第10話
久紀子は必死で思い返した。
最初は、子供たちのことを思った時だ。自分の命より大切に感じているのに、名前が思い出せない、とショックを受けたとき。
次は、夫について、「あなただけでも生きてほしい」とつぶやいた瞬間だった。
そして今、夫だけは死なないよう、どうにかしたい、と強く願った。
──そうだ、命について、つよく思った時に雪は輝くのだ。
そもそも、この雪は何なのだ。きらきらと輝いて、本物の雪とはまるで違う。
この雪に似たものには、命にまつわる、何かの秘密があるんじゃないか。もしかしたら、夫が生き延びるための助けになるんじゃないだろうか。
もっとよく見よう、と久紀子が手を伸ばし、その一粒が手のひらに触れた時だった。
ばちぃっと感電したような痛みとともに、身体の中に何かが流れ込んだ感覚がした。
体中に、映像が、音が、匂いが、巡る。知らない女性の笑顔。見覚えのない景色。見知らぬおばあさんの口ずさむ、子守歌。紅茶と、焼き立てのパンの香り。
久紀子の記憶ではない。これはいったい、誰のものだ?
ひどい目まいがして意識が遠のきはじめ、後ろへと倒れそうになった。
「久紀子、危ないっ」
すんでのところで、夫が久紀子を抱き止め、けがはしなかった。けれど、今度は夫が感電したかのように、苦痛に顔をゆがめている。
久紀子の時よりも、もっと辛そうで、久紀子を支える腕が、激しく震えている。
「大丈夫? しっかりしてっ」
急いで夫にもたれていた身体を起こすと、その拍子に夫は地面に倒れ込んだ。
顔面は蒼白で、瞳は今にも閉じそうだ。
「だめよっ、目を開けて。み、のるっ」
あっと思ったの同時に、稔(みのる)の身体は雪と同じ色の光に包まれ、瞬く間にその光は凝縮し、ちいさな雪の一粒となった。
雪はそのまま落下していき、地面に触れる寸前、きらりと輝くと、あっけなく消えた。
すると、稔はけろりとして起き上がり、二人は何を言わなくとも、悟ったのだった。
ああ、今、稔は死んでしまったのだ、と。
降りしきる雪は、命そのものだったのだ。こうしている間にも、生涯を終えた人々の生命が、降ってくる。
身体に流れ込んできたあの映像たちは、亡くなった人の記憶だ。
二人は、ベンチに並んで座り直すと、ひとしきり黙って、きらめく雪を見ていた。
それからどうにか声を振り絞って、久紀子は言った。
「ごめんなさい……私が、あなたの名前を呼んでしまったから。あの時、雪に触れなければ……」
言いながら、涙があふれて止まらなくなった。
「いやぁ、久紀子のせいではないよ。僕が死んだから、名を思い出したんだろう。順番が逆だよ」
稔は、案外あっけらかんとしていた。しゃべり出したら、もっと取り乱すだとか、怒ったり、泣いたりするかと思っていたのに。
「それでも、やっぱり、私が言わなければ、もしかしたら……」
ぐずぐずと泣き続ける久紀子に向かって、稔は言った。
「それを言ったら、僕が車なんかださなきゃよかったんだ」
「そんなことないわよ……」
久紀子と稔は、それからまた、押し黙った。何を言っても、もう時は戻らない。
その実感が、じわじわと襲ってくる。
長い長い時間が過ぎ、永遠に続くかと思う沈黙を破って、ぼそりと稔がつぶやいた。
「なんか、腹が減ったな」
「ええ?」
拍子抜けして、身体がかくっと傾いた。
「お腹すいたって……あなた、死んでるじゃない」
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