キリエ
一方、死の森でのことです。
幽霊はリアムの心臓へ手を伸ばしていました。幽霊の冷たい指先がリアムの輪郭をなぞります。そしてリアムはたちまち過呼吸になります。しかしリアムはどこか安心していました。ぼくさえ死ねば、母さんの命が救われるんだ!
それでもまだ幼いリアムにとって死はどうしようもなく恐ろしいものでした。
「さあ、早くあんたの命をあたしにおくれ。あんたの父親への恨みを早く晴らさせてちょうだい!」
幽霊はリアムの胸に指先を徐々に近づけていきます。彼女の羽織るヴェールに触れてリアムは震え上がります。そしてリアムはぼんやりと思いました。もうぼくは死んでしまうのだ。最期にもう一度母さんの作るご馳走を食べたかったと、少年はひどく後悔しました。
すると、耳元で勇ましい遠吠えが響きました。あたたかな金色の毛が凍えた頬を撫でます。バディがリアムを守ろうと幽霊に立ち向かっていたのです。
「汚らしい老犬があたしに敵うものか。さっさとおどきなさい。あたしは早く命を奪いたいのに!」
そして幽霊の手がリアムの心臓に届かんとしたとき、バディは幽霊の青白い腕に飛びかかりました。幽霊は叫びます。彼らは心臓に触れることで命を奪うとともに、自らの体も消えてしまうのです。
幽霊がすっかり消えてしまうと、とっさにリアムはバディへ近づきます。
バディは死んでいました。幽霊に殺されていました。リアムを守ろうと身代わりになってくれました。
リアムは泣きだします。大切な弟分が自分を置いて逝ってしまったのですから!
ひとしきり泣いたとき、リアムは森の奥でなにか光るものが自分を見つめていることに気が付きました。
また幽霊がでてきたのかと思いました。しかしその光は幽霊とはちがって、暖かなものでした。
光はリアムに近づきました。光はリアムと同い年くらいの少年の輪郭を帯びて、やさしく澄んだ声で話しかけます。
「どうか泣かないで。君のご友人はちょうど命が尽きるときだったのだ」そして光はリアムの頭を撫でて続けます。「そしてあの幽霊は君の父親に殺されたと言っていたね。でもカインはベトナムの人々を殺すことはなかったんだ。――傷つけたことも罪にはなりうるけどね」
「ぼくの父さんは悪い人なの?」
「うん。ただ戦争の酷いことはね、どんな善人でも罪人に変わってしまうことだ」
「ぼくの父さんは、地獄におちてしまうの?」
「そうだね」光はリアムの手を引きました。「わたしの名前はキリエ。ご友人の代わりといっては難だが、君をあの教会へ導こう」
キリエ。その清く高貴な名をリアムは物心つかない頃からずっと大切にしていたような気がしました。
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