第14話 待っていなかった求婚

 清潔なシーツに包まれ目覚めた朝、時計を見るとまだ早かった。しかも随分暗かった。もう一度眠る気になれず起き上がり、サリサはカーテンを少し開けて外を見た。空がどんよりとしている。今朝は曇りのようだ。下方に視線をやると、シェルトが屋根の下から顔を出した。

 そしてアーサーもいた。彼はシェルトの前に座り愛犬の背をわしわし撫でていた。昨日念願のシェルトの背を撫でることができたが、本当にフワフワで心地がよかった。やみつきになりそうだ。

 アーサーはまた、シェルトの首に顔を埋めていた。

 ぼんやり眺めていると、やはり彼はそれからしばらく動かない。未だに、あれは何をしているのかサリサには分からない。

 私もやってみたいかも、とサリサは、彼の姿を見ながら思いに耽った。


 それから三時間後、サリサは研究院にいた。ハロルズ教授の研究室に入ったとき、部屋は無人だった。休日なので先輩のフリスも出院していないようだ。規定では休みの日なのだが、研究院ではそれがきっちりと守られていることはない。体調に不調を来すまで根を詰めない限り、個人の采配に任せているという状態だ。

 アーサーとは今朝、院に向かうのは止めた方がいいと言われ、軽く押し問答となった。昨晩のやりとりもあり、後悔のある空気が互いの中に残っている──少なくともサリサの中にはあった。最終的にはサリサが言い勝ち、というよりは彼の優しさにつけ込んだ形で、サリサの希望は叶った。アーサーはかなり渋い顔をしていたが、彼は研究院まで送ってくれた。

 休みなので書庫は個人で鍵を開けなければいけない。サリサは書庫へ向かった。一昨日にやり残していた資料はほぼ調えられた。一息ついて昼食前に研究室へ戻ったとき、フリスがいた。

「おはようございます」

「おはよう。休みなのに早いんだね」

 フリスの挨拶に含むところはなさそうだが、サリサはかなり緊張してきた。一昨日の一件で彼のことが怖くなった。だが怖いので出て行って下さいなど言えるわけはなく、サリサは曖昧にうなずいた。

 フリスはサリサの方へ歩いてくる。はっきりと身構えたサリサの前で彼は足を止めた。

「サリサさんのためにお茶を淹れたんだよ。少し休憩したらどうかな」

 何故、お茶など淹れたのだろう。彼はハロルズのためにそうすることはよくあるが、サリサに対し、その手の面倒をみたことなどこれまで一度もなかったのに。

 無下にしていいものか。彼の淹れたお茶を飲むところを想像してみて、とてもできないと思ってしまった。

「……あの」

 断ろうと思ったが掠れた声しか出ない。

「サリサさんは、結婚相手を探しているんだってね」

 聞かれた内容について、思いもしない相手から問われたことでサリサは動揺した。

 手が痺れたような感覚がし始めた。

「どう、して」

「レファローヤ留探士から聞いたんだよ。相談されたって感じかな」

「ミランが」

 サリサは愕然とした。私的なことを何故、第三者に言ってしまうのか。口止めはしなかったので、ミランに落ち度はないと思いつつも、サリサは裏切られたような気になった。

 そして窮地に陥っている。

「相手がいないなら、僕のことを考えてくれないかな」

 さっきから彼の言動に対し何故としか出てこない。

 結婚相手として見るなどありえない。今までフリスはそんなそぶりさえ見せたことはなかった。単なる同僚であってそれ以上でもそれ以下でもない。彼は礼儀正しくはあったが決してこちらに近づこうとしなかった。壁さえ感じていて、サリサはむしろその距離感がありがたかった。

「僕も君と同じで、八卿の派生だよ。相手として悪くないと思う」

 フリスはサリサの動揺など意に介さず、自分のことを話している。声に感情が見えない。誘っているというより、彼の研究の見所を大勢の聴衆に対して説明しているようだ。

 視線も合っているようで合っていない。本当にサリサに話しかけているのか疑わしいほど。

「君と同じで、ハロルズ教授の研究に興味があって、ここにやってきたんだ。共通の話題もある」

 異様さに、それでなくとも近くに他人がいるだけで緊張するサリサに、今の状況は恐怖以外のなにものでもない。

「……そこを、どいて」

 サリサの怯えた小声は相手に届かなかった。

「僕と結婚したら、君は家にいたらいいよ。僕が君の仕事を引き継ぐ。……君を一番理解してあげられるのは僕だ。僕が最適だ」

 そんなことはない。今、恐怖を感じているサリサに何も気付いてくれていない。彼なら気遣ってくれた。

 アーサーなら。

 昨晩、彼はサリサに詰め寄ってきた。だがこんなにも恐ろしくはなかった。ただ、どうしてあんなにも辛そうだったのか。そればかりが気になった。

 そして自分の不甲斐なさと。

 ふと、サリサの思いがアーサーに向いた。目の前で熱弁を振るっているフリスのことから意識が逸れた。

 フリスは、そんなサリサを見て黙った。ふっと灯りが消えたかのように無表情になったかと思うと、口を歪ませ奥歯を噛んだ。

 こわい

 フリスの怒りを感じ取ったとき、サリサは顎を掴まれた。彼の指と爪の先がサリサの頬に食い込む。そんな痛みさえも、恐怖の前にかき消された。

 フリスの手がさらに伸びてくる。

 サリサは拒むことも、動くことも、息をすることもできなくなった。

「サリサ〜!」

 場違いなほどに陽気なミランの声が聞こえた。彼女はハロルズの教室の戸を開け、勢いよく部屋に入ってきた。

 そのときにはフリスはサリサから離れ、距離を取っていた。

「来てるって聞いたよ〜。ご飯食べにいこ〜!」

「やあ、レファローヤさん、いらっしゃい」

 フリスは何事もなかったかのようにミランに挨拶をしている。穏やかな笑顔だ。サリサはそれを放心して見ていた。

 さきほどの彼とは別人のようだ。

「おじゃましてます」

 ミランも、彼に穏やかに挨拶をしている。あんな彼に。

 ミランも、フリスに私のことを話した。

 どうして。

「サリサ、行こ〜。何食べる〜?」

 サリサは呆然としながら立った。行きたいと思っていないが、フリスの傍にはさらにいたくない。鞄を持ち、サリサは足を進めた。

「いってらっしゃい」

 偽善的な挨拶が背に投げられた。当然、反応する気など起きなかった。

 目の前にミランの背がある。どこを歩いているのか分からない。

 風の感覚がするということは、屋外に出たのだろうか。

「サリサ?」

 ミランの声が遠い。


「サリサ殿」

 サリサははっとして目を開いた。

「よかった!」

 すぐ近くで、ミランが安堵の声を出していた。だがサリサは、目の前にいるアーサーしか見えていない。ミランの声はどこからなのか。

「アーサー様……、ミランも?」

 彼はサリサの問いかけに答えず、厳しい顔で彼女の顔を覗いている。

「そのまま」

 何がそのままなのかと思って、体を動かそうとして、自分が横になっていることに気付いた。アーサーの顔の向こうで東屋の屋根が見えた。

「よろしゅうございました」

 なんと、ルシウスの声までしている。アーサーも息を詰めていたのか、肩を動かしながら大きく息を吐いた。

 手があたたかい。視線を動かすと、自分の手がアーサーに握られていた。

「貴女は貧血を起こしていたのだ」

 そうだったのか。何故だと記憶をたぐったときにフリスのことを思い出した。

 悪寒が背から走り、サリサは体を震わせた。

「サリサ殿?」

 アーサーは眉をひそめた。アーサーの隣で、ミランも心配そうにサリサを覗き込んでいる。

「……ミラン」

 アーサーが傍にいるからか、サリサは先ほどとは変わり、随分冷静にミランを見ることができた。さっきは動揺してフリスの言ったことを鵜呑みにしてしまったが、ミランが、他人の個人的なことをフリスに言うなどありえなくはないか。

「なになに、何をしてほしい?」

「フリスさんに、私が結婚相手を探している話をした?」

 サリサはそれだけ確認したく、他になにも一切考慮せず、唐突にミランに問うた。手を握っていたアーサーの腕がわずかに動いた。

「……は、はあ?」

 ミランは面食らっている。

「サリサ、結婚相手を探してたの……? 初耳だよ……?」

 そんなはずは、と言いかけたとき、サリサは思い出した。あの居酒屋での会話をミランはいろいろ忘れていたことを。

「『三匹の山羊停』で相談に乗ってもらった」

 ミランは目を閉じうーんと呻っている。

「……覚えてない。ごめん。私そんな相談に乗ってた?」

 ミランはルシウスに問うている。彼はいいえと返事をしているのを声だけ聞いた。

「私がミラン様たちに合流した瞬間に、あなた方はあそこを出ました。その後はアーサー様のお話をされていましたが、私はそれ以前のお二人のことは当然知りませんよ。確かに恋バナがどうとは仰ってましたが……だからあまり飲まれないようにといつも」

「あーあーあーその話は今はいい〜」

 ルシウスの声のする方向に視線をやり、彼が話を終えたあとで再度サリサは、耳を塞いでいるミランを見た。

「一昨日の昼も、だから私は誰かに抱きついて、徐々に慣れてみたほうがいいかなってミランに相談したの」

「それであんなことを言ってたの? それはだからあんまりオススメは……」

 ミランは言いながらちらとアーサーを見て、フッと表情を消した。

「ごめん私もうお腹が減りすぎて限界なんだけど〜。……サリサはアーサーに送ってもらって帰った方がいいんじゃないかな」

 ミランは強ばった顔でチラチラとアーサーの様子を伺っている。

 サリサも院には、正確には研究室には戻りたくなかった。図書室に逃げ込むという手もあるかもしれないが、フリスも鍵を持っている。

「私は、アーサー様のところに戻ってもいいですか?」

「その方がいい」

「その方がいいと思うよ〜」

 アーサーとミランに同意され、サリサも帰ることを決めた。ミランたちを見送り、サリサはアーサーに起こされて東屋の椅子に座った。

 隣にアーサーも腰掛けた。彼はサリサの顔色や息づかいを、不調を見逃したくないらしく目を据わらせている。

「どうしてアーサー様がここに」

「ミランだ。貴女が倒れたので、ミランはルシウスを私の元に遣わせた」

 それでルシウスもあそこにいたのか。

「ごめんなさい。アーサー様の忠告通り、家にいればよかった」

「その件はもう過ぎたことだ。家に戻ろう」

 アーサーはサリサの了解を得る前にサリサを抱き上げた。

「アーサー様、私は歩けると思います」

「駄目だ」

 人目が気になっていたのだが、一刀両断に却下されてしまい、サリサはそれ以上抵抗する気にならなかった。

 それにほっとする。

 じわりと、フリスとの記憶が蘇ってくる。大嫌いなものから追われているような感覚が背中でしている。払拭したくて、サリサはアーサーの肩に顔を埋めた。

「サリサ殿?」

「ごめんなさい」

 アーサーはそれ以上何も言わず、足早にその場を去ってくれた。サリサは彼の肩にしがみ付いた。

 やっぱり、アーサーは分かってくれる。


 アーサーの屋敷につくとキリウとシェルトが出迎えてくれた。

「キリウ。お茶を二人分用意してほしいとリノンに伝えてくれ。サリサ殿には軽食も。それから夕食まで職務の呼び出し以外、誰も取り次ぐな。五時までに私が部屋から出ない場合、シェルトの散歩を」

「畏まりまして」

 キリウは頭を下げたあとシェルトを呼んだ。シェルトは少々名残惜しげにキリウについていった。

「貴女は部屋に入りなさい」

「え、はい」

 お茶を飲むのではないのかと思いつつ、サリサは指示通りに自分の部屋に入った。間もなくノックの音がして戸を開けると、アーサーが茶器を持って入ってきた。

「アーサー様」

 サリサは慌てて戸から下がり道を空けた。アーサーはお茶を淹れ、無言でサリサにカップを手渡した。やけにぶっきらぼうなサーブだがお茶は美味しい。彼はサリサが飲むのをじっと見続けている。二つカップを用意しているのにアーサーは自分の分は淹れなかった。

 サリサが一息ついたとき、アーサーは組んでいた腕を解いた。

「何があった」

 アーサーの声は低かった。何かに怒っているようにも思えた。

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