第6話
「久紀ちゃん、記憶が戻り始めたんだね」
おばちゃんは、久紀子、それから夫、と順番に視線をやると、
「二人で話しておいで。中途半端に思い出すのでは、かえって苦しむ」
と静かに言った。
急に言う事が変わったので、驚いておばちゃんを見ると、何も聞くなというように、目を伏せている。
「少しの間、久紀子をお借りします」
夫はおばちゃんに頭を下げたあと、久紀子にむかって、さあという風に首を動かした。
ドアを壊すほど鬼気迫った夫の様子と、久紀子をやさしく心配する姿が別人のようで、何を信じたらよいのか分からない。
久紀子は助けを求めるように、おばちゃんに視線を投げる。
「大丈夫、危険な目にはあわないよ。行ってきなさい」
久紀子の心を見透かしたようにおばちゃんが言うと、夫は神妙な顔でうなずいた。
気がつけば、もう頭痛はしなくなっていた。でも、胸のざわめきは消えない。
そうは言っても、二人には、有無を言わさぬ迫力のようなものがあり、しかたなく夫と一緒に外へ出た。
歩き出そうとすると、後ろから声が聞こえた。
「だめよ、呼んじゃ……絶対に……」
上手く聞き取れず振り返ると、開けっ放しの壊れた玄関には、もう誰もいなかった。
夫はそのまま近所をぶらりとするだけで、何も話さない。久紀子はどうしたらよいのかわからず、ただその後をついて行く。
懐かしい景色。この道は通学路で、小学校の帰りに、知らない人の家に咲いているサルビアの花をこっそりもいでは、蜜を吸って喜んでいたっけ。
中学生の頃は、学校で話すだけでは足りなくて、家まで二分とかからないそこの曲がり角で、友達とずっと座り込んでしゃべっていた。
何もかも、あのころと変わっていない。違うのは、このきらりと光る、止む気配のない雪だけ。
五分ほど歩いたところで、小さな公園に着いた。夫がベンチに座ったので、久紀子も隣に腰かけた。
「具合はどう?」
夫の声は穏やかだった。さっきまでの緊迫した様子が、嘘みたいだ。
「もう平気。でもなんだか怖いし、病院に行かなきゃね。あなたこそどうしたの? 乱暴にして、ドアを壊しちゃったし。何か変よ」
「病院に行かなきゃ、か」
夫が軽く笑ったので、久紀子はむっとした。
「何がおかしいのよ。少しは心配しなさいよ、すっごく痛かったんだから。それに、こっちに来てからずっと変なの。うまく言えないんだけど、いろんなことが」
話すうちに、また頭に刺すような痛みが走る。
「君は本当に、何も覚えていないんだね。……あっという間だったからかな」
上手く返事が出来ない。何の話をしているのだろう。私は、何を忘れているのだ? とても大事なことのような気がするのに。
痛みが治まらず、耐えている久紀子の頭を、夫はずっと、撫で続けてくれた。
それからどのくらい時間が経っただろう。唐突に尋ねられた。
「僕の名前を言える?」
痛みが一瞬止んで、久紀子は顔を上げた。
「何いってるの、いくらなんでも覚えているわよ。あなたの名前は……なまえ……」
久紀子は愕然とした。
夫の名前が思い出せない。おかしい、落ち着け。──苗字は?
岡田。そうだ、苗字は岡田。それはわかる。じゃあ、名前は?
……駄目、どうして? 最初の一文字は、何だった? 全部で何文字?
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