春の海に貴方を想う~横浜・フランス恋物語

花雨 宮琵

第1話 2000年4月 花時雨

 42歳のわたしは今、横浜港を望む想い出のホテルの珈琲店にいる。


 今夜は夫と仕事上お付き合いのある英国人夫妻と夕食をご一緒することになっていて、お気に入りのバーで夫と食前酒アペロを楽しんでから会食のホテルへ向かう予定だったのだけれど、先ほど、仕事で遅れそうだから直接現地で会おうと連絡が入った。


「会食までは、まだ時間があるわね……」

 思いがけず自由な時間ができたわたしは、心地良い春の海風を感じながら生まれ故郷の夕暮れの町を散策することにしたのだが――。


 気まぐれな春雨に見舞われ、はからずも想い出のホテルで雨宿りをすることになった。21年間、決して立ち寄ることのなかったこの場所に、私はまるで導かれるように足を踏み入れた。あれほど意識的に避けていたはずなのに、異国情緒溢れる重厚な佇まいを見せるその空間は、いとも容易くわたしを受け入れた。人口的な空調の乾いた空気が、身体に纏っていた湿気をあっという間にどこかへ追いやっていく。


 海の見える窓際のテーブルに腰掛けると、ホットコーヒーを頼んだ。窓を打つ雨音が次第に激しくなっていく。

 

 建物の中から眺める雨は好きだ。安全だし、寒さに震えることもない。


「わたし、幸せよね」

 雨雫で霞んだガラス窓に映るわたしに向かって独り言を紡ぐ。


 10ほど年の離れた夫とは、親同士が親しいという理由で知り合った。当時のわたしは、裕福な家庭に育った、お嬢様学校と呼ばれる学校に通うごく普通の18歳の少女だった。10代の殆どを外国で過ごしたという旧家の嫡男である夫は、そこはかとない気品を漂わせた物静かな男性だった。出逢った頃の彼は20代後半で、すでに実業家としての頭角を現し始めていたが、わたしの前ではいつも、瀬戸の夕凪を想わせる澄んだ瞳に穏やかな微笑みをたたえていた。


 そんな彼をわたしは尊敬し、兄のように慕った。彼も同じように、お転婆でヘマばかりする私を「目が離せない」と言って妹のように見守り、大事にしてくれた。こんな二人の関係性は、今日まで続いている。


 都心の一等地に家を持ち、葉山に別荘を建て、週末は海を眺めながら過ごす穏やかな日々。結婚してすぐに授かった一人娘は、18歳になる。


「絵に描いたような幸せな人生ね」

 

 自嘲気味にそう言ったわたしのつぶやきは、雨音がうまくかき消してくれた。自分の人生をそんなふうに言うなんて。21年前、あの春夜の日からわたしは自分の人生を生きていないんじゃないか、そんな気さえしてくる。


(アルベール)


「横浜の港は、心なしかヨーロッパの香りがします。郷愁を誘う街ですね」

 そう言ったあの男性ひとの、均整の取れた彫りの深い横顔を想い出す。


 彼と出会う前は、春に降る甘さを含んだ雨が好きだった。雨上がりの爽やかな空気や、彩りを濃くした街の鮮やかな風景も。

 けれど今は――。古傷が痛むように、わたしの心は切なくなる。


「お待たせいたしました」


 淹れたてのコーヒーのナッティーな香りが鼻腔をくすぐり、現実へと引き戻される。肌になじみ味わいが増した二重巻きベルトの時計を見ると、まだ約束の時間まで余裕があった。


 ミルクを入れて、マロン色の液体に白が混ざり合う様を何とはなしに眺めていたら、心の奥深くに仕舞い込み、蓋をしたはずの遠い記憶が蘇ってきた。あれからもう21年も経つというのに、驚くほど色鮮やかに――。

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