第6話 ひとつ屋根の下というよりは
風に煽られ、辺りの木が葉を鳴らした。同時に薄い桃色の花びらが空に広がり踊る。
花のさざ波のうえにいた。
いつもの夢だとサリサは理解した。
花の舞う日の中で、サリサは相手の頬を抱えた。自分の頬も、相手に抱えられている。頬に伝う涙を拭かれ、泣かないでと掠れた声で囁かれた。
「だったら行かないで」
一人はいやだった。いきなり日常とかけ離れた事態に突き落とされた。その状況を救ってほしいというより、誰かにいてほしかった。
そうだ。あのときもいてほしかったのに。あの人はいなくなってしまった。
もういなくなってほしくない。
「行かないで」
サリサは懇願の言葉を、相手に直接与えるかのように、自分の唇を相手のそれに重ねた。
柔らかい触れ合いで、相手が体を固めたこともサリサに伝わってきた。だがその硬直も一瞬だけだった。両手がサリサの背に回り、きゅっと抱きしめられる。ひなたと麦の匂いがした。
それがとても嬉しかった。同時に、これが最後なのだと思うと悲しかった。
ずっと温もりに飢えていた。
何故ならあのとき、サリサは大切な人たちを亡くしていた。それを慰めてくれたのがあの人だった。
あの人は傷付いていたサリサの背を撫でてくれた。今のように。
一人ではないのだと確信したくて、サリサも腕を動かし抱え込む。
あなたがいてくれたから──
「クウン」
聞き慣れない動物の声に、サリサはぱちっと目を開けた。背中の、首のところに何かが触れた。
「ひえ……?」
掠れた驚きの声が出たとき、頭が撫でられた。
「はえ?」
大きな手がわしわし、サリサの頭を撫でている。
「クン」
「どうした。シェルト」
ごく間近で、アーサーの声が聞こえた。サリサはぎょっとして全身を硬直させる。
自分は横になっている。そのすぐ隣で誰かがやはり横になっている。
目前の制服には見覚えがある。憲兵の制服だ。タイはほどかれていて、ボタンもいくつか外していた。分かる。一寸の隙もなく、シャツのボタンを上まで留めたままではとても寝られないだろう。開かれた襟のなかで喉仏が確認できた。
サリサはその、女である自分にはない堅い隆起から、顔の方に視線を上げた。
サリサの目の前で横になっていたのはアーサーだった。
何があった。ここはどこだ。どうしてこんな間近でアーサーと一緒に寝転がっているのだ?
そう、自分がいるのはベッドだ。見知らぬベッドの白のシーツは、清潔でここちよい感触だ。肌に優しい。まるですべすべの花びらのようだ。ただしサリサは実際花びらの上で寝たことがないので例えが合っているのか分からない。
掛布は深緑の一色。自分達はそれに包まっている。
自分達。
「ひゃっ!」
何かがサリサの首に触れた。それはふんふんとサリサの匂いを嗅いでいるようだ。
「シェルト……?」
アーサーは、サリサには意味が分からない何かを呟きながら、またもサリサの後頭部をわしわしと撫でている。
そのとき背中でワンと一声鳴き声がした。
サリサの頭をわしわしと撫でている手が止まった。そしてサリサの前で、アーサーがのそりと体を動かした。
顔を覗き込まれる。彼は目を半開きにして、サリサに覆い被さるように顔を覗ってきた。サリサは硬直して、ただ彼を見上げていた。
アーサーの髪は乱れていた。昨日は露わになっていた額に、プラチナブロンドの髪が半分かかり、鼻のところまで流れている。彼は肘をついたまま、それを手ぐしで後ろにやった。サリサはその一連の動作に見とれてしまった。
アーサーはじっとサリサを見下ろしている。今になってようやく、日が昇りかけた早朝なのだと気が付いた。部屋はまだ薄暗いが、何も読んだりするつもりもない今は、その明るさで十分事足りる。
部屋の壁は、下はダークブラウンの板がはめ込まれ、それより上にはクリーム色の壁紙が貼られている。ベッドとカーテンの色が深緑の、ごく普通の男性的な部屋に二人はいた。
陰影のなか、サリサを見下ろすアーサーは、どこかぼんやりとしていて、そして何とも危険な感じがした。
危険?
自分で思っておいて、何が危険なのだとサリサは自分に突っ込んでしまう。
というか。
サリサは、自分の足にあたたかいものが添っているのに気付いた。掛布があるので見えないが、距離感を鑑みるに、そのあたたかい何かはアーサーの足、それも太腿ではなかろうか。
サリサは初夏用の薄いスカートしか着ていなかったので、彼の体温がよく分かる。その逞しさも。
そりゃあ逞しいだろう、小柄とはいえ自分を抱き上げたのだと思ったのち、はたと気が付いた。
他人に触れているのに全然いやじゃない、気がする。
気がするというのは、若干身の置き所を持て余しているからだ。なんとなく目を泳がせている。目の前に男性の鎖骨が少し見えているし。しかし少なくとも、背筋が凍るようないつもの鳥肌はたたなかった。
アーサーの左手は、サリサの後頭部に挿し入れられたままだ。さっき何かが自分の匂いを嗅いでいたところだ。
あれは何だったのだろうと考えていたところ、サリサのうなじがついと指で撫で上げられた。
「……ふあっ」
くすぐったくてサリサは声を上げてしまった。
「ワン!」
サリサの背中で、また犬の鳴き声がした。アーサーは動きを止めた。
「シェルト、なぜ」
アーサーの声が覚醒していた。そして彼は、自分がどこに手を置いているのか今気付いたのか、サリサの後頭部から手を離した。さっと距離も取って素早くベッドから降りる。
「失礼した。申し訳ない」
顔も態度も冷静そうだが、声が強ばっていた。サリサが上体を起こすと、アーサーはサリサに背を向けた。
背中に話しかけてもいいものかと思いつつ、彼にしか聞けないので、サリサはお伺いすることにした。
「ここはどこですか」
「私の住まいだ。あなたは昨晩、茫然自失としていて、どこに連れて行けばいいのか分からなかったのもあるが、危険なので一人にさせておけなかった」
「ああ、そういう……」
と納得してしまってよかったのか。だがサリサは言葉をそこで切ってしまい、ハイ納得しましたという感じで会話が終わってしまった。
アーサーはサリサを視界に入れないようにベッドを回り込んでいる。
「……ああそうか。貴女を後で別室に運ぼうと思って、戸を開けたままだったから。シェルト」
彼はサリサの背にいる何かに呼びかけた。サリサも体を動かしそちらを見ると、そこには茶色も混じった、黒毛の割合が強いトライカラーのボーダー・コリーが座っていた。先ほどから鳴いたり、サリサの首の匂いを嗅いだりしいたのはこの子だったのかとサリサは納得する。
そしておそらく、寝室には入れない習慣だったのだろう。
「サリサ殿、追い立てて申し訳ないが、今から客間へ移ってもらいたい。案内しよう。私が振り返っても構わなくなったら声をかけてくれ」
「あ、はい」
なるほど、スカートがめくれていた。サリサはベッドから立って裾を整えアーサーに声をかける。彼はこちらだと手招いて先を進んだ。
後に付いて歩いていて、やっぱりハイそうですかと納得してもよかったのかと自問する。さらに後ろからボーダー・コリーのシェルトも付いてきていた。
間もなくサリサは来訪者用と思われる部屋に通された。次は、シェルトは部屋に入らず扉の向こうで座って待っていた。
先ほどの部屋と同じく、ダークブラウンの填め板と明るいクリーム色の壁紙は同じだ。だがこちらは白に近い緑色がアクセントの部屋で、グレイピンクの草模様のある布がカーテン、ベッドスロー、ヘッドボードで統一されている。家具も白が基調とされているが、床板は深い色合いの、磨かれたフローリングだ。
「クロゼットの引き出しに寝間着を用意してある。他にも今のところ外出着が一式だけ用意があるからそれも使って構わない。向こうがバスルームになる。あと四時間ほどで朝食になるから、それまでここで休んでくれ。朝食のときに迎えに来る。その後で他のことと、これからのことを話そう」
「はあ……?」
何故そこまで詳細に説明をされるのだろうか。
しかも外出着が今のところ一着?
これからのこと?
「バスルームを使いたいだろうか?」
「はい?」
「必要なら湯を用意させる」
「……え、いや、でもそこまで……?」
「そうか」
質問したいと思ったが、サリサの隣でアーサーはあくびをかみ殺している。サリサは目を見開いた。知り合って間もないが、礼儀正しい彼にそぐわない気がした。
「あまり眠らなかったのですか?」
つい聞いてしまったのだが、アーサーは少々恨めしげにサリサを横目で見た。
「ああそうだな。私は失礼する」
「あ、はい」
アーサーは客間を出た。サリサは、とりあえずもう一眠りすることにした。
目が覚め、再度サリサが自分の服に着替え終えたとき、ノックの音がした。アーサーだろうと思って出迎えると、戸の向こうにいたのは五十手前くらいのメイドだった。サリサは硬直した。
「ケストリア様、おはようございます。アーサー様からお伺いしております。リノンと申します。入浴はなさいますか?」
「お、おは、おはようございます。いいえ、……だ、だい大丈夫、です」
「あら、そうでしたか。今晩はご用意致しますね」
今晩とはどういうことかと思ったのだが、次に食べ物の好き嫌いについて聞かれた。ますます意味が分からない。リノンに聞く前に、彼女は朝食の用意ができたらもう一度お呼びしますと言って去ってしまった。
そして、朝食の用意ができたと伝えにきたのはアーサーその人だった。
「おはよう」
「おはようございます」
「服はそれでいいのか?」
サリサは昨日の格好のままだ。確かに、クロゼットには女性用の、しかも身長が低めのサリサでも問題なく着ることができるややフォーマルなシャツとスカート、そして下着まで用意してあったが、さすがにそうですかと全部借りる気になれなかった。
「お気遣いありがとうございます。これで大丈夫です。あとお伺いしたいことがあります」
アーサーはシャツに濃紺のスラックスという格好だった。スラックスには青のラインが入っているので制服だろう。先ほどの、寝乱れた髪をしておらず、きちんと後ろに撫でつけられている。精彩が戻ったようだったので、サリサは質問することにしたのだ。
「食堂へ案内する間に聞けるだけ聞こう」
「リノンさんがさっき、今晩はどうと仰ってましたが、私はすぐ官舎に戻るんですよね」
「いや、あそこにはしばらく戻れないと思ってくれ」
「……は」
足を止めてしまったサリサに、アーサーは手を差し伸べた。あまりにも自然に出されたので、サリサは何も考えずその手を取った。彼はサリサと手を繋ぎ、また歩き始めた。アーサーに比べ身長の低いサリサの歩調に合わせた速度だった。
「誰が侵入したのか調べなければならない。その上、貴女は何かに巻き込まれているようだ。だから事件が解決するまではここに滞在しなさい」
「は……ひえ?」
我ながら意味の分からない返答をしてしまった、だがそんな些末なツッコミをしている場合ではない。
「むろん、研究院へは出向いて構わないが、私が必ずあなたに付く」
「い、いや待って」
「なるべく貴女の官舎の中のものを外に出したくない。だが、研究のための本などの代替えが利かないものは許可せざるを得ないな」
「待ってください」
「衣食住に関しては私が用意する」
「待ってってば!」
サリサは抗議の意味で、ありたけの力でアーサーの手を握った。だがアーサーは軽く目を開いただけだった。
「困ります」
「分かった。ここでしばらく滞在するにあたり困難だと思われる部分を、本日夕刻、研究院からここに戻るまでに箇条書きにして提出してくれ。各項目を確認次第善処する」
「はっ……」
アーサーはサリサの手を引いたまま、すたすたと、サリサの歩調に合わせ歩いている。
「ここが食堂だ。朝は午前八時、昼、休みのときは正午、夜は午後六時にそれぞれ食事が開始される。夜に関しては私の都合により前後する場合もある」
手を引かれ入ると、すでにリノンと、執事らしき初老の男性が待機していた。二人はサリサとアーサーが手を繋いでいるのを見ただろうが、口には何も出さなかった。
「すぐにご用意致します」
リノンが給仕をしている間に、アーサーは初老の男を紹介した。
「この館を取り仕切る執事のキリウだ」
「ケストリア様、初めまして」
「はじめまして……サリサ・ケストリアです」
「他の者は追って紹介することにしよう」
そう結び、食事が始まった。サリサも流されるままに食事を始めた。
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