第22話 犠牲とはなにか

 ベアが斧で破ったガラス窓からクロウは脱出した。屋根に登りながら、頭の中で付近の地形を復習さらっていた。

 仲間、特にベアが捕らえられたのは痛いが、自分が自由であればまだいける。ベアたちを逃がすことも。

 クロウは気配に気付き、屋根の上で駆け跳躍した。だが上着を掴まれた。とっさに片足で相手を蹴った。離されたが、自分も屋根の上に転がった。

 クロウを捕らえようとしていた憲兵も、態勢を立て直しクロウに向かってきた。体格に差がある。捕らえられると負ける。先日、女の留探士を捕らえようとしたときにもこの憲兵はいた。レファローヤ姓の男だ。クロウは己の腕に書いてある、対レファローヤの術式を放った。しかし相手は止まらなかった。

 クロウは飛び上がって足を蹴り上げたが、相手に避けられた。だが向こうが足を引いたので間合いが生じた。

 クロウは駆け、飛び上がって、煙突のはしごに掴まった。

 相手はここまで飛べないだろう。身の軽いクロウでギリギリの距離だった。

「なんだあんた、術士でないのか」

 クロウの問いに対し、プラチナブロンドの髪の憲兵は応えず黙ってクロウを見上げている。さっきクロウが蹴ったせいで、彼の額は擦れて赤く滲んでいた。それを押さえることもせず、制服の男は鋭利な視線をクロウに向けていた。

「レファローヤ姓で無術ってのは珍しいな。それなのに憲兵とはやるもんだ。しかも俺が上から逃げるって読んでたね。俺はあんたみたいな男は好きなんだけど、今は遠慮したい」

「不思議なことを言う。ならば何故、弱い女性を拐かすことなどした」

 クロウは半笑いになった。無視されるか罵倒されるかどちらかだと思っていたが、対峙の憲兵の表情には憤りと共に、純粋に疑問もあるようだった。

「ケストリア嬢のことなら、教えてもらったら無事解放する予定だったよ。あの手の人間は口封じなんぞしなくても、事件のことは思い出したくない、巻き込まれなければもう結構というタチだからな」

「大事の前であれば少々の犠牲も厭わないということか」

「お互い様だろう。大きな力を封印したまま眠らせて、一部の人間だけが術の恩恵に預かる今の世も同じだ」

「同じではない」

「同じだよ、俺たちにとっては」

 数人、警官も彼の後方からやってきた。

「降りろ。そこからもう逃げられないだろう!」

 警官がクロウに叫んだ。

 言う通り、すでに下にも警官が集まってきている。クロウは指笛を鳴らした。

 間もなく飛蛇がくる。それで郊外に出てしまえば逃げられる。警官たちはまだ、自分達が有利だと思っているのだろう。犬のように待てさえすれば犯人が落ちると。

 クロウはニヤリと口角を上げた。飛蛇の羽音が聞こえた。

「シェルト!」

 憲兵の男が叫ぶ。彼は手を挙げてから、わずか前に身を屈めた。その後方から、トライカラーのボーダー・コリーが駆けてきた。憲兵の男の背を踏み台にし、一直線にクロウの元へ飛びかかる。

「くそ!」

 ボーダー・コリーはクロウの腕を噛んだ。クロウは手を離してしまい、下に落ちる。受け身は取ったが、すでにやってきていた警官数人に抑え込まれた。

「シェルト、待て」

 視界の端で、ボーダー・コリーが牙を向いてクロウを睨んでいる。クロウは体の力を抜いた。

「やられたねえ」



◇◇◇



「あの男も、アーサー様たちが捕らえたようです」

 サリサの前でルシウスが、屋根の上を見ながら報告した。ミランに聞いたことがある。ルシウスは、付近であればどういった生き物がどの辺にいるのか感覚で分かるのだそうだ。そして既知の人物であれば誰が付近にいるのかも分かる。だから、ドアを開けて一番にサリサを確保することができたのだろう。

「収束」

 戸の外から声をかけられ、ルシウスと警官は剣を降ろし鞘に収めた。

「ケストリア様、これから病院へ向かいます。検査ののち、事情徴収を行います。ご協力お願いします」

 サリサはかくりとうなずいた。

「お、おわった、んですか?」

「全員確保したようです」

「フリスは気絶しているみたいですね。立てますか」

 サリサはすぐ近くのバスタブに手を置いてなんとか立った。ルシウスが介助すべきかどうか迷っているようだ。サリサは大丈夫そうだとうなずいて、怖々歩き、警官の後をついて戸の向こうに出た。

 部屋は思った以上に荒れていた。サリサが座っていた椅子は粉々になっているし、ベッドはマットの部分が破れている。窓の方はガラスが全て割れ、バルコニーも一部床が落ちていた。

 扉付近で、フリスが倒れていた。医者らしき人物に脈を取られている。ルシウスは気絶していると言っていたが、あんな事態になったのだ。冷静にいられるわけがない。

 本当に、少し前はあんな事態だったのだ。信じられない。

 体が震えてきた。ルシウスが何か言っているが、聞き取れない。目の前も暗くなってきた。それからルシウスがサリサの傍を離れたことにも気が付かなかった。

 耳鳴りがする。

「サリサ殿」

 アーサーの呼び声がして、サリサは顔を上げた。彼はルシウスの後ろから扉の向こうから現れ、心配そうな顔をしてこちらに向かっていた。ルシウスはアーサーを呼びにいってくれたのだ。

 視界に色が戻ってくる。

 ほっとしたそのときだった。

 サリサはフリスと目が合った。

「……え」

 彼は血走った目でサリサを睨み医者を振り払った。立ち上がり、転がっていた椅子の脚を拾ってサリサの方へ投げた。

 サリサは思わず足を一歩引いた。椅子の脚は当たらなかったが、ガラスの大きな破片に足を取られバランスを崩した。

「サリサ!」

 アーサーがやってくる。サリサはとっさに背に顔を向けた。壁がない。足場も。バルコニーの下で人が集まっているのが見えた。

 手がアーサーに掴まれた。

 彼に抱き込まれたとき、アーサーの体躯が硬直したのを、彼の腕越しに受けた。

「アーサー様!」

 ルシウスの緊張した声がした。

 アーサーの肩越しに、フリスの姿が視界に映った。彼は必死な顔をして、ガラスの破片を振りかざしている。すでに先が、赤く染まっているそれを。

 そして振り下ろした。

 もう一度、サリサを抱えるアーサーの体がびくりと震えた。

 まさか

 サリサの顔に生暖かいものが落ちた。

 赤い。


 ガタンと大きな音が立ち、同時にいくつもの足音も聞こえた。

 サリサの目の前の、アーサーの白いシャツが赤く染まっていく。

 またも衝撃。これは横に倒れたからだ。痛みもあった。だが横に、無防備に倒れたならもっと痛みがあるはずだ。

 ほとんど痛くない。

 アーサーに守られているから。

 どうして。

「確保!」

 警官の、半ば叫んだような声がした。

「アーサー様! サリサ様!」

「ルシウスさん?」

 サリサは聞き知った声で我に返り呼びかけに応じた。

「サリサ様、どこか怪我は!」

「わ、わからない、何、何が、何がおきたの?」

 言いながら、サリサは自分を濡らすあたたかいものが何か実感していた。

 血だ。

「サリサ様、動かないで!」

 動きたくても、アーサーにしっかり抱えられていて動けない。

「レファローヤ、聞こえるか?」

 アーサーの上官の声が聞こえた。彼の声は逼迫している。

「レファローヤ! ケストリア嬢は無事だ。シシロアも確保拘束された! 聞こえるか? 手を離せ!」

 アーサーの反応はない。彼はサリサの服を堅く握っていた。サリサができるだけそっと、可能な限り首を動かした先で、アーサーの上官、アレックはサリサに険しい顔を向けていた。

「ケストリアさん、申し訳ない。部下の治療の為にあなたに離れて頂く必要がある。彼の手が硬直していてあなたの服を離せないようです。服を切っても構いませんか」

「構いません。お願いします!」

 サリサは叫んだ。すぐにブラウスの背にナイフが入り、サリサの服は背が開けられた。背側にルシウスが立って、サリサが袖を抜いた瞬間、彼は自分の上着をサリサの肩にかけてくれた。

 だが、サリサが体を抜いた瞬間、アーサーの腕が動いた。

「アーサ……」

 彼の手がサリサを探す。目の前の事態についていけず、体を離すことを止めてしまったサリサの腕に、アーサーの指が触れた瞬間、彼はサリサの腕を掴んだ。

「……嘘だろう……?」

 アーサーの後頭部に、布を宛てている警官が震えた声で囁いた。

「もういい! レファローヤ!」

 アレックが叫ぶ。サリサもまたアーサーに聞こえるように、彼の間近まで顔を寄せた。

「もういいの。アーサー、お願い、私はもう大丈夫だから、離して!」

 アーサーの碧青の目がサリサと一瞬合った。

 彼の瞼が閉じられた。

 手が離れた。彼のあたたかさも同時に体から離れた。

 サリサはルシウスに腕を取られ、部屋の中の方へ連れられた。その際も、サリサはずっとアーサーを見ていた。医師から応急処置らしきものを受けているようだが、人が集まっていて見えない。何度もつまずき、とうとうルシウスに抱き込まれた。

「サリサ様、病院へ向かいましょう」

「……いや、行きません」

 サリサはルシウスの手を払い、逆に彼の手を掴んだ。

「今から研究院に行きます。……ルシウスさん、お願いします。ここはどこか分からない。私を院まで連れて行ってください!」

 ルシウスは目と口を丸くした。

「い、いや、ダメですよ」

 ルシウスは助けを求めるように、一緒にサリサに付いていたアレック中尉を見た。アレックもまた強ばった顔をしていた。

「ケストリアさん、病院へ」

「お願いです。アーサー様を助けたいんです。あの術が、院でなら使えます」

 アレックは唖然と口を開けた。

「……いやしかし!」

「行かせて下さい!」

「駄目だ、ケストリアさん、あなたの保護を優先する!」

「どうして、アーサーを助けられるかもしれないのに!」

「レファローヤがあなたの無事を一番に願っているからだ!」

 アレックは半ば叫びながら、サリサの前に立った。

「まずは病院へ行きなさい。そして服を整えるのです。それを見届けるまであなたに院へ行かせません」

 アレックは、顔を強ばらせている近くの憲兵に声をかけた。アーサーと同じ階級章を付けている。

「彼女の警護を頼む。病院まで同行せよ!」

 命じられた彼は、さっと敬礼をしたあと、きびきびとサリサとルシウスを追い立てた。


 一時間後、サリサは病院でミランと合流した。彼女はいつになく真剣な顔をしてサリサを待っていた。検査と治療は済んだが、まだアーサーの血が完全に拭き取られていないサリサの格好を見て、ミランはさらに顔を強ばらせた。

「まず私の家に行こう。そこでお風呂に入って。そのあいだ、私はアーサーがどうなっているかできるだけ調べてみる」

 サリサはミランの好意に甘え、彼女の家で身支度を調えたあと、憲兵の警護を伴い研究院まで来た。サリサが検査の途中で、院にいるハロルズ教授へ宛てた手紙は、憲兵に託し届けてもらっていた。サリサが正面玄関から入ると、ハロルズをはじめ、他の教授陣もフロアで待機していた。

「審査中ではあるが、院内で行われることに関し、外部の干渉はない。我々は許可する。しかしケストリア留探士、レファローヤ少尉のご両親の了解と署名を得ねばならん。かつ、彼を生きた状態でここまで連れてくる必要もある。そちらに関しては、我々には一切権限がない。ミラン・レファローヤ留探士からの情報を待つしかない」

「はい」

 しかし何の報告もこない。日が落ちて、ようやくにして院にやってきたミランの顔は暗かった。

「ミラン……?」

「アーサーのご両親と会えない。不在みたいで、どこに向かわれたのか、……それに、アーサーも今どこにいるのか分からない」

 サリサは息を詰めた。

「どうして……、どういうこと?」

「分からない。父にも協力してもらって、伯父にも問い合わせしてみたんだけど、そこからも連絡がなくて」

 ミランの伯父は八卿の当主である。国王とも直接に話ができる立場にいる。そこから憲兵隊への交渉も可能なはずだが。

「連絡が、ない?」

「そうなの。おかしい」

 ミランは、実家で連絡を待つと言い残し戻った。サリサは研究院で待機している。いつ、アーサーが運び込まれてもいいように。

 サリサは必ずしもここにいる必要はない。術式の設計と構築を行ったのは確かだが、それに沿って術を行うのは術士となる。サリサにはその力がない。

 だがしかし、本人不在のアーサーの家で、眠って待つなどできると思えなかった。

 そろそろ日が変わるかという時刻になり、憲兵の一人がサリサを迎えにやってきた。

「ケストリア様、レファローヤ少尉の屋敷にお戻り下さい」

「……でも」

「レファローヤ少尉宅執事の、キリウ殿のご伝言です。シェルトが不安がっているので、ケストリア様に戻ってほしいと仰ってます」

 サリサははっとして立ち上がった。そういえば、シェルトのことをすっかり忘れていた。憲兵の警護のもと、サリサはアーサーの家に戻った。玄関を通るなり、シェルトがやってきてサリサの前に座った。

「お戻りをお待ちしておりました」

 キリウに静かに労られ、サリサは意を決し忠実な執事の顔を見た。

「アーサー様が……」

「事情はお伺いしております。サリサ様、本日のところはお休み下さい」

 サリサが休まないと。キリウも休めない。

「シェルトを、部屋に入れても、いいでしょうか」

「恐らくですが、アーサー様もそれをお望みでしょう」

 サリサはキリウに頭を下げ、自分の部屋に入った。シェルトも一緒に中に入り、サリサのベッドの足下に伏せた。

 サリサも横になった。暗い部屋の中で、横になったままベッドの端に移動し、シェルトの陰をずっと見ていた。

 翌朝、ほとんど眠らなかったサリサは、早々に着替え食堂にいた。できるだけ早く研究院に戻るつもりだった。だが、ミランがルシウスを伴いサリサを訪ねてきた。

 サリサが迎えに玄関に出ると、彼らは一礼した。二人とも、黒の服を纏っていた。

「……おはよう」

「おはよう。サリサ。残念だわ」

 足下で、シェルトがクウンと鳴きながらサリサを見上げた。

「アーサーが亡くなったの」

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