第12話 散策は楽し、宵は難し

 それからサリサたちは羊の見学もした。毛刈りの時期だったので、もこもこの羊と、刈られて細くなっている羊も半分くらいいた。

「フワフワですねえ」

「だろう」

 何故かアーサーがどうだという顔をしている。サリサはアーサーとシェルトに挟まれた形で移動をしていた。

「シェルトが私に慣れてくれてうれしいです」

「シェルトは賢いからな」

 シェルトは、先ほどからサリサの行く手を時々遮る。大抵はその先に障害物がある。ぼんやり歩いているサリサに警告してくれているようだ。

 しかしサリサはそのシェルトにつまずきそうになってしまった。

「サリサ殿」

 アーサーはサリサに手を差し出した。二人は手を繋いで丘を上がった。

 緑の草が茂る中、時々ヒルガオが咲いているのが目に楽しい。その向こうには高い山がそびえている。そしてその背景に真っ青な空が広がっていた。今は雲もない。鳥が鳴き、羽ばたく音も間近で聞こえる。

 振り返ると、来た道と、牧場の屋根が見下ろせた。

「爽快で、気持ちがいいですね」

「それはよかった」

 空を仰いだとき、サリサは坂道でバランスを崩した。アーサーに肩を抱えられ、彼の胸に頬を当て落ち着いた。彼はサリサの後頭部を手で抱え込んだ。

「ひゃ」

 アーサーの指が耳の後ろに触れ、サリサはくすぐったくて声を上げた。見上げた先、明るい太陽の光と対比し、アーサーの顔が逆光で一瞬だけ陰った。

「……あれ」

 どこかで見た覚えがある構図に思えた。サリサはじっとアーサーの顔を見上げる。

「サリサ殿?」

 形のいいアーサーの唇がサリサを呼ぶ。

「あ」

 そうだ。あのとき。

 夢にまで見る、サリサの思い出の人物も、顔が見えなかった。

 初夏、花が舞う庭の一画で私たちは会っていた。泣かないでと頬を抱えられたとき、泣いているのが知られたのは、相手が私の頬に触れたからだ。

 何も覚えていなかったのではない。

 相手は口以外、目さえも、顔のほとんどを包帯で覆われていた。だから容姿も、歳も、性別さえ分からなかった。当時はそんなことはどうでもよかった。一緒にいてくれるだけでよかった。

 そのとき、風が吹いてサリサの髪をあおった。一房が前に来てしまい、アーサーがそれを指で払った。

 彼のこの動作が、絵になるとでも言うのだろうか。とても好きで、つい見とれてしまう。

 アーサーもまた、サリサの目を、彼女の目に捕らえられたかのように視線を固定した。

 サワサワと木々の動く音がしている。上空では雲が流れ始めた。

「サリ……」

「クウン」

 ふにっと、シェルトがサリサとアーサーのあいだに鼻面を押し込んだ。サリサの腿に伝わってきたシェルトの鼻面の、なんともいえない不思議な柔らかさにサリサは笑ってしまった。

 アーサーの方は、目をはっとして開き、それから瞼を伏せて笑みを浮かべた。少々皮肉げな顔にも見えた。

「お前を忘れていたわけではない」

 アーサーはサリサの首から手を降ろし、彼女の背を支えた。後脚で立ち上がったシェルトは、アーサーのお尻に前肢をぽんと置く。アーサーはシェルトの首をわしわしと撫でた。

 サリサの方も、アーサーのシャツの背を掴んだまま、シェルトに対し愛情深い顔をしている彼を見続けた。

 今更が過ぎると我ながら驚くのだが、こんなに他人と間近にいて、ほとんど居心地の悪さを感じない。彼とこうしていると、楽しさと、少しだけ羞恥がある。一緒にいるのが楽しくて、ずっといてほしいと思う、自分の欲張り加減が恥ずかしい。

 アーサーだけが何故平気なのか、その辺りを深く考える気はなかった。



 帰路の途中、馬車の中でシェルトはずっとサリサの足下にいた。

「貴女のことを守りたいようだ」

 アーサーは誇らしげな顔でシェルトを見ていた。

「可愛いですね」

「貴女はご実家で動物を飼ったことはないのか?」

「その発想もなかったですねえ」

「そういうものか」

 アーサーにしてみれば意外だったのかもしれない。

「ミランから聞いたのですけど、アーサー様はずっとボーダー・コリーを飼われていたんですね」

 彼は表情を消し、視線の焦点をサリサから外した。

「シェルトで三代目くらいですか」

「そうだ。最初は……知人が飼っていたのを譲ってもらった。孤独だった自分を慰めてくれた。かけがえのない友人だ」

「昔は、ご病気で臥せっておられたことが多かったとか」

 アーサーは、そうかもしれないと曖昧に応えた。

「今はこんなにご立派になられて、ご両親もお喜びなのでは」

「そうだといいな」

 アーサーは話しづらそうにしている。

「貴女もそうだろう。留探士として王立研究院に入ったのだ。ご自慢の娘だろう」

「そうだといいんですが」

 サリサも似たような返事をしてしまった。奇しくもアーサーが返事を濁した気分が分かってしまった。

 だが、彼は自分のような悩みを抱えてないはずだ。サリサは自嘲してしまう。

「サリサ殿?」

 サリサは父から届いた手紙を思い出していた。

 何の前触れもなく、突然の結婚の勧めだった。

 今更だが、王立研究院にて留探士となったのは、両親は実は反対だったのだろうか。

 もしくは、留探士として、ひとつも研究成果を挙げていないことで、彼らは娘に才なしと判断したということか。どうも後者のような気がしてきた。

 彼らは私のことを恥じているのかもしれない。あんなにも世話になったのに、我が儘も沢山通したのに、何もできていない娘を。

 それらのことをアーサーに話すことが恥ずかしかった。

「アーサー様は、結婚を考えたことがあります?」

 先日ミランに投げた質問を、サリサはアーサーにも聞いた。彼はターコイズブルーの目を大きく見開いた。

 だがすぐに、彼は少し怖いくらいの真剣な顔を見せた。

「ある」

 次はサリサが目を見開いた。何故か、ミランと同じくないという返事があるとばかり考えていた。

 そしてあると言われ、サリサの胸が痛くなった。

「私にとっては重要なことなのだ」

「そう……なのですね」

 アーサーはレファローヤの姓を名乗っているが、家系としてはどの辺りなのだろう。ミランの従兄弟としか聞いていなかったが、現八卿のご子息かもしれないのだ。

「アーサー様は、将来は八卿の地位に就かれるのですか?」

「いいや、現卿の伯父には子供がいる。それに私の母上はミランの父上の妹だから、私はミランよりも継承権が低い」

 では、ミランよりは低いが、レファローヤの継承権はあるのだ。

「……サリサ殿は」

「はい?」

 アーサーはじっとサリサの顔を見ていたが、やがて視線を逸らせた。

「いや、なんでもない……あ」

 アーサーは馬車の窓の向こうに何かを見つけ、それを指さした。サリサも窓の外を覗き込むと、そこから薄赤い空が見えた。雲がそれを反射していて、グラデーションが重なって見える。

「綺麗ですね」

「ああ」

「教えて下さってありがとうございます」

 サリサが笑って礼を言うと、アーサーも微笑み顔を伏せた。

「どういたしまして」

 そこでサリサはふと気が付いた。気付くのが毎回遅いのだなと我ながら呆れてしまう。

「今日も、牧場に連れてきて下さってありがとうございます。お陰で、いやなことを思い出さずに済みました」

 自分が攫われそうになったこと。そして官舎の自室に何者かが侵入したこと。それを今日は思い出さなかった。楽しいことだけの一日が、どれほど癒やしになったか。

「感謝しています」

「……そのような、他人行儀に礼をいわないでくれ」

 アーサーは苦笑していた。

「楽しかったです。とても。シェルトとも仲良くなれた」

 名前が出て、シェルトはふっと首を上げた。

「お利口さん」

 サリサが褒めると、シェルトはサリサの膝の上に顔を乗せた。

「甘えている。背中を撫でてやってくれ」

「いいんですか」

「背中なら大丈夫だろう」

 そっと手を回しサリサはシェルトの背を撫でた。シェルトはぱたぱたと尾を振った。

 屋敷に戻ったとき、執事のキリウが二人を出迎えた。彼は一通の封書をアーサーに手渡した。

「お急ぎとのことです」

「了解した。サリサ殿。今晩は申し訳ないが夕食は欠席する」

「え」

「私が戻るのは夜だが、ここで普段通り気兼ねなく過ごしてくれ」

 彼は歩きながら上着を脱ぎ、それをキリウに手渡していた。キリウとリノンにそれぞれ指示を出しながら彼は二階の自室へ向かった。

 足下で、シェルトがサリサを見上げている。なぜだか同情されているような気がして、サリサはしゃがんだ。

「置いていかれちゃった」

 シェルトはクウンと、同意して鳴いてくれた。



◇◇◇



「研究院より特秘報告が提出された。しかも記名ありだ。ハロルズ教授からだ」

 アレック中尉の言葉に、集まった部下たちは、アーサーも含め、表情を改めた。

 王立研究院に所属する巡探士ならびに留探士は、基本的に私的な場において研究院外で己の仕事や研究内容を話すことができない。しかしその規則にも例外はある。留探士が道に外れた研究をした場合に自首をしたり、または仲間の不正に対して密告を行えたりする手段が用意されている。手順のひとつは書面での提出、こちらは無記名でも可能であり、そしてもうひとつは面談の申請だ。

 どちらも二十四時間以内に国家憲兵が対応する規定になっている。

 今回は、ハロルズ教授が書面での報告をよこしてきた。

「ケストリア留探士の監視を怠るなとある」

「それだけですか」

 アレックと仲間のやりとりを、アーサーは黙って聞いていた。

「いや、近日に面会の申請をする可能性もあるとご丁寧に書いてある」

「……妙なところで几帳面な方ですね」

 部下の感想に、アレックは一瞬だけ笑いのような表情を浮かべたが、すぐに厳しいものに戻した。

「全く、せっかくの制度なのだから、奥歯にものが挟まったようなやりとりなどしなくともよかろうに」

 部屋の全員が心から同意しうなずいた。

「その、ケストリア留探士の官舎の件だ。部屋に入った賊の、正体が分かるようなものは今のところ見つかってない。さらに、ケストリア留探士が外に情報を漏らしている可能性を示唆するものも、今のところは何も見つかっていない」

 アーサーと同じ身分で、今回の事件の捜査を行っている憲兵仲間が手を挙げた。

「はい。先日の、誘拐未遂の事情聴取にて、ケストリア留探士は、何か思い当たる節はという問いに対し反応があったそうなのですが、質問に対しては明確な返答はなかったとのことです。そこと関係があるのかは不明です」

「ケストリア留探士が、術式の一部を所持しているなら、それが理由で攫われそうになったという理由になります。もしかしたら、彼女自身は無意識で、第三者に何かを持たされている可能性もあります」

 アーサーは仲間に伝えた。アレック中尉と他の二名もうなずいた。

「ハロルズ教授が仰りたいのはそういうことでしょうか。彼もまた何かに巻き込まれていて、はっきりと言えないなど」

「または、科学者にありがちな、事が明確になるまでは明言しない性質か」

 アーサーは机上に並べられた書類と、正面黒板に書かれている鳥瞰図を再読していった。

「ハロルズ教授の式を狙っている者たちは、若い女性留探士と男性留探士が、それぞれ情報を持っていると言った」

「はい。ケストリア留探士の誘拐を企てた男が今朝そう自白したと。男が言うには、男性留探士が、万が一に備え情報を分離させていて、一部を女性留探士に持たせていると聞いていたそうです。ターゲットの女性留探士は、若くかつ術士でない者ということまでは知っていたが、それ以上は分からなかったと」

「だからケストリア留探士と、レファローヤ少尉の従姉妹のどちらかが分からず、二人を襲ったのか」

「おそらく。そこでミラン・レファローヤ留探士が術士であることが判明し、ケストリア留探士を目標として捕らえたのだと思われます」

「ケストリア留探士の部屋に侵入した犯人は、誘拐が失敗したから部屋の侵入から情報を得ようと、そちらに切り替えたということでしょうか?」

「公園で誘拐を企てた時点で、レファローヤ留探士かケストリア留探士か、どちらか分からなかったとすれば、その直後にケストリア留探士の住まいまで特定するのは早すぎます」

「それに男性留探士とは」

「それはまだ不明です。自白の様子から、名を知らされていないようなそぶりもあるようですが、ここは不確かです」

「まあ状況からして、ハロルズ教授の弟子の二人を指していると考えるのが一番妥当だろう。自白の内容から、二人が結託している可能性もある。彼の様子はどうだ」

「はい」

 別の捜査官が手を挙げた。

「シシロア留探士の件ですが、彼は研究院からこの三日一度も外出していないようです」

 アレックはアーサーに顔を向けた。

「そんなことが可能なのか?」

「研究院内を一通り確認しましたが可能かと。官舎は同敷地内ですし、売店はないのですが、食堂は早朝六時から夕八時まで食事を提供しているようです。三日程度でしたら十分にあり得ます。北には植物園があり、途中で一般公開可能な領域になりますが、境界出入り口には監視はあります。確認してもらいましたが、シシロア留探士の出入りはありませんでした」

 アレックが腕を組んだ。

「彼もケストリア留探士と同じく官舎住まいか」

「ケストリア留探士の官舎私室内への侵入も、彼なら人目がないタイミングを狙えます。今のところケストリア留探士本人の指紋しか出ていないので、証拠はありませんが。……彼は過去に、問題を起こしたことがあるようです」

「問題ですか?」

 アーサーが問うと、同僚捜査官はうなずいた。

「酒の席で気が大きくなり、失敗をしたことがあるとのことです。そのときは警告で済んだとの報告があります」

「また同じ失敗をした可能性もあるな」

 アレックは机の用紙を手に取った。

「両名の動きを注視しよう」

 解散となり、皆が退出の準備をはじめた。

 アーサーはカーテンを開けながら、窓の外を見た。明るい部屋との対比というだけでなく、空には厚い雲があるようで、外は真っ暗だった。

 夜空に星は見えなかった。

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