第15話 いつも後になって気付く
「倒れる前、研究院で何があった。ミランが言うには、フリス・シシロア留探士と部屋に二人だったと」
サリサは思い出し、顔をしかめた。その表情の変化を見て、アーサーはますます眉間に皺を寄せた。
「何をされた」
「何を、というか……き」
「き? なんだ?」
「……求婚?」
「なんだと?」
首に、彼に触れられた残滓が残っているような気がして不快だった。しかし、大きく何かがあったということはない、多分。顎を掴まれただけだ。不愉快極まりないが、事件と扱っていいものか。
アーサーは厳しい顔をしたまま、ベッドに座っているサリサの元まで来て、サリサの顎を指さした。フリスが爪を立てた場所だ。サリサは肩を震わせた。
「何か残ってますか?」
サリサは自身の声が震えていることすら気付かず、アーサーの返事を待った。
彼は口元を大きく歪めた。
「今はない。だが、貴女が倒れたと教えられ貴女の元に着いたとき、ここに爪痕があった。……触れられたのか?」
サリサはそこに手を当てようとして、止めた。自分の体なのに、穢れたものが残っている気がして触れたくなかった。
「はい」
「……それから?」
アーサーは喉からむりやりに絞り出したような声をしていた。
「そこからは何も。ミランが来てくれて、フリスさんが離れて、そのあとすぐに外に出て」
「そこで倒れたのか」
「私、倒れたんですね」
そこだけは他人に起こったことのように思えてしまった。
「それ以前は? 何かされなかったのか?」
特に、物理的に何かをされたということはない。やけにフリス自身を売り込まれたが、そんなことを詳しくアーサーに言いたくなかった。
「他は、特には」
「そうか」
アーサーの相づちも心なしか胡乱に聞こえる。
しばらく沈黙が流れた。アーサーは、身の置き所なく手を動かしているサリサを見ていた。
「湯を使うか?」
「はい?」
何を突然と思ったが、彼の言わんとすることを察した。提案されサリサも、フリスに触られた部分を洗ってしまいたくなり、そうなるとすぐにでも浴槽の中に入りたくなった。
サリサの表情の変化を見ていたアーサーは、大股で足を進め、おもむろに扉を開けた。
「キリウ。リノンをよこしてくれ」
アーサーが珍しく大声で命令しているのを目の当たりにして、サリサは目を見開いた。すぐにリノンがやってきてアーサーの指示を聞いている。半刻過ぎたくらいで浴槽にお湯が張られた。
「ありがとうございます」
サリサは礼を言ったが、アーサーはうなずいただけで何も言わなかった。
サリサは一人バスルームに入った。昼間に湯を使ってお風呂に入るなど、なかなかな贅沢だとは思ったが、その理由を思い出すと楽しくはない。サリサは特権に甘えて体を洗った。特に、首と顎の部分を。いくら洗っても気が済まない。だが、さすがにもうキリがないとも理解して、サリサは湯から上がった。儀式のようなものだと割り切るしかない。
服を着て部屋に戻ると、なんとそこにはアーサーがまだいた。椅子に座り足と腕を組んで、イライラとした顔をしていたが、サリサが出てきたのを見て組んでいた手を緩めた。
「もういいのか?」
「いいんですけど、アーサー様、ずっとここに?」
サリサに問われ、彼は顔色を変え姿勢を正した。
「済まない、確かに……」
「暇じゃなかったですか? 机の上の本を読んでも構わなかったですよ」
サリサは長くバスルームを使っていた。彼はあの格好のままでずっと待ってくれていたのか。
アーサーは口を開け、そしてまた椅子の背もたれに身を預けた。
「貴女の読む本は、私には難解すぎる」
サリサは笑い、そしてアーサーに頭を下げた。
「ありがとうございます。気分がよくなりました」
「それはよかった」
「あと、この部屋で待って下さっていて、ほっとしました」
アーサーはまたサリサがベッドに腰掛けるのを待ち、それから口を開いた。
「被害届を出してもいいが、受理されるかは難しいかもしれない」
「いえ、今回のことは、もう」
サリサは目を伏せたままで首を左右に振る。
「お腹は空いているだろうか。リノンがパンを焼いてくれている」
確かにいい匂いがしている。ハムとチーズも乗ったそれは美味しそうだった。食欲もわき、口にするとあたたかくて美味しく、結局ぺろりと平らげてしまった。
「ミランに言っていたが、貴女は、結婚相手を探しているのか?」
アーサーはサリサが食べ終えるまで黙っていたのだが、サリサがお茶のお替わりを注ごうとしたときに、代わりに淹れ渡したあとで彼女に問うた。
サリサは飲んでいたお茶のカップを下ろし、へにゃっと口を歪ませた。
「あー……はい」
「なぜ……」
アーサーは聞きかけたが途中で言葉を切った。
「いやあの、貴女がそう望むなら、私がとやかく言うことなど何もないのだが」
反応がミランと似ていたので、サリサは笑ってしまった。
「望むといいますか、両親に勧められまして、どうしたものかと」
「では、望んでいないのか?」
「全く望んでいないということも、ないんです」
サリサは仲のいい両親に育てられた。ああなりたいなと思ったことはある。
「でも、私は他人に触れられるのが怖いので、結婚をするのも難しいと思ったんです。だから」
「だから、誰か第三者に抱きついて耐性をつける手段はどうかと、貴女はミランに相談したのか。それについては私もミランに賛成だ。そんなことはすべきでない」
アーサーの声は心なしか憤っているように聞こえた。
「はい。無理でした」
「まさか、試したのか?」
「いいえ、試す前に。目の前に立たれただけでもう無理でした。アーサー様以外は駄目みたいです」
フリスが近寄って来ただけで鳥肌が立ち、触れられて気絶しそうになった。いや実際倒れた。さらに嫌悪感を消したいので入浴までした。そもそもサリサは彼が苦手であったが、話し安さでは悪い方ではなかったのに。
アーサーは、髪を手ぐしで後ろに流すような仕草をした。乱れていない髪を、彼はときどきそうすることがある。癖なのだろうか。
アーサーは少し隠った声で「私はともかく」と先んじて言った。
「それは無理を通していいことではない。ご両親には現状と、サリサ殿自身の考えも話をした方がいい」
「そうですよね」
現状。サリサはアーサーの意見を受け入れた返事をしたのだが、いざ今の状況を伝えるのは億劫だった。
もともと両親も、サリサが接触恐怖症なのは知っている。
いつもこうだとサリサは笑いそうになった。両親の勧めで、結婚しなければと、両親のようになりたいと思いつつも、腑に落ちず、何かと理由を付けて逃げようとしていた。
両親は、自分の状況を知っているはずなのに、結婚を勧めてきたことで、何故か裏切られたような気になってしまったのだ。
今になって自分の違和感に気付いた。いつも自分はこうだ。
──いや、見ないようにしていた。
愛情を注いでくれた、「今の」両親への裏切りのように思えたからだ。
サリサは目を伏せ考え込んでいた。アーサーもそれ以上何も言わない。何か返すべきかと顔を上げると、何故かアーサーは顔をしかめていた。
「アーサー様? どうかされました?」
「私も、本当は貴女にこんなことを言える立場ではない」
彼は自分を恥じているような言い方をしていた。
「かくいう私も、自分の両親といずれ向き合い話をしなければならないことを、先延ばしにしている状態だ」
サリサにとって思いがけない話だった。一瞬、アーサーがサリサの罪悪感を和らげるために、話を合わせてくれているだけではと思ったが、彼はそんなその場しのぎを行うような人物ではない。
彼は、床に視線を置いたままで話を続けた。
「いい機会だから、私も両親を訪ねてみようと思う」
いかにもアーサーらしい、などサリサは思ってしまった。堅物で、誠実で、他人にとやかく言うなら自分が率先して見本を見せようという気概のあるひとだ。
尊敬できるのだが、もう少し息を抜いてもいいのではと思った。彼が心配だった。未熟な自分に心配されても、アーサーは苦笑いをするだけだろうが。
「アーサー様は、ご両親のご自慢の息子さんだと思いますよ」
つい自分の立場も忘れ、結局サリサはアーサーを慰めてしまった。予想通りアーサーは苦笑した。
「だといいな」
以前にも同じような会話をした。あのときも、アーサーはこんなふうに自嘲したようなことを言った。アーサーはサリサに対し緩い笑顔を見せた。
「貴女も、ご両親のご自慢だろう」
彼も、昨日に馬車内で交わした話を思い出したようだ。同じことを返されてサリサも笑ってしまった。しかし笑みをひっこめて、膝の上の自分の手を見た。
「だといいです」
「サリサ殿」
沈んだ物言いに、アーサーも気付いたのだろう。彼の気遣わしげな呼びかけに応じサリサは顔を上げた。
「自信がないです。私は今回のことで、自分が恵まれているのに、そこに気付かずやりたいようにしていたと分かりました」
アーサーは無言でサリサの言葉の続きを待った。
「両親も、研究院に入ることを少し反対というか、……いや反対ではなかったです。喜んでくれたんですけど、とても心配していて。だから院の近くに家を買って、メイドも遣わせようって言ってくれたんですけど、私が必要ないって言ったんです」
「貴女が、人と一緒にいることが苦手だからだろう」
サリサはしばらくしてから、小さく左右に首を振った。
「それだけじゃないんです。なんだか、そこまでしてもらうのが申し訳ない気がして」
「申し訳ない?」
サリサはうなずく。
本当は、ずっと誰かに聞いてほしいと思っていた。言えなかったのには理由がある。怖かったのだ。
だが、アーサーであれば、差別したり偏見を持ったりせずサリサの話を聞いてくれる気がした。内心でどう思っていようが、態度を変えたりしない、彼はそういう人だという安心感がある。
「私は、こどものときに学校に通えなくなって、ずっと家で勉強をしていました。両親が家庭教師を付けてくれて、外の学校へ行けるようになったのは十三になったときでした」
「高等学校から」
「はい」
「しかし、それは、私にはむしろすごいことだと思ったが。あなたは基礎をしっかり学んだからこそ、国で最高峰の研究機関に入ることを許されたのだろう?」
サリサは目を見開いた。
「あ、え?」
驚いたサリサの顔を見てアーサーは苦笑した。
「そこは自覚がないのだな。なんとも貴女らしい」
サリサは確かに、そのように考えたことはなかった。小さな頃から迷惑ばかりかけてきたという思いしかなかった。
「私は、そういうことで迷惑をかけてしまったので、研究のための家を用意してもらうのも申し訳ないって思って。これまでにかかったお金も、いつか返したいと思っているんです」
官舎に住み、給与の大部分は貯金をしている。
アーサーは不可解と不愉快とを混ぜたような顔をした。
「返すとはどういうことだ。ケストリア家の経済状況はそこまで逼迫してはいないだろう。確か当主の、貴女の父上は流通の仕事をされている。事業は上手くいっているようだが」
「そうです」
あまり意味がないことは、サリサも気付いていた。
「それに、そうして両親の心配を無視して官舎を借りて、それでいいと思っていたんです。でもこうして危険な目に遭って、両親の言いたかったことが分かって、自分はなんて馬鹿だったんだろうって。独り立ちした気になっていただけだったんです」
「サリサ殿は、どうもご両親に対し大きな負い目がある気がする」
アーサーの考察を聞き、サリサはアーサーの、ターコイズブルーの目を見つめた。不思議そうに、そしてサリサのことを深く気にかけてくれている彼の目を。美しい目を見て、それで告白の勇気をもらってからうなずいた。
彼に、自分のことを知ってほしい。
「私、あの二人の本当のこどもでないんです。だから、いっぱい受けている恩を返したいと思っているんです」
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