意味じゃありません。外地人を差別するようなことを言いながら、知里さんを保護してる。そのことです」


「彼女は特別だよ。それこそ十五までろくに日本語も話せなかった娘が、十六で警官の採用試験に合格して、十九で本庁の刑事に抜擢されたんだ」


「外地人枠でしょう?」


「それはそうだが、別格だよ。あの通り鋭くて――君は事件の全てを読み解いて丸め込んでいくが、彼女は〈切る〉」なんとなく想像がつく。「だがあの調子じゃあな――出世は望めん。それで済まないんだが、彼女の面倒を見て欲しいんだよ」


 それも何となく、想像できていた。参ったな、と再び頭を掻いていると、牧野は身を乗り出してくる。


「桜田門でやっていくには、華族への理解が必須だ。下手に出るだけ出て、油断したところで証拠を掴んでふん縛る。あれは快感だ。だろう?」


「さぁ。僕は――」


「あぁ、君も華族だったな。しかし平民のやる気は、そういう所から出ているんだよ。彼女にもそれを味わわせたい。今回は華族の扱い方を学ぶいい機会だ」


「それなら牧野さんが直接指導すれば――」


「俺は君や知里ほど鋭くないんでな。お手本にもならん。あいつは、自分より賢い存在があるというのを知らなきゃならん。でないと大人しくならんさ」


 かもしれない。牧野警部は鋭くはないが、十分に賢い大人だった。それが理解できないようでは、とても出世は望めない。


「わかりました。しかし――こういう可能性は考えた事がありませんか。『彼女は僕よりも優秀』」


「それはないさ」そして牧野警部は立ち上がってファイルを差し出すと、随分と晴れ晴れした表情で言った。「あいつは上手く言いくるめてそちらに行かせる。じゃあ頼むよ」


 それはない、か。


 利史郎は思いながら資料を受け取る。昔からそうだった。誰も彼も、利史郎が直感的に理解できることに、なかなか辿り着けない。当然のことを説明するだけで賞賛される。そして次から次へと困りごとが持ち込まれ、気がつけば少年探偵と呼ばれ帝国中を駆け巡る事になってしまった。


『気の毒だな。自分の手柄を誇示しなきゃならん立場は同情するが、それに何の意味がある?』


 ふと、レヘイサムの声が蘇ってきた。


 大変だねと気遣われることはあったが、気の毒と言われたことはなかった。


 気の毒。僕は可哀想な存在なんだろうか?


「警部、レヘイサムは死刑ですか」


 去り際に尋ねた利史郎に、牧野警部は肩をすくめた。


「三十六人も殺してる。知られてる限りでな。当然だろう」


 どうにもレヘイサムに関しては、直感があてにならない。それで確認してみたくなっただけなのだが、牧野警部は不安げに首をかしげた。


「何か、見落としがあるか?」


「いえ。気にしないでください」


 それでは、と言い残し、利史郎は部屋を出た。一つの事件は終わった。そして次の事件が目の前にある。それに集中するのが、利史郎に期待された役目だ。

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