第8話
辺り一面を真っ白に照らしていた、雪の光が落ち着いたころ、久紀子はすべてを思い出していた。
「私、事故に合ったんだった」
夫の眉が、ぴくりと動いた。
「記憶が戻ったのか……。そう、僕が運転していた車に君も乗っていて、対向車線をはみ出してきたトラックとぶつかったんだ」
頭に浮かんだあの血の映像は、最期の記憶だったのだ。
「私、死んじゃったの? ここは、あの世ってこと?」
名のわからない夫は、ひとつ深いため息をつくと、覚悟を決めたように口を開いた。
「おそらく。君が名前を憶えているのは、もう亡くなった人だけじゃないか?」
言われてみれば、確かにそうだ。さっき口に出来た人は、久紀子より先に逝ってしまった人たちだ。
そう気づくと、久紀子の胸はずしりと重くなった。胃液がこみあげてきた時に似た、嫌な感覚が全身に走る。
「さっきからみんな、私の名前を呼んでた。私、やっぱり、死んじゃったんだ……」
口にしても、涙は出なかった。でも、もう子どもたちには会えないと思うと、水面に黒い絵の具を垂らしたみたいに、絶望が広がっていく。
堪らずうつむくと、夫に肩を抱き寄せられた。じんわりと温かい。おばちゃんの身体はひんやりとしていたのに。
いや、違う。冷たいというよりは、体温を感じなかった……。
はた、と久紀子は夫の顔を見た。
「私、あなたの名前が思い出せないの。ってことは、あなたは……」
「実を言うと、僕も自分の名前がわからないんだ」
首を傾げ、お手上げというように、夫は小さく両手をあげた。
それから、夫は久紀子の元へ来るまでのことを、順に話した。
気が付くと、街の中に立っていて、その瞬間から、『久紀子に会わなければ』とそればかり頭に浮かんだらしい。そのうち、いる場所が久紀子の実家辺りだと分かって訪ねると、追い返されてしまい、叔母の家にまわったそうだ。
久紀子と違い、夫は事故を覚えており、その後も断片的にだが、記憶があるという。
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