第9話
「目は開けられないんだけど、時折、聞こえるんだよ。ピッ、ピッというモニターの音や、人の話し声なんかがして、病院にいるんだなってわかった。それに、子供たちだろうね、お父さんと呼びかける声がして……。それで、君の葬式について話しているのも聞こえた。ああ、駄目だったかと思ってね。それからは、眠ってしまったのか、何も覚えていなんだ。目が覚めたら、街中にいた」
交通事故で久紀子は死んだ一方、夫は一命を取り留めていた、ということだろうか。
「ここがあの世だとしたら、結局、僕も死んでしまったのかなぁ」
ひとり言のようにぼそっと夫はつぶやいた。けれど、それでは名前が思い出せないことと理屈が合わない。そもそも、その名が言えない人は、生きているという仮説があっているとも限らないけれど。
その時ふと、佳代子おばちゃんの言葉を思い出した。
『だめよ、呼んじゃ……絶対に……』
あの時は何の話か全くわからなかったけれど、あれは、名前を呼ぶなという意味だったのかもしれない。
名を口にできる人は死んでいる。呼んではだめということは……?
「もしかして、あなたはまだ生きているんじゃない?」
思わず立ち上がって言った。夫が困惑した表情で、久紀子を見上げる。
「そんなことあるかな? ここには亡くなった人たちしかいないし、こんなきらきらした雪が降って、どう考えても現実とは思えない……」
「生死をさまよってるとか、そんな状態なんじゃないかしら」
夫は宙を見つめたまま、しばし考え込んでいた。
もしも、二人して死んでしまったら……。
久紀子の頭に、子どもたちの顔がよぎる。あの子たちはまだ大学生だ。両親を失って、途方に暮れてしまうだろう。胸がぎゅっと強ばった。
名前の分からない、久紀子の愛しい子どもたち。
「あなただけでも、生きてほしい」
久紀子がつぶやくと、再び、雪がまぶしく輝いた。
その途端、目がくらんで、また激しい頭痛がした。
「いたっ」
耐えきれず声をあげると、「どうした?」と夫が駆け寄ってくる。
「ありがとう、み……」
はっとなって、思わず口を手で覆った。おそるおそる夫を見ると、顔の色を失っている。
今、名前を思い出しかけた。夫の命は、いよいよ危ないということか。
駄目だ、両親がいっぺんに亡くなるなんて、子供たちにはきっと耐えられない。父親だけでも、生きていてもらわなければ困る。
どうにかできないか。どうしても、死なないでほしい。
そう強く願うと、降り続く雪はまた激しくきらめいた。さっきから、輝きが増す瞬間がある。
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