第4話 万物生 パリ・ブルターニュ

 結婚20周年を迎えて、わたしと夫の絆は一層強くなった。そんなふうに感じていたある日、家で夕飯の準備をしていたわたしに夫から電話が入った。


「寿美子。今すぐ荷物をまとめてフランスへ飛びなさい。23時半成田発の飛行機を取ったから」


「篤志さん?いったい、どうしたの?」


「さっき、お義父さんから連絡が入ったんだ。アルベールさんが危篤だと」


「え……」


「お義父さんは、ずっとアルベールさんと連絡を取り合っていたんだ。先ほどお嬢さんから連絡が入ったらしい。寿美子、行けるね?」


「……できないわ。わたし、そんな。だって……」


「寿美子、行くんだ。準備はできるかい?」


「……」


「今から僕も帰るから」


 夫は仕事を切り上げて家に帰ってくると、スーツケースに必要なものを詰め込んで、自ら成田まで車を走らせてくれた。


 わたしは、久方ぶりに聞く彼の名前と、想い出の中の青年が今この瞬間にもこの世を去る間際にいるのだという事実に酷く動揺して、現実を受け止められずにいた。


 助手席から夜の帳が下りた千葉の景色が後ろに流れていく様を眺めていたら、時空が歪んで時間が現在から過去へと流れていくような感覚に陥った。


「……アルベールさんだが、5年前から癌を患っていたそうだ。パリに着いたら、お嬢さんが迎えにきてくれる手筈になっている。これは彼女の連絡先だ」


「……」


「寿美子。しっかりしなさい。僕も、彼のことを祈っている」


「……はい」


 飛行機は、夫がビジネスクラスを予約してくれていた。こんな時でもわたしを甘やかしてくれる夫の優しさに、一握りの勇気をもらった。


 一睡もしないまま早朝のシャルル・ド・ゴール空港に着くと、彼のお嬢さんがわたしを出迎えてくれた。


「スミコさんですね?私はアルベールの娘のカミーユです。父の為に、来てくださってありがとうございます」


 自ら運転する車の中で、彼女は私に簡単な自己紹介をしてくれた。


「え?25歳?Vingt-cinq ans?」


「私は、父の養子なんです。父の姉の娘だったんですが、6歳の頃、両親を事故で亡くして。それで、アルベール叔父さんが私を引き取って育ててくれたんです」


「そう、でしたか」


 わたしは、19年前のお正月に、実家で年賀はがきの整理をしていた時のことを思い出した。フランス語で書かれたクリスマスカードが混ざっていた。見覚えのある、小さくて丸っこいアルファベット。アルベールの筆跡だ。メッセージの最後に、Albert et Camille(アルベールとカミーユより)と記されていた。


(アルベール、結婚したのね)


 彼との未来を選ばなかったのは自分なのに、彼の奥さんが日本人でないことに心のどこかで安堵した自分を浅ましく思った。


「アルベールさんね、結婚したそうよ」この一言が、夫に言えなかった。


(奥さんじゃなくて、義娘さんだったのね)


 彼が住む、パリ六区のアパルトマンに着いた時、彼の意識はすでに朦朧としていた。親族が出入りする彼の寝室へ足を踏み入れることを躊躇していたわたしを、カミーユが手を引いて彼のベッドのすぐ隣に座らせてくれた。


 ロマンスグレーになった髪を優しく撫でながら、私は会えなかった21年間分の出来事を日本語で語り続けた。最後に感謝の気持ちを伝えると、堰を切ったように涙が流れて、最後の方は嗚咽に変わってしまった。


 その日の深夜、彼は静かに息を引き取った。45歳だった。


 半ば放心状態でホテルに戻り荷解きをしていたら、携帯用のジュエリーケースの中に、昔アルベールから贈られたサファイヤのイヤリングが納まっているのを見つけた。


(篤志さんは、知っていたのね。私が、アルベールからの贈り物であるそのイヤリングを、後生大事に宝石箱の奥に仕舞っていたことを)


 葬儀は、パリ市内の大聖堂で行われ、彼が眠る棺は、2日後、ご両親と同じブルターニュの港町にある墓地に埋葬されることになった。わたしもTVGに乗り、彼に贈られたイヤリングを身に付けて墓地へ向かった。地面から2メートル程下の地中に収められた彼の棺の上には、彼が大好きだった紫陽花を添えた。


 葬儀が全て終わった後、わたしはカミーユと大西洋をのぞむ浜辺を散歩した。波が高くて荒々しい。波音にも迫力がある。吹き渡る海風はカラッとしていて、わたしの頬を撫でることなく、するりと通り抜けていく。


(アルベールの心象風景にある海、それは自分の知る海とは全く違うものだったのね……)


 晩春のまだ肌寒い色合いのブルターニュの海を見て、わたしは自分の初恋がはじめから成就する運命になかったことを理解した。理屈ではなく、心で。21年という年月を超えて、瞬時に。


(同じ海を眺めていても、全く異なる風景を心の中に思い描いていたわたしたちの間には、乗り越えなければ一緒になれない何かがあったのね……そしてわたしはあの時、その何かを見て見ぬふりをしたんだわ)


「もしかして、父は貴方を忘れられなくて独身を貫いたんじゃないかって思ってる?自分だけ幸せになって申し訳ないって」


「それは……」


「あのね、こんな事をいうのもあれだけど……父は、たしかに貴方のことを忘れられずにいたようだけれど、その時々で、ガールフレンドはいたのよ?だから、スミコが気にするようなことは何もないの。むしろ、私みたいなコブ付きだったことが、父の結婚を遠ざけちゃったんだと思う。それに、スミコが来てくれたこと、父は喜んでいると思う。……帰国したばかりの頃、海をね、ブルターニュの海を、すみこに見せたかったと言っていたから」


 くしゃりと笑ったカミーユの顔が、わたしには泣き顔に見えて、思わず彼女を抱きしめた。彼女の肩が小刻みに震えているのに気づいて、とめどなく涙が溢れた。それから暫く2人で抱き合ったまま、お互い気が済むまでアルベールを想って泣いた。


 帰りの電車の時間が気になり始めた頃、突然、雲の隙間から太陽の光が差して、それが水面に反射してキラキラと輝いた。わたしの知るパステルカラーのような春の海とは違う力強い自然の美しさに、天から与えられた命の尊さのようなものを感じた。

 

 その瞬間、わたしは思った。

 これからは、私の人生を心のままに生きようと。

 大切にしたいと思う人には、ちゃんとその時、想いを言葉にして伝えようと。


 二日後。

 成田に降り立ち、税関を抜け到着ロビーに出ると、心配顔の夫がわたしを出迎えた。


「寿美子。おかえり」


「篤志さん。ただいま戻りました」


「疲れただろう?帰ろうか」


「篤志さん」


「ん?」


「愛してます。ずっと、貴方の側にいさせてください」


 夫は一瞬、驚いたように目を見開いたが、次の瞬間、相好を崩して私を抱き寄せた。

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