第13話 夜の帳の中では

 アーサーが自宅に戻ったのは夜九時だった。とうに夕食の時間は過ぎている。キリウが出迎え、特に問題はないと報告してきた。

「全ては滞りなく」

「ケストリア嬢はどうか」

「お部屋におられます。まだ就寝はされてないようです」

 アーサーは顔を上げた。

「シェルトは」

 いつも出迎えてくれる友が今晩は来ない。

「ケストリア様のところに」

「……入れてしまったのか」

「申し訳ありません」

「いやいい。私が行こう」

「お願いします。さすがにわたくしは」

 アーサーは苦笑し、制服を着替えてからサリサの部屋をノックした。



◇◇◇



 サリサが机で論文を読んでいるあいだ、足下にはずっとシェルトがいた。部屋に入れて良かったのだろうかと思いつつ、いてくれるのは心強い。

 こうなると、例え官舎の別の部屋を用意してもらっていたとしても心細かっただろうなと想像できた。一人の方が気楽だったが、それは平和が永遠に続くと勝手に信じていたからだ。そうでないことを知り、人との関わりが急にありがたく思えるようになった。

 両親も、しぶしぶだったが官舎に入ることを許してくれたのは、やっぱりこちらの意思というか、苦手な部分を尊重してくれたのだろう。今になって、満足に自立もできていないくせに我が儘を通したことを反省した。

 やはり、もうやりたいことだけをする歳は過ぎてしまったのだ。

 両親の勧めとはいえ、他人に触れることができない自分に結婚は難しいと思っていた。だが、憧れはあった。両親が今も仲睦まじく、あんなふうに誰かを好きになれるといいなと常に思っていたのだ。

 そしてアーサーが、彼が結婚を考えていると聞き、心に剣がさされたような感じがしたのだ。

 それは。

 サリサはハアとため息をついた。ふとシェルトが顔を上げ、クーンと鳴いた。

 そこで戸が敲かれた。

「サリサ殿、そこにシェルトがいるか?」

「はい」

 アーサーの呼びかけに、サリサはすぐ部屋の戸を開けた。すると、それまでサリサの足下にいたシェルトがするりと扉から出て、戸の向こうにいたアーサーの足下に座った。アーサーは目を見張る。対してサリサは笑った。

「私が寂しがったから、アーサー様の代わりにいてくれたんです」

「貴女は寂しかったのか」

 サリサは問われてから、自分が何を言ったのかを認識した。

「あ、まあ」

 顔がじわりと熱くなっていく。そのサリサの頬を、アーサーはじつと見つめた。

「おかえりなさい」

 サリサは照れてはにかみながら、アーサーを見上げた。

「サリサ殿」

「え、はい」

 アーサーは少し厳しい顔をとっていた。

「話がしたい。今から入っても構わないか」

 サリサは気構えなくアーサーを招いた。ただし椅子が一脚しかなく、サリサが立っているとアーサーが彼女を促した。

「貴女が使ってくれ」

「いや、私はベッドに座りますので、アーサー様がどうぞ」

 サリサはアーサーが辞退しそうだったので、四の五の言われる前にさっとベッドに腰掛けた。アーサーは若干、仕方ないと言いたげな顔をして椅子に座った。

「前から聞きたいと思っていたことがある。貴女はどうして留探士の道を選んだ?」

 やけに突然の問いだなとサリサは思った。だが、サリサもふっと小さく笑った。

「サリサ殿?」

「私も、つい最近というか、今日の昼にそれを思い出したんです。すごい偶然だと思って」

「昼に?」

「はい。アーサー様と丘を散歩していたとき」

 あの、彼の姿を逆光でみたとき、過去のことが紐付いて思い出された。

「知り合いで、大きな怪我をしたひとがいたんです」

 アーサーは目を見開いたようだ。そのくらいわずかな変化だったが、サリサには彼が意外に思ったのだなと想像ができた。

「その人の怪我を治したいと思ったのがきっかけでした」

「そうだったのか」

 怪我を治したいと思ったことは本当だ。ただ、理由は突き詰めれば「顔を見たかったから」になる。包帯で顔が分からなくて残念だと思っていた。

 自分でも単純で下心満載の動機だと思った。

 アーサーは何故か緊張したような顔をしていた。

「……そうだな。ケスト家の力は治癒ではないから」

「そうだとしても、私は術士ではないので」

 アーサーは何も言わなかった。何故か、彼が動揺しているようにサリサには思えてしまう。それを示すように、アーサーは乱れてもない髪を手ぐしで後ろに流す動作をした。

「私も雷の力はない……」

 とって付けたような言葉であるのだが、重大な告白だった。そもそも、次代も同じ能力が使えることが多いだけで、必ず能力が継がれるわけではない。さらに、別の能力を持って産まれることもある。

 しかし八卿の姓を持つとなると話が違う。アーサーは八卿当主の甥という立場になる。その近さで術士でないとなると、かなり苦労があったはずだ。サリサの苦悩など比でなかったに違いない。それでも慰めようとしてくれるアーサーに、サリサは逆に申し訳ない気分になってしまった。

「別に、慰めていただかなくても……」

「あ、ああ」

 アーサーはまだ忙しく視線を動かしていた。

「……サリサ殿」

「はい?」

「つかぬ事を聞くが、貴女の親族で、貴女と同じ位の歳で、ご両親が亡くなられた方はいるか?」

 サリサは硬直した。

 心臓がどくどく鳴り始めた。何も言わなくなったサリサに対し、アーサーも視線を動かすのをやめ、サリサをじっと見た。

「サリサ殿?」

「ごめんなさい。私、あまり、親戚とかいとこたちと、連絡したりすることがないんです」

「そうか……」

 二人して明後日を向いて、気まずい時間がしばらく流れた。

「済まない、貴女の親族のことを何としても聞きたいわけではない」

「はあ」

 アーサーは間を持たすように一度足を組み、それをまた解いた。その一連の動作をサリサも黙って見ていた。玄関フロアの時計の音が鳴った。十時の知らせのようだ。誰かを迎え入れるには少々礼儀に外れた時間となった。

 しかしアーサーは席を立たなかった。

「怪我を治したいことが動機ということは、あなたは今、人体の治癒がテーマで研究をしている?」

 サリサは目を見開いた。そちらに話題が移行すると思っていなかったので、適切な返事を何も考えていなかった。そしてアドリブが容易にできる器用な人間でも当然なかった。

「え、と」

 アーサーの顔が見られなかった。話せることがないことが恥ずかしいからだ。研究者としてひどく誇りが傷付けられる。

「治癒というか。そうですね。細胞制御、です」

 目を泳がせながら説明してしまい、ますます情けなくなってくる。

「具体的には?」

「制御を……」

「だから具体的に」

 アーサーは納得してくれないようだった。サリサは観念して目を上げた。

「通常、ヒトの細胞は一部を除き分化してしまうと全能性を失います。ただ、完全に消え去るわけではなく、他の細胞に変化する機能がロックされる状態だと考えられています。そのロックが一部解けた状態へ移行してしまった細胞は再び増殖します。それが癌細胞です。しかしあれも正確には全能性があるとも言い切れないんですね。増えることは増えるんですが、やっぱり単なる細胞の固まりで、機能しない。ですが、つまりある過程を通過すれば、ヒトの分化した細胞も全能性を取り戻す可能性があります。そこを制御したいんです。ただ増えるだけでは癌細胞になる。全能性細胞と何が違うのか調べたいんです。なので術式の構築として過去を遡るものが必要になります。それと対比ですね。単に過去を遡るだけだと、どこに違いがあるのか明確にできない。ただ式も全体をだらりと見るようなものでは詳しいことは分からないんです。できれば次は」

 いきなり、堰を切ったように話をはじめたサリサに、アーサーは背を反らせた。唖然としている彼の顔を見て、サリサも我に返り、話の途中で不自然に黙り込んだ。

 話しすぎてしまったと焦っている。対面で、アーサーは目を見開いていた。

「それが貴女の」

「そうですね、こういうことができればと」

「できれば?」

 アーサーは首を傾げた。サリサはさらに焦ってしまった。

「反対でもされているのか?」

「そんな。まさか。教授ともすでに話し合っています。了解も得ています」

 アーサーは眉をひそめた。サリサの内容がどうのというより、おそらくサリサ自身の違和感しかない挙動に疑問を持っているのだろう。なおサリサの一挙一動を観察している。

「どこまで進んでいる」

「……これ以上は」

 サリサは自分の左手首を握った。アーサーもサリサの言わんとしたところに気付いたようで、わずかに口をあけたのち肩の力を抜いた。

「そうか。探士宣誓だな」

 留探士は、自分の研究内容を院外で話すことに制限がある。院に属するものは左手の手首外側に院生の印が施される。それを受けたときに、研究の秘匿について宣誓をするのだ。

 サリサの目の前で、アーサーは考え込んでいたが、ふと眉根を寄せた。

「できれば次はということは、テーマの変更があったんだな」

 サリサはぎくっと肩を動かした。アーサーの視線を切りたくて顔を伏せた。

「はあ、まあ」

「何故」

 サリサは顔を上げられなかった。

「何か問題でもあったのか?」

「えっと、その、これも、今ここでは言えないです……」

 自分でも妙なトーンの声になっているのが分かる。怪しいですと言っているようなものだ。

「これは研究のことではない。権利の問題だ。ここで言えないことではない」

 案の定、冷静に切り込まれてしまう。窮地に立たされている。サリサはなお、膝の上で握った自分の手を見つめていた。

「どこかから圧力があったのか」

 圧などない。だがサリサは答えられなかった。

「サリサ」

「……はい」

 いつもと違い、名だけを呼ばれ、サリサは思わず顔を上げた。

「あ」

 ごく間近にアーサーが立っていた。彼は猫のように、音もなく立ちあがりサリサの目の前まで来ていた。

「アーサーさ、ま」

 見下ろされる視線は決して優しいものではない。碧青の双眸が一寸の隙も見逃さないと言いたげに光っている。

 自分でもどうかしていると思ってしまった。こんなときなのに。

 その美しい色と、その奥に確かにある熱に魅入ってしまう。

 間近で、燃え揺らぐ炎を見ているような畏怖と、賛美を彼に抱いてしまう。

「サリサ、何故、貴女の研究テーマはこの時期に変更になった。以前のテーマは完了して論文になったのか?」

「え、あ」

 現実に引き戻されてもなお、その目から視線を外せなかった。

「私に教えろ。何があった」

「と、特になにというわけでは……」

 サリサの顎に、アーサーの手が伸び、触れる直前でそれは静止した。

「不当に変更させられたのか?」

「違います!」

 サリサは首を左右に振った。

「そういうことじゃないんです!」

「では何故」

「……えーっと、その、な……なんとなく」

「サリサ!」

 強い語気で呼ばれ、サリサはびくりと身を縮めた。今になって自分より大きく、サリサを簡単に力で制することのできる男の人が目の前にいるのだと、他人事のように認識してしまった。

 そして、他人でなく、自分の身に起きているのだと、はっきり認めた。

 何故、こんなことに。

 どこも触れられてはいない。しかしサリサが少しでも動くと、アーサーの体には当たってしまう。それほど近い。

 サリサが顎を引き、目に不安を過らせたとき、アーサーもまた深く眉間に皺を寄せた。

「正直に言ってくれ」

 絞るような声だった。

 アーサーの顔を真正面から見上げた。彼の表情を確認し、サリサは己の窮地のような状況については頭からなくなってしまった。

 ただ、何故と、それだけ。

「どうして」

 サリサは、自分の立場も忘れ、アーサーに手を伸ばした。彼の傷のある左の頬に指を添える。アーサーは身構えた。

 骨格がよく分かる、堅い顎。自分とは全く違う、やわなところがないひと。

 なのに、今はとても脆く見えてしまうのは何故か。

「どうしてアーサー様がそんな辛そうな顔をするんです?」

 アーサーは目を見開いた。彼の、金をちりばめた碧青の瞳が暗くなる。間近で見上げて、彼の光彩がこんなにも美しいのだと初めて知った。

 サリサの、アーサーの頬に触れていた手が彼に取られた。

「サリサ」

「ワン!」

 二人は、突然の予期しない声に目を見開いた。

 扉の向こうでシェルトが鳴いた。アーサーはサリサを解放して扉の方を見た。カリカリと音がしている。シェルトは戸の向こう側を軽くひっかいているようだ。

「びっくりした……」

 アーサーはサリサの、怯えがない顔を一瞥してから、サリサから距離を取った。

「失礼した。シェルトは、貴女のことを自分の庇護下におくべき者と認識したようだ」

「へ」

 サリサが返事らしい返事をする前に、アーサーは部屋を出てしまっていた。

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