第2話 1979年4月 春霖雨

「寿美子」

 日本語で呼ばれると、どこか澄ましたような、大人っぽい響きを持つ自分の名前を、わたしはどうも好きになれなかった。


 それを初めてフランス語訛りの発音でそう呼ばれた時、まるで等身大のわたしを受け入れてもらえた気がして、胸がトクンと高鳴ったのを、今でも覚えている。


「すみこ」


 わたしは、そんなふうに柔らかな音色で自分の名を呼んでくれるその青年に、恋をした。ヘーゼル色の髪に、爽やかな空色の瞳をしたその彼は、名をアルベールといった。彼はパリのグランゼコールを卒業した後、一年間という契約で東京の私企業へ派遣されていた、当時24歳の青年だった。


 21年前の春。

 わたしはアルベールと今と同じ場所に腰掛けて、柔らかく霞む横浜の春の海を眺めていた。


「ホットコーヒーをおねがいします」

 何の衒いもなく注文する彼をみて、時の流れを痛感する。


 初めて彼と珈琲店に入ったのは、昨年の6月。梅雨の中休みの、蒸し暑い日だった。コーヒーを注文した彼は、ホットコーヒーでよいかと聞かれ、困った顔で私に助けを求めた。


「日本にはこの季節、アイスコーヒーもあるのですよ」


 フランス語でそう説明すると、彼は大袈裟に驚き、だったらぜひ試したいと言ってアイスコーヒーを注文した。


「わたしには、温かい紅茶を頂けますか?」


「すみこは、こんなに暑い日でも温かい紅茶を飲むのですか?アイスコーヒーがあるのなら、アイスティーもあるでしょう?」


「だって、お腹が冷えるんだもの」


 彼は「ふっ」と短く笑い、淡い青色の瞳を優しげに細めた。


 梅雨は苦手だと言うわたしに、アルベールは「僕は好きだ」と言ってまた笑う。


「この湿気を含んだ空気が懐かしくて。肌を撫でる柔らかい風も、庭を彩る紫陽花も、僕は好きです」


「懐かしいって……貴方は、生粋のフランス人でしょう?」


「そうですが、初めて成田に到着したとき、思わず懐かしいと感じたのです。初めてすみこに会ったときも」


 彼と初めて対面した日、わたしも不思議と懐かしい感覚に包まれた。フランス語が流暢とはいえ、母国語ではない言葉で話しているのだから違和感があってもおかしくないのに、彼とはまるで日本語で話しているかのように自然と言葉を紡いでいる自分に驚いた。


 あれから季節は過ぎ、彼が日本で過ごす二度目の春がやってきた。彼の駐在期間が一年であることは、出逢った頃から聞かされていて、別離の覚悟は出来ているつもりだった。


「お国に戻る準備は、進んでいますか?」


「はい。今夜からホテル暮らしです。あとは、貴女だけ。どうしても、僕と一緒にパリに来てはくれませんか?」


「アルベールさん……」


「すみません。困らせるつもりはなかったのですが、諦めきれなくて。僕は、すみこについてきてほしい」


 彼はそう言うと、眩しそうにわたしを見つめた。


 わたしは彼の真っ直ぐな瞳を見るのが怖くて、海を眺めるふりをして曖昧に微笑んだ。


 アルベールとは、わたしの父がフランス文学史の教授だった関係で知り合った。横浜の山手にある実家へは何度も遊びに来たし、時には母のお節介で泊っていくこともあった。


 わたしは幼い頃から自然とフランス語に親しんでいたから、20歳を迎える頃には流暢に使いこなせるようになっていて、何かと彼を気に掛ける両親の代わりに通訳として色々な場所に彼と出かけた。


 両国へ相撲を見に行ったり、神保町で浮世絵や古地図を捜し歩いたり、高尾山に登ったり――。初めは、彼に日本を知ってもらいたいという純粋な思いで案内をしていたのに、それが恋心に変わるのに、さして時間はかからなかった。


 フランス大使公邸で開かれたパーティーにも、両親や婚約者の承諾のもと、パートナーとして参加した。その時アルベールは、彼の瞳と同じ色をしたサファイヤのイヤリングを贈ってくれた。


「すみこの美しい黒髪には、サファイヤの青がよく映えると思って」

 少しはにかんだ笑顔で、そう言いながら。


 思えばこの頃にはもう、彼に対する思いが友情ではなく恋情だということに、わたしは気づいていたのだと思う。

 けれど、その頃のわたしにはもう将来を約束した人がいたし、アルベールだけを頼りに住み慣れた土地を離れ、外国へ渡るだけの勇気も持ち合わせていなかった。


 もしかすると、夫と婚約した経緯に両家の事情がなければ、親の面子など考えずに婚約を解消し、アルベールについて行くこともできたかもしれない。結婚も口約束で、正式な婚約の手続を踏んでいたわけではなかったから。

 彼がもっと強引に結婚を迫ってくれていたなら、あるいは――。


(そんなの、言い訳ね。私はまだ、子どもだったの。何の力もない、未熟で、守られるだけの……)


 アルベールはその年の四月七日、フランスへ帰国することが決まっていた。

 わたしの遅すぎた初恋は、始まった時にはもう終わりが来ることが定められていた。


 わたしは、アルベールから一緒にパリへ来てほしいと何度か言われていた。求婚と呼べるほど力強いものではなかったけれど、彼がわたしと人生を共に歩みたいと思ってくれている事は十分に伝わってきた。


「帰国までこのホテルに滞在しています。いつでも来てください」


 アルベールはホテルの名前と部屋番号を書いた紙を手渡してくれた。彼の瞳が、苦し気に揺れるのを見て、私の心の水面も波立った。


 それから一週間、二人の男性の間でわたしの心は揺れ動いた。


 明後日、彼が日本を去るという日の夕暮れ。わたしは彼が滞在しているホテルの部屋を訪ね、ドアをノックした。暫くして顔を出したアルベールは、ノックの主がわたしだと知ると、喜びを抑えきれずに破顔した。


 けれど、思い詰めた顔をしたわたしを見て、一緒にパリへ行くと告げに来たのではないことを察したようだった。眉尻を下げて優しく瞳を細めると、部屋の中へと招き入れてくれた。


(アルベールと一緒にフランスへ渡ることはできない。けれど、このまま別れてしまったら、わたしはきっと一生後悔する。だからせめて……)

 

 そんなわたしの覚悟を、彼は受け取ってくれた。


 21歳の春の夜、わたしは少女から女になった。


 初めてもたらされる痛みと感覚に、戸惑いはもちろんあったけれど、彼から与えられるものだと思うと、痛みすら心に刻んでおきたいと思った。彼に純潔を捧げられた喜びと別れの悲しみとで、泪が溢れて止まらなくなってしまったわたしを、彼は労わるように目尻に優しく口付けを落とし、強く抱きしめてくれた。


 掠れた声で「ジュ テーム」とささやくその低音の響きが、いつまでも耳に残った。


 いつもは冗談っぽく「すみこ、だいすき」と言っていた彼なのに、その日ベッドで何度もささやいてくれた彼の母国語で紡ぐ愛の言葉は、なぜか日本語の「だいすき」よりもずっと強い質量を伴ってわたしの心の奥深くへと届き、沁み込んでいった。


 その日、宵の口から降り始めた雨はしとしとと降り続き、家まで送っていくという彼の申し出を強引に断ったわたしは、傘もささず桜花を散らす無情の雨に打たれながら自分の戻るべき場所へと帰って行った。涙もアルベールへの恋情も、洗い流してくれることを祈りながら。


 あの時のわたしは愚かにも、自分が彼のために差し出すことができるのは、結婚まではと大事にとっておいた乙女ぐらいだと思い込んでいた。本当は、差し出せるものは他にもたくさんあったのに。


 たとえば、勇気とか。

 たとえば、時間とか。


 両親を説得する努力をしなかった自分を、代替案を提案する知恵がなかった自分を、フランスへ渡り暫く彼と暮らしてみる勇気を持てなかった自分を、無知で無力な自分を、わたしは責めた。


 親が用意してくれた美しい額縁の中に自分をはめ込んで、その小さな世界の中で、できるだけ美しい絵となり生きていこうと思っていたわたしに唯一できた自己表現が、その春アルベールと過ごした一夜だった。


 本当は、額縁にも色んな素材があって、ゴムのように弾力があるものを選べば自分でその枠を大きくも小さくも出来るのに。どんな絵を飾りたいのかも、自分で選べるのに。その当時のわたしは、自分の心を表現する術を知らない子どもだったし、それを説いてくれる人間もまた、側にはいなかった。


 アルベールが帰国して3か月が経った頃、私は現在の夫から正式に求婚され、翌年、大学を卒業してすぐに彼と結婚をした。22歳の春のことだった。


 結婚後に迎えた夫との初夜は、とても緊張した。純潔はアルベールに捧げていたから。そのことには、一抹の後悔もない。

 けれど、目の前にいる、この優しい人を傷つけたくないと思ってしまった。アルベールとの逢瀬は一夜限りのものだったし、あれから一年近く経っていたけれど、夫がどう感じたのかは、女であるわたしには知る由もない。ただ、この穏やかな内海のような夫の瞳を悲しみで曇らせるような真似だけはしまいと、その夜、固く心に誓った。


 カランという来客を知らせる扉の音で我に返り、何気なく外に目をやると、すでに日は暮れ雨も止んでいた。約束の時間の20分前になり、わたしは会食の場所まで海沿いを歩いて向かうことにした。

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