第10話 ネモフィラ
顔の半分くらいが眼鏡といっても過言ではないほど表情を覆い隠していたせいで、至近距離で見つめられてもまったく気が付かなかった。
眼鏡を外すとすごい美少女なんて、漫画やラノベの中でだけ存在するUMAの一種、しかも近年では絶滅危惧種に認定されるレベルのレアキャラだと思っていたのにこんなに身近に実在していたとは。
「ごめんね、お待たせ! ……うん? どうかした?」
「――え、あっ、いえ……、じゃあやってみてください」
眼鏡をかけ直した鈴木さんに声をかけられハッと我に返る。
危ない危ない、ぼんやり見とれてしまっていた。
だって仕方ないじゃないか。大袈裟ではなく、眼鏡を外しただけで目の前の人がいきなり別人みたいになってしまったのだから。
視力の弱い鈴木さんじゃなかったら、
慌てて誤魔化しながらホースを手渡すと、
「よーし、とぉーっ!」
水やりにまるで相応しくないかけ声とともにホースの口を絞って水を撒き始める。
きらきらと朝日を浴びて輝く水の勢いは、やっぱりいまいちホースの口の絞り方が甘かった。けれど、快活な笑顔を浮かべて軽やかにくるくると回るその姿は、踊っているみたいな楽しさがこっちにまで伝わってくるみたいだった。
【ふぅ、ちょうどいい水加減よ】
【くぅ~、やっぱ朝日と水はやめらんねえなぁ~!】
【よーし嬢ちゃん、そろそろ頃合いだぞー?】
再びうっかり見とれてしまい花たちの声に我に返って急いでストップをかけ、なんとか問題なく水やりを終えた。
「いやー、鮫島くん本当に詳しいねー、助かっちゃったよ!」
ホースリールのハンドルを力任せにぐるぐる回してホースを巻き取りながら鈴木さんが笑顔を浮かべる。
途中、ホースがねじれて巻き取りにくくなっても力任せにハンドルを回そうとするので何度か手を差し伸べて引き攣りかけた笑顔を返す。
このわずかな時間の水やりだけでなんとなくわかってしまったことがある。
鈴木さんは、もしかしなくても無自覚な不器用で、そのうえけっこう大雑把だ。
完全に俺個人の勝手な見解なのだが、分厚い眼鏡の大人しそうな女子といえば几帳面で細かい作業とか得意としているイメージだったが、ものの見事に裏切られてしまった。
水やりに関してはひとまず如雨露を用意するか、ホースの口に散水ノズルを取り付けてもらえるように進言した方が良いだろう。
「進捗はどうだい? お二人さん!」
「あ、
用務員倉庫から戻ってきた白崎先輩に、両手を広げてしっとりと水滴を付けた花たちを鈴木さんが示す。
じゃーん、なんて声に出して言っちゃう人を初めて目の当たりにして驚きを隠せなかった。ちなみに、じゃーんの時に広げた腕が俺の胸にバシンと当たっているのだが鈴木さんは一向に気にしていない。
「うんうん、素晴らしいじゃないか! では、二人に見せたいものがあるから一緒に来てくれるかい?」
満足そうに頷きながら腰に手を当てて胸を反らせる白崎先輩がそう言って歩き始め、先導されるまま裏庭のさらに端へと連れて来られた。
そこには小ぶりなプレハブ小屋というのだろうか、わりと年期を感じさせる物置小屋がひっそりと建っていた。
「これは用務員倉庫だよ。用務員といっても専用というわけではなくて、私たちガーデニング部が扱う農耕具の数々が収められているのさ」
ガチャガチャと南京錠を開けて扉を開け放つと、鍬だけでも平鍬、三本鍬、デルタホーと各種一通り揃っていた。鎌に移植ごて、一般的な器具はほぼ全て揃っているようだった。
「デカ乳の園芸部と共用なのが癪に障るが、基本的には自由に使ってもらって構わないよ」
「すごい! 鮫島くん見て、鍬だよ! 本物だよ!」
鈴木さんが興奮気味に三本鍬を持ち上げようとして、整然と並べられていた鍬をガチャンと端から倒してしまう。
たかが鍬でここまでテンション上げてしまう女子もすごいが、この不器用さと大雑把さもかなりのものだ。あと本物って、偽物の鍬なんてあるのだろうか?
「おっと彩子くん、怪我だけはしないように気を付けてくれたまえよ?」
「はいっ、気を付けます!」
言いながら鈴木さんは倒れた鍬たちをまとめて持ち上げて壁に立て掛ける。
うん、やはり間違いなく大雑把な性格だ。
「そして二人に見せたいものはじつはこっちなんだ」
てっきり用務員倉庫を見せるつもりだったのだろうと思っていたら、白崎先輩はひょこひょこスキップするみたいに倉庫の裏手に回り込み、
「ほーら、見たまえ!」
「わああぁぁ~! ネモフィラ!」
【あら、おはよう。可愛いお嬢さん。萌えっ】
鈴木さんが両手を合わせて歓声をあげた先に、黒っぽい紫色に白のふちどりが入った小さな花を付けているネモフィラが育苗ポットに入っていた。
わりと珍しい黒っぽい花を咲かせるペニーブラックという品種のネモフィラだ。
【おはよう! いい朝ね!】【萌えっ!】【はあ、狭いわここ。早く出して!】
「……えっと、白崎先輩、これは?」
「ふっふっふ、部長である私から新入部員歓迎の意味を込めたプレゼントだよ。三人で仲良く植えようではないか!」
【萌えっ】【萌え~!】【……萌えー】【萌え萌えーっ】【萌えー!】【萌~え~っ】
「いえ……、そうではなくてですね……」
指差したネモフィラを歓迎のプレゼントと言ってくれた白崎先輩には申し訳ないのだが、俺が聞きたいのはそっちの説明ではなく、
「この量は……?」
用務員倉庫の裏に育苗ポットのトレーが3つ並べられていた。その育苗ポットトレーは20ポット入るので全部で60ポットのネモフィラが鎮座しているのだ。
【萌えー!】【萌えっ!】【萌えー萌えー】【狭い狭いっ、萌えっ】【萌ぉえぇ~】【萌えー】
先ほどから萌え萌えやかましくて仕方ない。
「……まあ、アレだよ、聞いてくれたまえ。私が言うのもなんだが昨日は残念な花壇しか見せられなかっただろう? せっかく入部してくれた新入部員に、まずはガーデニング部として一番の醍醐味である花の植え付けをやらせたかったのだよ。そこで、私が懇意にしている花苗生産直売店にスマホを使ってちょいちょいっと発注したのさ。そうしたらどうだい――」
「発注単位が『トレー』だったんですね?」
「見たまえ! この可愛らしく生き生きと咲き誇ったネモフィラたちを!」
「確認しなかったんですね?」
「やっぱりこの私が懇意にしている直売店だけあるね! 花たちの元気さが違うだろう!」
「こっち見て言ってください?」
ダメだ、白崎先輩は人の話をまるで聞かないタイプだ。
発注単位の確認ミスなんてベタ過ぎるにも程がある。
「まあ、ここだけの話、本当に発注したかったのはアマリリスだったのだよ。だけどね、ネット注文の画面がいまいちわかりにくくてね。あっちこっち触ってるうちに……、こうなっちゃった!」
白崎先輩がぺろっと舌を出しウインクしながらコツンと頭を小突いてみせる。
そんな動作、平成に置き忘れてきたと思っていた。まあ、小柄な先輩にはとても似合っている辺りが地味に腹立たしい。
「……どんな操作をしてたらぜんぜん違う花を数まで間違えて購入できるんですか?」
「鮫島くん。これだけは言っておきたいのだが、世のJKみんながすべからくスマホを器用に使いこなせると思ったら大間違いだぞ?」
「どうして自慢げに言うんですか……」
そういえば昨日の晩に白崎先輩から届いたラインの文章が、暗号めいた平仮名ばかりで小文字変換さえ出来ていなかったことを思い出した。なんてことだ、これまたベタな機械音痴の伏線だったのか。
そして俺たちに水やりを任せた先輩がスキップみたいな足取りで倉庫に向かったのは、朝一番で納品に来た業者から荷受けするためだったのか。
しかし発注ミスとはいえ花苗生産直売店から直接購入しただけあって、全てのネモフィラたちがちょうど花を咲かせ始めた一番良い状態で萌え萌え連発しまくるのも納得だ。
「でも、たくさんお花植えられるんですよね? わたし今からすっごく楽しみですよっ!」
「そうだろう
機械音痴なのに勢い任せで無駄に行動力のある白崎先輩と、不器用なうえに大雑把な鈴木さんがお互いに手を取り合って喜びを噛み締めている。
しかし、わかっているのだろうか。
この数のネモフィラたちを植え込むために、早急に花壇の土起こしをしなければならないことを……。
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