第5話
「可哀そうに……。いいの、分からないままで。いつか自然に思い出す日が来るから。記憶がないということは、今は忘れていたいってことだよ」
しばらく抱きすくめられているうち、おかしなことに気がついた。
おばちゃんの身体から、温もりを感じない。かといって、冷たいわけでもない。なんというか、物に触れているみたいだ。
そういえば、外も変な気温だった。雪が降っているのに、寒くもなく、どことなく涼しい気がしただけだ。
今は、何月だったろう。雪が降っているから、冬? 今日は何日で、いま何時だ?
夫が来ているということは、休日? 東京からここまで、車で三時間、わざわざ追ってきたのだろうか。
なぜ、こんなに何もかも分からないのだ。私は、どうしてしまったのだろう。だんだんと恐怖を覚えてきた時、がたたぁっと大きな音がした。
急いで振り返ると、ドアが外れて開いていた。夫が、とうとう壊したのだ。
「なんてこと……。だめよ、来ちゃ」
おばちゃんの顔はひどくゆがんで、恐怖に染まっている。
「申し訳ありません、でも、僕はどうしても、久紀子に会いたくて……」
謝りながら、旦那が玄関の中に入ってくる。逆光でよく顔が見えない、と思った瞬間、激しい頭痛に襲われた。
あまりの辛さに、立っていられずしゃがみこむと、おばちゃんが「久紀ちゃん、久紀ちゃん」と呼びかけながら、隣にかがみこむのがわかった。
返事も出来ないほど痛みが増してきて、同時に、頭の中になにか映像が浮かんできた。
地面に、なにか液体が流れている。辺りにどんどん広がっていく赤黒いそれは、血のようだった。
「久紀子、大丈夫か?」
低い声が聞こえて、それから分厚く大きな手が、肩に触れた。
おばちゃんのとは違う、とても温かな手のひら。
そうだ、夫は赤ちゃんみたいにいつも体温が高くて、よく久紀子がからかって、二人で笑っていた。
顔をあげると、夫が身体を曲げて、ひどく心配そうに久紀子の顔を覗き込んでいる。
「あなた……。私に一体なにがあったの? いま、血が見えたの。血溜まりができるくらい大量の……」
言いながら、身体が震えてきた。側についていたおばちゃんが、か細い声でつぶやく。
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