第1話 いつものスタート
高校の入学式を終え、担任から翌日以降の説明を受けあっさり初日は終了となった。無事に帰宅してから体調の悪さを自覚し、柄にもなく緊張していたのだろうか、熱が出た。
翌朝になっても熱が引かず、入学早々から風邪で休んでしまうという失態をやらかしてしまった。
今日は確か、クラスの委員会を決めたり校内設備の案内をされたりする予定だった。とろとろとしたまどろみの中で昨日担任が説明していたことを思い出していた。
そして翌日、一日ゆっくり休んだおかげですっかり熱も下がり復調した。
元々、身体が弱いわけではなくずいぶん久しぶりの発熱に自分で驚いてしまったほどだ。まさしく鬼の霍乱というべき事態だった。
【入学翌日からソッコー風邪で休むとかチョーウケるんですけど~!】
【遅くまでそのスマホとやらを弄り回していたからだろう。まったく嘆かわしい……】
【ほ~ら、ちゃんと鏡見て? ネクタイ曲がってるわよ?】
姿見の前で慌ただしく身支度を調え、何度やってもコツが掴めないネクタイを今度こそはと結び直してみるため解く。
しかし鏡越しに仰ぎ見た時計の針がそれを許してくれそうにない。そろそろ出掛けないと遅刻してしまう。
入学翌日に欠席し、やって来たかと思えば遅刻してくるなんて、完璧に悪い方向で目を付けられてしまう。それだけは絶対に阻止しなければならない。
いったん緩めかけたネクタイを締め直し、鞄を担いで部屋を出る。
【はいは~い、いってら~】
【ああん、もうっ、ネクタイ曲がったままだわ……】
悪目立ちだけは避けなければならないのだから仕方ない。
鏡の前でさえうまく結べないのだから、いまさら弄ったところで直るはずもない。むずむず気になって仕方なく、ちょいちょい襟元を触れながらスニーカーに足をねじ込む。
さあ、一日出遅れてしまったが、高校からは平穏無事な学校生活を送ってみせるぞと心に固く誓って玄関を飛び出した。
――環境委員の人は、裏庭花壇前に集まってください。繰り返します。環境――……
出遅れた高校生活のスタートは概ね何事もなく過ぎ去った。初日から欠席するようなやつに声をかけてくるクラスメイトなんて存在しなかったからだ。まあ、原因は別にあるのだが。
HRの終わりと放課後を告げるチャイムに次いで、間延びしたような呼び出し音が響き校内放送で委員会の呼び出しが流れる。
昨日は各クラスの委員会を決めると言っていたが、休んでしまったせいで誰がどの委員になったかさっぱりわからない。
帰宅するために鞄に荷物を詰めていたのだが、どうしたものかと思案していると、
「……さ、鮫島くん、ちょっと、いいかな?」
「え? ああ、はい」
一人の女子生徒がおずおずと俺の名を呼んで話しかけてきた。
血の気の失せた表情を強張らせて、残像が残りそうなくらい膝を小刻みに震わせているのが見て取れる。これはもう完全に怯えきっている。
「あ、あのね……、昨日、みんなで委員会を決めたんだけどね、そこで私、クラス委員になったの……」
「はい」
「ほ、他の委員も決めていったんだけど、誰もやりたがらない委員のところはくじ引きで決めることになったの……」
「はい」
「それで……、鮫島くん休んでたから、私が代わりにくじを引くことになっちゃって……、そ、それでね、鮫島くん、環境委員になっちゃって……、ほ、本当にごめんなさいっ!!」
要領を得ない切れ切れの説明を終えるなり背中が見えそうなほど身体をくの字に折って謝罪してきた。恐怖に震える肩と背中が痛々しいほどだ。
まあ、ありがちな話だ。
地味できつそうな委員会なんて、自ら進んでなりたがる人なんてごくごく稀だ。
立候補を待っていては決めるべき案件がちっとも進まないのだから、くじ引きを行って一律公平に決めてしまうのは当然の流れだろう。
当たり前だがくじ引きである以上それはただの時の運だ。つまり、いま俺の目の前で恐怖と戦いながら前屈みたいに深々と謝罪をしているこの女子が悪いなんてことはまったくない。むしろ欠席していた俺の方に非があるくらいなのだ。
「いや、謝らなくていいですから」
「ご、ごめっ、ごめんなさい!」
「あの本当にそんな謝らなくて大丈夫ですから……」
「………………ほ、ほんとに? お、おお、怒って、ない……?」
「はい。えっと……、藤井さん」
「――――え、私の名前……」
「ああ、覚えました」
「ひぃっ!!」
半泣きで顔を上げたクラス委員の藤井さんが、短い悲鳴と共に恐れ戦きながらジリジリと後退っていく。
ひゅうっ、ひゅうっと苦しそうに浅い呼吸で息を吐き出しながら、気丈に意識は失うまいと震える脚で距離を取っていく。
「真奈ちゃん、大丈夫だったっ!?」
「脅されたりしなかった!?」
「海に沈めるとか言われたりしてない!?」
教室の端で一連のやり取りを見守っていた三人の女子たちと合流するなり、藤井さんを心配して抱きすくめ順繰りに声をかけている。潜めているつもりなのだろうが残念ながらはっきり丸聞こえだ。そしてわかってはいたが酷い言われようだ。
「ひっく……、ひっく……、名前、覚えたぞって……」
藤井さんが涙を拭いながらしな垂れかかり声を震わせて絶望に顔を歪める。
「ええっ、や、やばいよっ! 先生に、ううん、警察に相談しようよっ!」
「そんなことしたら余計に怒りを買うんじゃないっ!?」
「えっ、それって私たちまで巻き添えにならない!? 大丈夫なのっ!?」
チラチラと俺の方に不安げな視線を投げて寄越す女子たち。
これは幸先悪い事態となってしまった。
こうなったら仕方ない、敵意などないことを示すため、自宅の鏡で繰り返し練習してきた渾身の笑顔を向けることにする。
可能な限り眉尻を下げ、目を細めて目尻もしっかり垂れさせ、口角をぐいっと持ち上げしっかり歯を見せる。
ニチャア……
「――み、見てっ、獲物を追い詰めた殺し屋みたいな目で睨んでるっ!!」
「だ、ダメよっ! 目を合わせちゃダメッ!! 殺られるからっ!!」
いやいや、睨んでなんていない。これは友好の印のスマイルだ。
なんでだ? もっと口角を持ち上げないと伝わらないのか? ほら、こうやって……、
ニッチャアァァァ……
「「「――――――ッ!!」」」
完璧に相好を崩してみせたはずなのに、女子たちはヒュッと息を飲んで声になりきらない悲鳴を上げ、のたうち回るようにして我先にと教室から飛び出し走り去ってしまった。
なんてことだ。入学式の日にクラス全員の名前と席を覚えておいただけなのに、藤井さんの名前を知っていたことが完全に裏目に出てしまった。
ちなみに、三人いた女子たちの名前もクラスメイトなのでもちろん知っている。濱田さん、樋川さん、福田さんだ。出席番号順で並んでいる四人なので仲良しなのだろう。
しかし藤井さんもクラス委員になった時には、翌日にこんな大仕事が待っているだなんて思いもしなかっただろう。かわいそうに。
それはそうとクラス委員だったらおそらく男子も一人なっているはずだが、あんなに怯えきった女子に仕事を押し付けて何をやっているのだろう。
きょろきょろと見回してみるが、それらしい人物は見当たらない。それどころか、教室内にわずかに残っていたクラスメイトも脱兎のごとく教室から出て行ってしまう。たった今の出来事を目の当たりにしてなのだろう、俺とは一切視線を合わせず一目散に逃げてしまった。
顔を見たところで誰が何の委員なのかなんてわかるはずがないのだから無駄な行動だった。
人っ子ひとりいなくなった教室に取り残され窓際に目をやると、教壇の端に置かれた予備の教卓に鉢植えのベゴニアが置かれていた。
入学式の日には気が付かなかったので昨日から置かれたのだろうか。薄い赤色の花をまばらに咲かせている。
【あの子かわいそうに、あなた笑顔が凶悪なのよ。追い詰めた獲物にとどめを刺す薄ら笑いにしか見えなかったわよ?】
「………………わかってるよそんなこと」
ついさっき藤井さんの友達にも同じことを言われたのだ、つまり共通認識ということか。けれどスマイルの練習を続けてこれでもずいぶんマシになったのだ。
……マシになったつもりなのだ。
そもそもの素材に問題があるのだからこれ以上どうしろというのだ。
【そんなことより、ちょっとこれ見てよ?】
ベゴニアに近付いて気が付いたのだが、鉢受け皿の中に溢れんばかりの水がひたひたになっていた。
「……これはまたずいぶんと盛大に水をやったヤツがいるみたいだな」
【そうなのよ。これでもかってくらいじゃぶじゃぶ水を注いでくれる子がいて溺れてしまいそうだわ】
水を与えられすぎて少し弱り気味になっているようだった。
窓を開け放ち鉢受け皿の水を捨てる。こんなことをしている姿を誰かに見られなくて良かった。図らずもクラスメイト全員が逃げ出していて助かった。
――それにしてもくじ引きで偶然とはいえ環境委員になってしまったのか。
正直、環境委員という仕事にあまり良い思い出はない。
だからといって、ここでゴネてしまっては余計な問題を生み出しかねない。全ては昨日、熱を出して学校を休んでしまった自分のせいなのだから。
それはそうと、環境委員になったということは、ついさっき裏庭花壇前に集まるよう校内放送で呼び出しされていたじゃないか。
誰もいなくなった放課後の教室で、格好付けて物思いに耽りながら窓の外を眺めている場合じゃない。そもそもそんな似合いもしないことをしていたわけではないが、とにかく早く集合場所に向かわなければ。
【ねえ、明日はお水はいらないって伝えておいて頂戴ね?】
取るものも取り敢えず俺は急いで教室を後にした。
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