第5話 一夜のうちに事件が多すぎて

「は、は、はい?」

 犬?

 突然に話題が飛んで、その意図が分からずサリサはアーサーに顔を向けた。彼はサリサの応答を待っている。

「どう、どうと言われても、特には」

「苦手ではない?」

「はあ、まあ、苦手ではないです」

「なら私のことは、大きな犬が隣を歩いていると思ってみてはどうか」

 アーサーの提案に対し、サリサはやっぱりきょとんとしてしまう。確かにアーサーのような職のひとを犬と例えることはあるようだが、さほどいい意味ではない。

「貴女が犬に恐怖を感じないのであれば、私のことは番犬だと思いなさい」

 それはやっぱり失礼ではないかなと思うのだが。

 ただ提案されたので、サリサも素直に犬かあとアーサーを真剣に見てしまった。とたん、段差から足を踏み外しそうになってよろめいた。次は、アーサーはサリサに触れなかったが、彼女の手前に手を差し出して、転ばないようにはしてくれた。触れないように気遣ってくれている。

 随分いい人なようだ。それでサリサの頭にあの犬種が出た。

「グレート・デンですか」

「……何?」

「アーサー様が犬だとしたら、グレート・デンです。大きくて紳士的で、優しい」

 アーサーは真顔でサリサを見た。やっぱり失礼だったかなとサリサはひやりとしてしまう。

「コリー」

「はい?」

「私は、自分のことはコリーだと思っていたのだが」

 サリサは思わず表情を緩めてしまった。コリーは忠義心が高い犬種だが、やんちゃで運動が好きというイメージがある。運動はともかくやんちゃという単語が彼には合わないのに、至って真面目にアーサーが断定しているのが面白かった。

「貴女のイメージでは違うのだな」

 アーサーは少し口角を上げた。笑ったのだろうかと確認したいくらい微妙なものだったが、不愉快だとは思っていないようには感じる。

「違います。コリーは、そうですね。ミランの方がラフ・コリーみたいでしょうか」

「そうか。それは羨ましいな」

 口調の本気度が高い。そんなにコリーが好きなのか。サリサは笑ってしまった。

「貴女も、貴女を彷彿とさせる犬種がある」

「え、そうですか?」

 サリサはアーサーを見上げた。サリサの期待に満ちた顔のせいか、アーサーはまた少しだけ笑みのようなものを浮かべた。

「知りたいです。なんです?」

 だが、アーサーは眼を逸らし、顎に手を置いて考え込んだ。

「姿は頭の中にあるのだが、あれはなんという犬種だったか」

 期待させておいてそれはないのではとサリサは眉を寄せた。

「茶色の中型犬で」

「私もコリーですか」

「いや、貴女はコリーではない。確か、シバ……?」

 そんな犬種はあっただろうか。サリサも犬に詳しくはないのだが。

「また調べておこう。着いたようだ」

「え」

 確かに研究院の、官舎が近い入り口に到着していた。守衛の顔が見え、憲兵であるアーサーに敬礼してきた。

 なんと。二人になった最初は長い時間になりそうだと辟易していたのに、結局すぐに着いてしまった。

 犬の話題はいいらしい。次回、似たようなことがあったら是非真似をさせてもらおう。サリサはアーサーに一礼した。

「ここで失礼します。ありがとうございます!」

「待ちなさい。まだ」

「はいい?」

「部屋へ入るまで見届けさせてもらう」

 何故そんなと思ったが、もう嫌だと撥ね付けたいほどではない。部屋番号を確認され、アーサーが先を歩いた。部屋に着く前に鍵を出さねばと思い、サリサは鞄を探りながら歩いていると廊下の壁にぶつかった。

「鍵は、部屋の前に着いてからでいいので、立ち止まってから焦らずに探しなさい」

 行動が筒抜けで恥ずかしい。

 先にアーサーがサリサの部屋の前に着いた。彼は扉の前で立ち、じっとドアノブを見つめている。サリサも追いついて隣に立ち止まり、鍵を出そうと鞄を探ったが、こんなときに限って鍵が見当たらない。

 いや嘘だ。いつだってサリサの鞄の中で鍵は自由に振る舞って、常に持ち主を悩ませている。

「鞄の中に入れるものは位置を決めておいた方がいい」

「あっあっあっ……そそそそうですね!」

 彼はドアを見ているままでサリサに助言した。いつも適当にものを鞄につっこんでいることもバレバレじゃないか。そしてようやく鍵が見つかった。

「ありました!」

「そのようだな」

 アーサーはサリサに顔を向けず、厳しい目をして鍵穴を凝視していた。そして手のひらをサリサに見せて静止を促した。

「下がって。そこにいなさい」

「え?」

 彼は膝をついて、サリサの部屋の鍵の挿し口を観察している。

 その後立ち上がり、アーサーは彼女に黙っているように仕草で指示し、扉の向こうを伺っていた。

「中に人はいないようだが。ここを」

 彼は錠の挿し口を指さした。

「白い粉がついている。道具で鍵を開けた可能性がある。こちらへ。官舎入り口へ戻ろう。応援を呼ぶ」

「……は、はい?」

 道具で鍵を開けた?

 サリサは何がなんだか分からないうちに、アーサーに促され、官舎の入り口まで連れていかれた。アーサーは守衛に話をし、守衛はうなずき一人が外に出てどこかに向かった。

 間もなく警官が数名現れた。女性警官も一人いる。先ほど、サリサたちが襲われそうになったときに、アーサーに遅れて来ていた憲兵も一人いた。アーサーの上官なのか、階級章のラインがアーサーより一つ多い。アーサーの説明の後で、彼らは先に、守衛の鍵で扉を開け慎重にサリサの部屋に入っていった。サリサには女性警官が付いてくれた。危険がないことを確認してから、彼らはサリサを中に招いた。

「なくなっているものや、逆に見知らぬものがありましたらすぐにお知らせ下さい」

 警官の一人はサリサに説明したのち、入り口に立ってサリサの挙動を見守っている。動かないサリサの顔色を覗うように警官は首を傾けた。

「何かおかしいところはないですか」

 ようやくにして、サリサはことの重大さを認識できるようになった。誰かがこの部屋に入った可能性がある。

 サリサにはよくある、誰かに触れられた嫌悪感よりももっと邪悪なものが心に侵食してきた。

 気持ちが悪い。確認し安全だと証明したい思いと、何も見ずにここから去りたい思いがせめぎ合っている。

 どこに去るのだ。実家は遠く、研究院に連日通える家は付近にないのに。しかしやはり、猛烈にここから逃げたい気がしてきた。可能なら過去に。何も起きなかったときに。

 そんなことはできない。

 足が竦んで、くらくらとしてきたとき、アーサーがサリサの視界を遮るようにすぐ前に立った。

「辛いなら、明日にしても構わない。しかしいずれはせねばならないことだ。耐えられそうなら、今の方がいいとは思う」

 真摯な、そして労りの強い言い方だった。

 こんなときだが、先ほどの犬種の会話を思い出した。アーサーはやっぱりグレート・デンなのではないかと、本当に何も今でなくてもということを考えた。大きくて、気も優しく紳士的。今になって、あのとき彼はサリサの気を紛らわせようとして犬の話を持ち出したのではと気が付いた。

 なんとなく、彼がここにいてくれるなら、大丈夫な気がしてきた。それにもしかしたら、アーサーの勘違いで誰も入っていないかもしれない。そうだそうに違いないと自らを鼓舞した。サリサが息を飲んでからアーサーにうなずくと、彼は前を移動しサリサが部屋を一瞥できるようにしてくれた。

 サリサが女性警官へ大丈夫ですと告げると、彼女は手袋を貸してくれた。

「手袋を装備済みですので無理にとは言いませんが、可能でしたらなるべく部屋のものには触れないようにお願いします」

「……はい」

 サリサは、アーサーの上官と思われる別の憲兵の注意にうなずいた。

 部屋はいつもと変わらない、ように見える。

 本棚の上から下まで本が詰まっている。一通り見たが、おかしいところはないと思う。順番なども気を付けて確認したが、出掛ける前と変わっていない。

 衣装箪笥の中も確認したが、なくなっている服はなさそうだ。ベッドもそのまま。ベッドの上に寝間着を放置していたのは恥ずかしい。

「なにも、なくなっていないと、思います……」

 本当にそうなのか、そう思いたいだけなのか、サリサは分からなくなってきた。だが何かしら答を出さなければならない。彼らにここにいてもらうのが気の毒になってきた。そしてあまり、私的な空間を見てもらいたくもない。

「ゴミ箱も確認頂いていいでしょうか」

「ゴミ箱?」

 何故そんなところをとサリサは首を傾げたものの、意見に従って中を覗く。

 そこを見たときに背筋に緊張が走った。

「どうした」

 サリサの表情の変化を見てアーサーが寄ってきた。

「今朝、お茶を飲んでいたときに紙の上にこぼしたんです。それを捨てたのが、一番上にあるはずなのに」

 それが見えるところにない。

「それは確かか。その後、中を探ったりはしていないのだな」

 自分の行動を思い出し、サリサはうなずいた。

 そして机の上を見た。お茶を零したところを。

 一見、出掛ける前と変わらない。しかし。

「ほこりがない」

 積みっぱなしの本と本の間に挟んだ紙は、朝と同じだが、一番上に積んである本の埃が掃かれている。

「確認のときに指かなにかの痕が残り、払ったのだろうな」

 アーサーのやけに冷静な分析を聞き、サリサの視界が暗くなった。

「賊侵入の可能性があるな」

「そのようです」

 アーサーたちが確認し合っている隣で、サリサは膝を折った。がくりと腰を下ろしそうになる前、アーサーがサリサの腕を取った。

「大丈夫でしょうか」

 警官が感情の入った声で聞いてきたが、サリサは返事をできなかった。

 誰かが自分の部屋に入った。さらにその前は、誰かが自分を攫おうとして。

 気分が悪くなる。サリサは小さく呻いた。

 自分が、何か得体の知れないものに浸食されていく感覚がした。さっきの、攫われそうになったときに抱えられた感覚も蘇る。恐ろしかった。何もできなかった。体が動かせなかった。何かできたはずだったのではと考え、自分の不甲斐なさを無意味に責めてしまう。

 その仲間のようなものがここにいた。こんなところで生活していたら、いつかまた攫われてしまう。その先は想像もしたくない。

 鳥肌がたち、目の前が暗くなった。

 ここにいたくない。気持ちが悪い。自分の体さえ、消してしまいたくなってきた。

「失礼。非常時ゆえ、少し我慢を」

 言うなり、アーサーはサリサを横抱きに抱き上げた。嫌悪感は彼には感じなかった。それよりもっと不快なものがこの部屋に残っている。どこか、サリサには分からないところに沢山。

 見たくない。いたくない。逃げたい。

 アーサーが仲間の憲兵と何かを話している。サリサはそれを聞いておらず、ただ震え、アーサーの腕の中で小さくなっていた。

「サリサ殿、ここは捜査が入る。あなたを一時、別の場所に避難させる。……聞いているか?」

 サリサは目を閉じ、手で顔を覆う。

 ここにいたくなかった。住み慣れた部屋が、突如最も忌避したい場所になった。

 何も見たくない。聞きたくない。考えたくない。

「もうやだ……」

 アーサーはそれ以上何も言わず、黙ってサリサを抱えたまま官舎を去った。

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