第20話 論文の著者を探せ

 どうして私はいつも、後になって気が付くのか。

 震えが来てしまい、サリサは自分の両腕を握った。ミランからもう一度声をかけられ、サリサは心配そうな顔で振り返っている彼女の前へ駆け寄った。

「ミラン、相談があるの」

「なに?」

「このあいだ、官舎の私の部屋に誰かが入った形跡があるからって、今調べてもらっているところなんだけど、あれ、もしかしたらフリスさんかも」

「……は、え?」

「私が、両親から結婚を勧められた話を、彼は知ってたの。ミランから聞いたって言って」

「いやいや、言ってないよ」

 心外とばかりに顔を曇らせたミランに対し、サリサも分かっていると首を縦に振る。

「うん。ミランと一緒に飲んだあの日に私はミランに相談したんだけど、ミランは忘れていたでしょう。おかしいって思ってたんだけど、私、官舎に両親からの手紙を置いていて。もしかしてそれを読んで知ったのかもしれない」

「……あ」

 ミランの顔も白くなっていった。

「アーサー様に相談したいんだけど、一人では行動しない方がいいから。ルシウスさんから伝えてもらうことができるかな」

「いいよ。待ってて。先生に許可取ってくる。一緒に来て」

「お願い」

 ミランとサリサは廊下を早足で歩きはじめた。ミランの所属する講座の研究室の手前に、ハロルズ教授が責任者の、サリサたちが所属する研究室がある。二人はそこを通ったとき、窓の向こうに人影を見た。

 ハロルズではない。

「……あ!」

 ミランはその影の正体に気付いたとたん、研究室の扉へ向かった。

「……ミラン、待って」

 サリサの静止を聞かず、ミランは勢いよく部屋に入っていった。

「あなた、なにやってんの!」

 室内にいたのはフリスだった。彼はサリサの机の中を引っかき回していた。サリサの体に鳥肌が立つ。勝手に触られたのも嫌だが、それより、とうとうフリスは取り繕うことをしなくなっている。

 それだけ、追い詰められているのでは。

 フリスは振り返り、サリサと目が合ったとたんに嗤った。

 ミランが手を挙げた。雷の術でフリスの動きを止めるつもりなのだと思ったのと同時に、フリスも手を挙げた。

 ミランの手が止まり、彼女はそのまま前のめりになって床に転倒した。

「ミラン!」

「動くな。何も喋るな」

 フリスは、床にうつ伏せになったミランの首根を押さえ、彼女の頭上に茶色の瓶を掲げた。

「硫酸だ。ケストリア、お前が何かするとこれをこの女の顔にかける」

 ミランは悔しそうな顔をして目を閉じた。フリスはミランを見下ろし鼻で嗤う。

「さすがレファローヤ。世界中の人間がお前の力を知っているからな。術を封じるのも簡単だよ。……奢りが身を滅ぼすとはこのことか。おい、ケストリア、ここまで来い」

 ミランが目で何かを訴えているようだが、サリサには分からない。

「早く来い! こいつの犬が到着するまで時間を稼ごうと思うな。今から五を数えるまでに来ないと、こいつの顔に硫酸をかけるぞ!」

 ミランがまた悔しそうに目を閉じ、歯を食いしばった。ミランとルシウスは主従の契約を結んでおり、ミランの危機を傍にいなくても知ることができる。そういうことだったのかと理解したが、それも読まれていた。

「五!」

 サリサはひっと小さく悲鳴を上げ、フリスの方へ歩いていった。首のチョーカーが動き、金具が当たってかちりと鳴った。

 フリスはサリサの上腕を掴んだ。それだけで息が詰まる。このまま気絶してしまうのではと思ったそのとき、フリスはサリサの手を引きながら瓶を傾けた。

「やめて!」

 サリサの静止は無視され、瓶の中身がミランの顔に零された。

「ミラン!」

 手を伸ばすが、サリサは手を引かれ、部屋の奥へ連れて行かれる。

 彼女の声が聞こえない。悲鳴さえ出すことができないのか。

「なんてことを」

 フリスを睨んだが、彼は嗤っていた。非力なサリサの抵抗などものともせず、彼は非常扉を開き階段から降りていく。

 サリサは空いている左手で、自分の首の後ろに手を回した。金具が取れそうにない。チョーカーを引きちぎるかと思ったとき、金具が外れた。

 サリサはチョーカーを地面に落とした。



◇◇◇



 アーサーの後方で、椅子に腰掛け大きな白衣を頭から被ったミランが、机に拳を打ち付けた。

「悔しい!」

 アーサーが研究院に入ったおり、すでにサリサは連れ去られていた。アーサーより先んじ、ミランの危機に院に入っていたルシウスもここにいて、顔の隠れた主人の表情を代弁しているかのように歯を食いしばっていた。

 フリスが硫酸だと言った、サリサへの脅迫に使われたくだんの茶色の瓶に入っていたのはただの水だった。

「よくよく考えれば、使用のときに申請が必要な劇薬が、理論しかやってないハロルズ教授の部屋にあるわけなかったのに!」

 とはいえ、本当に水だと分かったのは後々になってからだ。ミランは、駆けつけたルシウスと、騒ぎを聞いた他の留探士たちに発見されすぐ流水を散々浴びせられた。劇薬を洗い流す為で、そのときはやむなしとミランも文句を言わなかった。使われたのが水だと分かり、いろいろ含めて怒っている。

「レファローヤ捜査官!」

 アーサーは警官に呼ばれ非常階段へ向かった。地上まで降りたところで、警官に地面を示された。今朝サリサが付けていた、両親からの贈り物のチョーカーが落ちていた。

「こちらより北は植物園になります」

 植物園は一部一般公開されている。そこから抜けたのだろうが、その先はどこへ向かったのか分からない。王都周辺は検問を開始しているが、潜伏される可能性もある。

「他に痕跡は」

「今のところ、このチョーカーのみです」

「回収しないでほしい」

「はい。まだここに」

 アーサーは非常階段から研究室に戻った。

「ミラン、具合は」

「悪くない。腹は立ってるけど」

「ルシウス殿を少しお借りしても問題はないか」

「私は大丈夫」

「私にできることがありましたら何でも仰って下さい」

 ルシウルの申し出にアーサーはうなずいた。

「私の家からシェルトを連れてきてほしい」

 ミランが顔を上げた。

「サリサが、何か残してたの?」

「チョーカーがあった。金具が破壊されず解かれている。恐らく、彼女が自ら外したんだろう。ルシウス殿、頼めるか」

「はい」

 彼は返事と共に踵を返していた。

「サリサ、えらいよお〜。掴まれてたのに、頑張った!」

 ミランが両手を組み、祈るような格好をした。



◇◇◇



 フリスはサリサを掴んだまま、植物園を抜けた。研究院のどの門も封鎖されているから、院の外に出ることはないだろうと考えていた。だが植物園は中で一般に公開されている場所と繋がっている。無理矢理に植木のあいだを抜けることが可能なのかもしれない。サリサはそのことに途中で気付いたが、情けないことに抵抗らしいものが一切できなかった。足を踏ん張ろうとしたら、手にもった茶色の瓶をちらつかされる。

 案の定、植木の奥で板壁の一部が外れるように細工されており、サリサはそこを通り抜けさせられた。

 ならば一般公開の場所で叫ぶのはどうかと、逃げる隙を狙っていた。

 人が通る場所に出る前に、サリサの前にさらに二人の男が現れた。

 細い体をしている手足の長い黒髪の男と、上背もある体躯のいい茶色い髪の男だった。黒髪の男はフリスとサリサを見て微かに笑い、サリサに対し会釈した。

 叫ぶなら今なのかと思ったとき、フリスが手を離し、サリサをその二人の男の、片方へ突き飛ばした。

「そいつに聞いてくれ。残りは知っているから」

 体躯のいい茶色の髪の男が無言で難なくサリサを抱えた。フリスよりよほど丁寧に扱ってくれたが、対人恐怖症のサリサには誰がどう自身を扱おうが辛いことには変わりない。

 そしてあっという間に、サリサは前で手を組まされ拘束されてしまった。口も塞がれる。

 抵抗も何もできなかった。情けなすぎて泣きたくなってきた。

 それに恐ろしい。一体これから何が起こるのか。

 とはいえ、サリサもなんとなく感づいている。フリスが関係しているのだから。しかし何故彼はこんなことを。

「僕はもう関係ないだろう。帰らせてくれ」

「そんなつれないこと言うなよ、フリス」

 黒髪の男は、首の後ろでくくった髪を揺らしながら、去ろうとしていたフリスと強引に肩を組んだ。

「だいたい、今回の審査中の論文は、お前さんが考案した術式なんだろう? お前の力に嫉妬した教授が、お前から取り上げたものなんだろう? ならお前も関係あるじゃないか。何謙遜してるんだよフリス大先生」

 フリスの顔が赤黒くなった。彼はなお動き黒髪の男から逃げようとしているが、黒髪の男はそれを許さない。

 何の話だとサリサがフリスに顔を向けると、彼は顔を背けた。

「クロウ」

 サリサを掴んでいる男が、黒髪の男を呼んだ。

「はいはい。じゃあ行きますか」

 言うなり、サリサの視界は真っ暗になった。何かを被せられたのだ。匂いから肥料が入っていた袋のようで、独特で猛烈な匂いに息が詰まる。咳き込んでいると担ぎ上げられた。

 気が遠くなってきた。


 気絶をしかけていたが、サリサは踏みとどまっていた。何か荷台のようなものに乗せられて運ばれ、また抱えられ、階段を昇っているような感覚を受けた。着いた場所で立たされ袋が取り払われた。手は拘束されたままで、口の覆いだけが取られた。

 大きな窓があり、ベッドがあり、机もある。扉が二箇所。場所から考えるに、片方の扉はバスルームに繋がりそうだ。

 普通の宿の一室のようで、サリサは日常の風景を見ながらぼうっとしていた。

 非日常の状況に頭も体も、サリサは何一つついていけず精神が摩耗している。

 サリサは椅子に座るよう身振りされ、素直に座った。仕方なくというよりは、そもそも立ち続けることができなさそうであった。足は自由だが逃げられるとは思えない。体が震えているのもあるが、狭い部屋の中、自分以外に男性ばかりが四人もいる。素人の女性のサリサが一人で対抗して出られるはずがない。ただ、一人、見知らぬ男は部屋を出ていった。残されたのはサリサと、フリス、大柄の男、そしてクロウと呼ばれていた黒髪の、背のヒョロ高い男だ。

 フリスは、大柄の男に肩を抱え込まれていた。彼は不貞腐れた顔をしていて、サリサと目を合わせようとしない。

 クロウがサリサの前に立った。それだけで恐ろしく、サリサは椅子をガタリと鳴らしてしまう。

「お嬢さん、えっと、お名前は、ケストリア嬢かな。怖いと思うのは当然だから、ゆっくり息をして下さいね」

 優しく言われてもハイそうですねなど安心できない。しかも何故自分の名を知っているのか。

 クロウは持ったノートを見ている。サリサははっとした。それらはサリサの実験ノートだ。表にナンバリングと日付、そしてサリサの名が書いてある。

 あれはハロルズ教授に預けたものだ。サリサの論文の草案──ハロルズと相談し、審査が終了し、第三者が悪用できなくなるよう術に制限がかけられるまではハロルズの研究とすることにした例の術式──の途中経過やメモが書かれている。

「早速ですけど、あなたの偉大なる大先輩であるシシロア留探士曰く、彼の壮大な研究の一部を、あなたが隠し持っているとのことですので、解いて下さいませんかねえ」

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