第3話 慈雨 横浜

 会食のレストランに着いて名を告げると、感じの良い笑顔を添えた男性が席へと案内してくれた。そこは、みなとみらい地区にできたホテルの最上階にあるレストランだったのだけれど、夫が予約していたのは横浜港を望む個室のテーブル席だった。


「わぁ。素敵なところね」


「寿美子は海を眺めるのが好きだから」


「ありがとう。フォスター夫妻とご一緒するのは久しぶりね。お元気かしら」


「そのことなんだけど……実は、今夜、彼らは来ない」


「え?」


「会食というのは口実で、本当は寿美子と結婚二十周年のお祝いをしたくて、ここを予約したんだ」


「え、そうだったの?でも、どうしてわざわざ会食だなんて」


「そうじゃないと、こういう場所での食事、寿美子は遠慮するだろうと思ってさ」


「ふふっ、そうだったの。とても素敵なところね。連れて来てくれてありがとう」


「気に入ってくれたなら、良かった」


「それは、食事しだいかな?」


「味は僕が保証する。ここの魚料理は美味いんだ」


「そうなの?それは楽しみだわ。……それで?前回はどなたといらしたの?」


「ははっ。寿美子がそんなふうに興味を持ってくれるなんて、嬉しいな。でも、仕事仲間だよ。君が嫉妬するようなやつらじゃない」


「そうなの?じゃあ、信じるわ」


 食後の珈琲を頼むと、おもむろに姿勢を正した夫が、可愛らしい空色のリボンがかかった小さな箱を差し出した。


「え?」


「開けてみてくれるかな」


「……」


 箱の中には、深い碧色のサファイヤの指輪が輝いていた。


「これ……」


「サファイヤ。寿美子に似合うと思って。……あの時、どうしても、買ってあげられなかったから」


「っ……」


 20年前、夫から正式にプロポーズをされてそれを受けたとき、2人で婚約指輪を選びに出かけた。サファイヤの指輪が欲しいと言ったわたしに、婚約指輪といったらダイヤモンドだろう?と、夫にしては珍しく強引にそう言った。結局、当時流行っていたブランドのそれは豪華なダイヤの指輪を贈ってくれた。


「寿美子。21年前のあの時、僕を選んでくれてありがとう」


(サファイヤは、アルベールの瞳の色。篤志さんはきっと、知っていたのね……)


 平凡なわたしを特別扱いしてくれて、不器用でおっちょこちょいで、失敗ばかりするわたしを甘やかして許してくれるこの人の包容力に、わたしはこれまで、どれだけ救われてきたのだろう。どれほどの愛情を注いでもらってきたのだろう。彼といると、こんなにも心が満たされるのに。わたしは上手に愛を伝えられてきただろうか……。


「っ……篤志さん。……わたしを妻にしてくれて、ありがとう。この指輪、一生、大切にする」


「うん」


 自然と涙がポロリと零れてきて、それを無造作に手の甲で拭っていると、夫がハンカチで目尻を押さえてくれた。それから、わたしが落ち着いたのを確認すると、そっと手を取り薬指に指輪を通してくれた。その時、夫の瞳が揺れていたように感じたのは、蝋燭の灯のせいだけではなかったと思う。


 食事が終わると、夫はこのまま今夜はこのホテルに泊まって行かないか、と言った。娘は春休みの間、従姉妹たちと葉山の別荘に泊まりに出かけているから、わたしも夫の提案に頷いた。


 夫は、横浜港が一望できるホテルの部屋を取ってくれていた。知らないうちに霧のように細かな雨が降っていて、窓から見える夜景を優しく彩った。


 夫との行為はいつだって、わたしを優しく満たしてくれる。いつもは落ち着いた大人の余裕を感じさせる彼なのに、その夜の夫はどこか余裕なさげで、彼に対する愛おしさが募った。


 ベッドで微睡む私の頭を優しく撫でていた夫だけれど、唇に触れるだけのキスを落とすと、わたしの身体を抱き寄せて「僕は、寿美子を幸せにできてるかな……」とつぶやいた。


 独り言のように紡がれた彼の声がなんだか不安気に聞こえて、思わず顔を上げ、彼の瞳を覗き込んだ。


「わたしは、篤志さんといれて、幸せよ?貴方もそうだといいな、って思ってる」


「そうか……。嬉しいな」


 夫は、今度は深くわたしの唇に口づけると、少年みたいに照れた顔をしながら再び身体を重ねてきた。


 その夜、わたしは何度も夫から「寿美子」と呼ばれた。若い頃にはどうにも好きになれなかったその凛とした響きが、年齢を重ねた今の自分には存外にしっくりくることに気付いて、胸中に温かな波がさざ波のように広がって行った。

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