episode9 棗うえいくにんぐ
「────っなんで、忘れてたんだ」
姉さんのこと、日葵さんのこと、この世界のこと。
大事な全てを、ようやく思い出した。
「
「────ぁ。」
日本語じゃない、意味を理解できるようなできないような、まるで黄泉の言語。
それでもその声が姉さんのものだということだけは、しっかりと理解できる。
醜い、恐ろしいと思っていた怪物の外見も、今ならその理由が理解できた。
首から上が百合の花なのは、きっと鬱血した首を見せたくないからだ。
蔓だって、遠くに離れてしまった俺を見つけるためだ。
姉さんは、俺に会いたかったんだ。
「───ごめん。俺が、気づいてあげられたら、良かったんだよな。」
あの時日葵さんも言っていた言葉を、今更ながら口にする。
日葵さんよりもずっと、姉さんのそばにいた俺が、それに気づくべきだった。
唯一の家族で、姉さんにとって数少ない理解者になりえたはずの俺が。
「
姉さんの声に惹かれて、俺は足を前に進める。
それは傍目から見れば食虫植物に寄って行く哀れな虫に見えるだろう。滑稽だろう。
それでも俺は、目の前の
一歩、また一歩と足を進めていけば、すぐに姉さんのもとに辿り着いた。
「ごめんな…………姉さん。俺────」
俺の言葉を待たずして、姉さんは俺の首元にゆっくりと、手を添える。
冷たい。体温は感じなかったけれど、人の心の温かさのようなものは感じられる。
このしなやかな腕は、紛れもなく記憶の中のそれと同じものだった。
「
姉さんが、励ますように声をかけてくれているような気がした。
「姉さんは、俺がそっちに行ったら喜んでくれるか?なんてな………ははっ。」
つい気持ちが浮ついて、そんなことを言ってしまう。
『姉さんは、そんなことしても喜ばないぞ。』
過去の自分が否定したそれに、自ら向かっている。
これは幻想だとわかっているのに、高揚した頭では気持ちが抑えられない。
今を逃してしまえば、また手遅れになってしまうのかと思うと言葉が抑えられなかったのだ。
「
ソレから明確な殺意と喜びを感じた。
植物と人間の中間体のような、ショッキングなその見た目になっても、姉さんは姉さんだった。
優しくゆっくりと、静かに、首元に圧力がかけられていく。
「…………いいよ。姉さん。」
それだけ言って、俺は目を瞑った。
脳に酸素が行き届かなくなっていくを感じる。
体が呼吸しろと言っているのを感じる。
それでも、不思議と苦しみや痛みは感じなかった。
それがドーパミンかアドレナリンかの異常分泌なのだろうことはわかるけれど、なんだか姉さんの愛ゆえなのか、なんて思ってしまう自分もいる。まるで頭のネジが数本飛んだような感覚だ。
自分でもこんな思考は普通じゃないとに気づいているのに、それを止める手段がない。
「
姉さんの声は鮮明に聞こえた。
意味も理解できた。姉さんと同じ場所に行ける。
首にかかる圧力が強くなり、いよいよ意識が朦朧としだした、その直後。
「────駄目だよ。棗くん。それだけは許さないから。」
光撃が一閃、闇夜を切り裂いた。
「
「カハッ……!ゲホッ……!ゴホッ…………ッ!」
首を掴まれたまま持ち上げられていたようだった。
地面に叩きつけられた衝撃と、急に入ってきた空気にむせ返る。
そして、倒れた俺と同じ高さに姉さんの腕が転がっているのが見えた。
「ねゴホッゴホッ!…………姉さんッ!!」
そう反射的に叫ぶも、先ほどまでのような高揚感は消えていた。
まるで一目ぼれした相手に対して
何か根本から間違っているようなその感覚は、この世界があくまで"
それでも、いや、そんなのどうでもいい。俺は─────
「───棗くん。私たちは、まだ駄目だよ。意味、分かるね?」
『俺たちは、まだ駄目だ。意味は、分かるよな?』
叱咤する声が、耳に届いた。
それは、俺があの時、日葵さんに放った言葉そのもの。
今更になって、自分の放った言葉の重みを理解する。
「日、葵…………さん。」
十分に息が吸えていなかったからか、感じていなかった息苦しさを無理やり逃がすための防衛反応なのか、大粒の涙が零れ落ちていく。
「……うん。」
彼女は、片手に天馬を彷彿とさせる銀の盾を、もう片方の手には金色に発光する結晶のような素材でできた光り輝く剣を構えていた。
剣とおそらく同じ素材であろう綺麗な鎧ドレスには、西洋の騎士を思わせる十字の紋章も刻まれている。
それは一見、彼女も目の前の姉さんと同じく幻想であるかのように思わせるが、月に照らされる琥珀の双眸が彼女は俺と同じだと訴えているような気がした。
「
腕を切り裂かれた姉さんは俺に余計なことを考えさせまいとしているのか、それともただ感情のままに地団太を踏んでいるのかわからないが、蔓であたり一帯を無差別に攻撃していた。
「…………姉さん。」
それが姉さんの心のままに動いた結果なのだろうかと、邪推してしまう。
どうしてもあの遺書のことが頭から離れなかった。
死して初めて自分の感情を抑えずに行動する、なんてとても悲しいことだ。
これが偽物だったとしても、それは俺の心を締め付ける。
一歩、感情のまま足を進めれば、姉さんの元に。
「………棗くん。それは、駄目だよ。私たちはここで由里を殺さなきゃいけない。」
静かに、強く止められた。
現実で俺よりも姉さんの死を悼み、悲しみ、そして絶望していた日葵さんが、俺に対して姉さんを殺す、なんてあり得ない言葉を使って。
「そんなことできるわけ─────ッ!」
言葉は最後まで紡げない。
彼女の瞳には、憂いと決意が混在していたからだ。
あの時に見た底抜けの暗闇じゃない。暗闇の中に一本の光がさしているような。そんな瞳。
「
感情のままに放たれた
俺がそちらに目をやったときには無数の蔓が現前まで迫っていた。
その数は数えきれない。回避なんてできるわけないくらいの物量、速度。
「ごめんね。これが終わったら、全部、説明するから。」
だというのに、彼女は怪物に目をくれることもなく、俺を見つめてそう言った。
俺が発言する猶予もなく、それらは圧倒的な速度でこちらに向かってくる。
それらは、そのまま俺達を─────貫くことはなかった。
「…………は?」
俺は呆気にとられる。
蔓による刺突攻撃は、その一本一本が黄淡色の結晶によって覆われ、動きを停止したことで失敗していたのだ。
余りに一瞬の出来事だったから、それがどうなっていたのか、その詳細まではわからない。
けれど、俺の見たままなら。
日葵さんが手を翳した瞬間、蔓たちは先端部分から結晶に飲み込まれるようにして動きを止めていったのだ。
彼女は魔法のようなことをしたというのに、それを意にも介さず会話を続ける。
「だからさ、今は何も言わずに、由里を殺して。"もう一度だけ"私と一緒に。意味は、分かるはずだよ。」
『それ読んでたら、こうならなかったよね………?私さ、由里殺しちゃったのかな?』
『私たちのせいで!!由里はッ!死んだんだよ!!』
「…………ッ。」
その言葉に、目の前の彼女が俺の知っている"朝吹日葵"本人なのだと思い知らされる。
けれど俺は、どうしてもその言葉を否定したかった。
「……わかんないよ。日葵さん。俺達は姉さんを殺してない。もう一度だなんて…………!」
「わからないはずはないよ。アレが”正常”に見えているなら、君はもう、現実を見たちゃったんだよ。
私があの出来事をどう思ってるかだって、今の棗くんにはちゃんとわかってるよね?」
「…………っ。」
駄目だ。日葵さんの心の奥は、どうしようもなくあの日葵さんのままなんだ。
どこか冷めた部分でそう思う。
けれど、それと同時に、後ろ向きな覚悟が決まったような気がした。
いや、諦めや悲観の割合の方が大きかっただろうか。
日葵さんがあの記憶を持っているのなら、俺が逃げちゃだめだ。
俺はもう二度と同じことを繰り返さないように、ずっと日葵さんのそばに居なきゃならない。
俺しかいないんだから。日葵さんを支えるのは、俺の贖罪なんだから。
だからその初めの一歩として、
殺さなきゃいけない。そう思った。
「………そう、だよな。」
パキパキと、俺の理想が崩れていく音がする。
逃げられない。逃げちゃいけないそれに、俺はもう、目を背けないことにした。
「ごめん。姉さん……。」
強く握った右手の中に収められていたのは、通常のものよりも2~3倍は大きいであろうアンティークな半透明の鍵。
「俺は、殺すよ。……ごめんな。」
もう一度より強く握れば、それは巨大な鍵状の大剣となった。
「……棗くんは、"鍵"なんだね。」
日葵さんの呟きの意味は分からない。
それでもこの鍵が、俺にとって重要な何かで、日葵さんの鎧や盾、剣と同じような
「
「………耳を貸しちゃ駄目だよ。棗くん。あれは私達の"ストレッサー"。私たちのトラウマでしかない。残留思念なんてモノでもない、ただの
ああクソ。理想の世界も、カミサマも、結局全部駄目なのか。
どんな世界でもいい。なんて、言うんじゃなかった。
俺は、大剣を姉さんに向ける。
「
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます