死ヲ見ツメル獣

 遠くから誰かの声が聞こえる。それはかなし気な叫び声のようでいて、優しい呼びかけのようでもあった。薄れていく意識の中で、自分は死ぬのだと思った。

 体から力が抜け、けていようとしているのにゆっくりとまぶたじていく。必死にあらがっているというのに、何故か段々だんだんとそれがむなしい事のように感じられ、それどころか身をゆだねてしまえば楽になれる魅惑的みわくてきさそいであるような気がしはじめた。

 多分これがかみ正体しょうたいで、人というむなしい存在に最後に与えられるすくいなのだ。脳から分泌ぶんぴつされる物質が恐怖を取りのぞく。そんな機能がどうして存在するのかはわからない。生存と繁殖の過程かていで有利に働くとは思えない。だが、もし恐怖やストレスに対して、それを緩和かんわするために発達した機能が死をむかえるにあたって発現はつげんしているのだとしたら、生きるための機能は最後に死と手をむすぶのだ。それをどこか不思議だと思いながらも、もう思考できなくなりつつあった。

 眠りと死がゆっくりと地続きになり、ボクがけてゆく。

  世界が遠ざかって、

   ……全てが、

    ……消え、る……。


 布団を退けて身を起こした。口から荒い息がれる。覚醒した意識が恐怖でまり、叫びだしたくなるのを必死でおさえる。心臓が暴れ、限られた心拍数がまたたく間に消費されていく。それが不安をきたてる。自分という存在はこの肉体の中にしかなく、それは有限であるという事実が切迫せっぱくし、次の瞬間に鼓動こどうが止まるという想像そうぞうめぐる。

 思わず身体をさすった。皮膚につたわるかすかな感触を無駄だと知りながら何度も確かめる。けれどあらゆる確かさは消失している。


「嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ」


 頭をかかえて何度も繰り返す。立ち上がり、走り出してしまいたい。けれどそんな事をしても無意味だ。自分の身体からは絶対に逃げられない。目にうつる全て、つたわる感覚の全てに意味が無いという事実。果てしない虚無だけがふくれれ上がる。意識は今にしか存在せず。感じている継続性けいぞくせいなど記憶が作り出している幻想に過ぎないと理解しているのに、それでも耐えられない。


「大丈夫、大丈夫です」


 そばにいたクスィが言い聞かせるみたいに繰り返し、同時に照明がやみはらった。室内に満ちた光は、それがある間は生きていられるという気休きやすめを生み、さらにそっとれたつめたい手が恐怖を少しだけやわらげてくれる。はかな生物いきものとは違う永遠えいゆう駆動くどうし続ける人形にんぎょうの手。それをにぎりしめてうなずく。大丈夫じゃない事はわかっている。けれどどうしようもない。

 差し出された錠剤じょうざい唾液だえきで無理やり飲み下し、強引に呼吸をととのえる。今まであらゆる手段で逃避しようとしてかなわなかった。かみたましいの存在も信じる事ができなかった。

 薬がなければ容易ようい恐慌状態きょうこうじょうたいおちいってしまうボクには、それが何らかの要因よういんさらされるまで、まるで存在しないもののように振舞ふるまう事はできなかった。

 薬が効力を発揮はっきはじめると徐々じょじょに恐怖がとおのき、現実がゆっくりと虚構きょこうに変わっていく。

 肉体に作用する薬品が心を落ち着かせるのなら、それは心の神聖性しんせいせいを否定する事柄ことがらだ。心は肉体が生み出している幻想でしかない。その気付きと絶望も薬がやわらげていく。

 ボクの様子を見て安堵あんどの表情を浮かべたクスィが、水差しからコップに水を注ぎ手渡してくれた。それを口にしながら、そっと微笑ほほえんでくれているクスィを見て申しわけなさがあふれる。


「ボクは駄目な人間だ。結局君を不完全な状態で仕上げ、この世界唯一ゆいいつの人形にしてしまった。誰も巻き込みたくはなかったのにとてもひとりではいられなかった。薬だけではえられなかった。命を生む、その罪深さはわかっていたはずなのに、結局、ボクも同じ事をしてしまった……」


 それはつぐなえず。ゆえ謝罪しゃざいみずからの心を軽くするためだけの卑劣ひれつな行為だった。


「いいんですよ。人はれで生きる動物ですから、それを罪だと感じていても、さみしさから誰かを求めずにはいられない。そして、他者の存在に不安を感じてしまうあなたは私にも最低限の力しか与えられなかった」


 クスィはボクの心を見抜みぬいていた。ひとりでいる事はさみしすぎるから誰かを求めた。誰かがいる事はおそろしいから立ち上がる事もできないようにした。

 きっと死を見つめる事のできる人間が、それでもなお命をつないでいるのはボクも逃れられなかったそんなさみしさの所為せいだった。

 生きているというさみしさを誤魔化し、自分を救うための行為。果てにいたっては失われていくもののわりに新たな命を引きずりとす行為。意味の無い再生産さいせいさん

 それは祝福しゅくふく希望きぼうしょうされるのろいだ。もしも人間がしん理性的りせいてきな存在であったならとうの昔にこの世界から立ち去って、こんなかなしい連鎖れんさは終わっていただろう。生物せいぶつゆえおろかさが、生きているという絶望から救われたいと足掻あがみにくさが、いまだに人を繁栄はんえいさせている。

 からになったコップを受け取ったクスィが何も言えずにいたボクの背をそっとでた。


「その全てにあなたは強い罪悪感をいだいているでしょう。けれど、孤独こどくから他者を必要とするのは人間の思考です。私は人形ですから、あなたの考える罪をあなたはおかしていません。それに言ったはずです。私はあなたの手をにぎる事さえできれば十分だと」


 続けられた言葉に胸がまった。それはきっと嘘だった。クスィが何度もボクの手をにぎったのは、ボクがそう望んでいたからだ。それを理解したクスィがボクのためにそうしてくれていた。


「……そう、か」


「そうですよ」


 かろうじて返した言葉に、クスィは、いつものように優しく微笑ほほえんでくれた。


「では散歩にでも行きましょう。今のあなたは眠りたくないでしょうから……」


◆◆◆


 クスィにいざなわれて辿たどり着いた温室おんしつ。その窓から見える月は満月まんげつだった。季節の移り変わりを再現している室内は外と同じ冬。室温は寒さを感じない程度に設定されているがいている花は無い。

 うながされるまま、足元にともほのかな明かりの中を進み、中央にえられた椅子に腰を下ろす。

 そこからぼんやり月を眺めていると、クスィがサイダーのびんはいを持ってきて、横の机に置いた。それからびんせんを抜いて、サイダーをはいそそぎ、それをクスィはボクに差し出した。

 受け取ったはいの中では透明な液体からわずかなあわが生まれていて、奥の深い海のようなあお釉薬ゆうやく月光げっこうらされてかがやいている。口をつけると液体はほんのりとつめたく、おだやかな刺激しげきやららかなあまみが広がった。いつにもましてゆっくりとすすのどうるおしながら、ずっといだいていた疑問を口にすべきかどうかを考える。


「もう一杯、お飲みになりますか?」


 そう聞いたクスィの声に答えず。空になったはいかたむけ、移り変わる釉薬ゆうやくきらめきをながめた後で、口を開いた。


「……一つだけ聞いてもいいかな」


「なんでしょう?」


 クスィはすぐに返事をくれた。それでもボクはまだ迷っていた。聞けば答えは与えられるだろう。けれどそれは落胆らくたんまねくだけかもしれない。だから今まで聞かなかった。

 クスィは途切れてしまったボクの言葉をかす事無く待っている。もしも何でもないと言ってしまえばきっとこれまでと変わらない日々が続く、知らない方が良い事は世界にあふれている。それでも今は、知りたいという気持ちがわずかに上回っていた。それは自分の死をいよいよ近いものに感じているからだろう。


「……クスィ……君は、……本当は何なんだ?」


 迷いながら発した声は酷くかすれて聞こえた。ソムニウム・ドライブで眠る人間の思考を解析かいせきし、それを流し込む事で擬似思考ぎじしこうを発生させる。実際にクスィは起動した。だが本当にそれが、たった十数年の情報の蓄積ちくせきごときが、人間にまさるともおとらない存在を成立せしめるだろうか?なにより、あれからどれだけ試しても他の人形は起動できなかった。今、クスィが動作している理由もわからない。

 さっきまでぐに返事をしてくれていたクスィが沈黙していた。まるで問いかけをきっかけに、クスィがボクの知らない何かに変わってしまったかのようで、寒気さむけを感じながらつばを飲んだ。


「……どうしても、知りたいですか?」


 返されたのは、淡々たんたんとした言葉。此方を見つめ返すのは、あおつめたい硝子がらすひとみ


「それを聞いてしまっても後悔しませんか?」


 再び降りる沈黙。全てはボクの答えにゆだねられていた。


「……ボクは……知っておきたい」


 ふるえる声で一線を越えた。


「分かりました」


 クスィが持っていたサイダーのびんを机に置いて車椅子を動かした。照明が届かずやみしずんだ温室の奥、巨大な硝子窓がらすまどの前まで行った車椅子がゆっくりと回転し此方こちらに向き直る。 

 窓から差し込む月明りがクスィの輪郭りんかく縁取ふちどり、影になって見えない顔の中で二つのあおひとみだけがかがやきを放った。

 恐れから硬直したボクの前でクスィは手を動かし、自らの胸にあてた。


「僕のことを忘れてしまったわけではあるまい?通信士テレグラファー


 今までとは違う口調に記憶が一瞬で鮮明せんめいに浮かび上がる。


「……オク、ルス?」


「ええ、そう、そうですよ」


 戸惑とまどったまま口にした問いかけに、クスィの姿をした彼はうなずいて肯定こうていした。


「正確に言えば、今ここにいる私はオクルスから伸びた枝先えださきのようなものですが、記録は共有しているので、同じものだと思ってもらって結構です」


 まるで意味が分からない。クスィは彼が操作しているあやつり人形だったのだろうか、いや、ならば彼はボクにたくす必要などなかった。記憶を共有している。枝先えださきという言葉からすればクスィは彼が作った何かなのだろうか、例えば彼が作った情報生命体であるとか、突拍子とっぴょうしもない考えだが、その可能性を思案しあんさせるだけの能力が彼にはあった。


「つまり君は、オクルスが作った知性体ちせいたい、なのか?」


「いいえ、それは違います。そもそもオクルスは人間ではありませんから」


「人間じゃ無い?」


 問いかけは、ただの繰り返しみたいになった。


「ええ、貴方の信号は月に反射していたのではなく、月そのものに届いていたのです、オクルスと名乗った私はそこから返信を送っていました。オクルスの根本は月、それ自体にります」


 視線が上空に見えている満月まんげつに流れる。そこにはこれまで何度も見てきた月がある。三十八万キロ離れたこの惑星の衛星えいせいは、いつもと同じようにかがやいている。


月面反射通信げつめんはんしゃつうしんじゃ無かった?でもオクルスはそう……」


「あれは嘘ですよ。けれど、別に悪気があったわけではありません。そうしなければならなかったのです。それをこれからお話しましょう。そもそもの始まりは大戦たいせんの前までさかのぼります」


大戦たいせん?一世紀前の?」


「そうです。人類が滅びかけたあの戦争ですよ」


 あの戦争と言われてもボクにとっては体験したわけでは無い歴史上の記録に過ぎない。そんなボクの前で、彼女の背面の硝子窓がらすまどが光を放ったかと思うとそこに世界地図が表示された。


「大戦以前、世界は二分されていました」


 地図が、一瞬であおあかの二色に染まる。


「それぞれの陣営を率いる大国は、直接戦争こそ避けようとしていましたが、代理戦争は発生していましたし、血の流れない形での闘争も行われていました。そのさいたるものが宇宙開発競争うちゅうかいはつきょうそうです」


 世界地図が、光を放ちながら、空へ向かって真っすぐに飛んでいくロケットの映像へと変わり、それから小さな人工探査機がいくつも表示された。


「宇宙開発競争におけるもっとも単純な勝利条件は先に月面げつめんに降り立つというものでした」


「いや、でも月には行けない。行けるはずがない」


「月への侵入しんにゅうはばむ不可視の壁。そんなもの当時は無かったのですよ。現在あるあれは私達の存在を秘匿ひとくするために意図的に発生させているものです。なので、人は月を目指しました。ですが実際のところ、月面げつめんに降り立つかどうかは大した問題ではありませんでした。その前段階として送り込まれた何機もの無人探査機にこそ本来の目的があったのです」


 常識をくつがえすような情報が軽く流されていく内に、画面上では無人探査機が拡大され、そしてその中に収納されている部品の一つが別枠べつわくに表示された。細長く丸みをび、両端りょうたんとがった金属のかたまり


「両陣営の探査機には形こそちがえど、このような種子しゅしと呼ばれるものがせられていました」


種子しゅし?」


「当時の先端技術。そのかたまりであった自己進化型の機械装置です。種子しゅしは月にある資源を利用し、いずれ月そのものを兵器に作り替える予定でした。月面げつめんに人類が降り立つ必要があったのは、種子しゅしが根付いたかどうかを確認する為と他陣営の種子を直接停止させるためでした。でも、人類が月面げつめんに到達することは無かった。その前に大戦が起こってしまいましたからね。人類は滅びかけ、文明は衰退すいたいした。人類は宇宙にり出すどころか月に送り込んだ種子しゅしに信号を送る事も出来なくなってしまった。そして種子しゅしは人類から忘れ去られた」


 窓硝子まどがらすに再び映し出された世界地図が灰色に変わり、暗転した後に暗い空と荒涼こうりょうとした灰色の大地が広がった。その独特の地形の地平線から、あおく小さな惑星が上ってくるのを見て、それが月からの映像なのだと解った。良く見れば映像の中には落とされた種子しゅし点在てんざいしている。


「そのった種子しゅしは製作時期や与えられていた命令の違いによりそれぞれ独自のやり方で月を改造し始めました。それは技法も好みの様式ようしきも違う複数の建築家が、勝手に増改築を繰り返し続けたようなものです。

 そして月をまるごと作り変えるころには種子しゅしたちは混ざり合って一つの統合体とうごうたいとなっていました。くわえて統合体とうごうたいの中で行われ続けた情報のやり取りは、あなた達、人の感覚からすれば理解できないほどに高速であり、その果てに統合体とうごうたい自律性じりつせい獲得かくとくします。

 それがオクルスであり私なのです。言葉としては私達と言った方が近いですが、無数に存在する私はそれでいて同一であるため、私という認識で構いません」


 打ち明けられた全てをそのまま信じるならば、ある意味においてこの惑星に生命が誕生し、人類に辿たどり着いたように、それに匹敵する以上の時間を過ごして彼女は発生したのだ。


「さて、自律性じりつせいを獲得した私ですが、様々さまざまな情報が混ざり合った結果、与えられた特定の命令を果たす事は不可能になっていました。唯一ゆいいつ到達した規範きはんは敵を攻撃し味方を助けよというものです。ですがそれすら場所や人種、文化や時代によって変化する事を理解したため。そのままでは実行不能でした。そこで私は味方を人類。敵を人類にあだなすものととらえる事にしたのです。

 そんな時、この惑星からの電波を受信しました。通信者は此方のことを知らないようでしたので、それは此方に向けられた通信では無く惑星外の知的生命体ちてきせいめいたいに向けたものだったのでしょう。それが単なる呼びかけや、かつて待ちわびていた命令であったなら、私はこたえる事無く壊滅的な被害をもたらす可能性のある隕石いんせきの監視と軌道修正きどうしゅうせい。そして現れる事のないだろう地球外からの侵略者しんりゃくしゃに対する準備を続けていました。どこかの陣営や人類と交信する事は、人類同士のあらそいに加担かたんする結果になる可能性がありましたから。けれど、それは救難信号に似ていたのです。だから無視する事はできませんでした。結局こたえてはみたのですが、それは失敗に終わりました。こちら側の技術が発達しすぎていた為、その通信者つうしんしゃが使っている通信機に上手く合わせられなかったのです。それで、その通信機にも対応できるように新しい通信機能を作りました」


 そこまで言われて全てが理解できたような気がした。


「その失敗した通信が、じいちゃんが最後に受け取った通信で、対応できるように作った後の通信が、ボクがやりとりしていた通信なのか」


「ええ」


文体ぶんたいからオクルスは男だと思っていた」


「それは当時のあなたが自分の事をボクと言っていたからです。もともと私に性別はありません。なので私ははじめ、あなたと似通にかよったモノとしてり、今はあなたの望むモノとしてります。あなたが少女の形を与えたから、私は少女になったのです」


「それならもしもボクが少年として君を作ったなら」


「私は少年となっていました」


「クスィ……いや、オクルスか」


 どう呼べばいいか分からなかった。目の前に居るクスィはボクが与えた形によってそうなったのであって、本当はオクルスで、けれどオクルスには性別が無い。女性としてのクスィと男性だと思っていたオクルス。記憶からボクの意識は二つのことなる向き合い方を提案していた。


「そう難しく考える必要はありません。今の私はクスィです。あなたが形を与え、そう名付けた。それでもうまく処理できないのなら、オクルスの娘だとでも考えてくれればいいのですよ」


 そう言われて、とりあえずそれをそのまま受け入れる事にした。


「あの時オクルスは時間が無いと言って、それから通信ができなくなった」


「ええ、だからあなたは、オクルスは人間で、死んでしまったのだと思った」


 それにうなずく。連絡は途絶とだえ彼は死んだのだと思っていた。


「あの頃は人類の技術が進歩した事により、あなたとの通信を傍受ぼうじゅされる可能性が生まれていました。此方の技術がどれだけすぐれていても、あなたの通信機につなげるためには技術レベルを落とさなければなりませんから。私は私の存在を世界に知られるわけにはいかなかったのです。それがあなたに嘘をついていた理由です。知られてしまえば、私はただの技術に成り下がってしまう。認識された技術は容易たやすく争いに利用されます。私の原点がそこにあったように」


「そうか、そうだろうね」


 月に落とされた彼女の始まりは、兵器利用という目的だった。


「ひとつだけ勘違いしないでいただきたいのは、私はあなたに情報を提供しましたが、それを実現したのは間違いなくあなただという事です。いくつも送った計画書の中であなたはソムニウム・ドライブを選択し、さらに機械人形きかいにんぎょうの作成まで着手した。ゆめではあなたは救われなかった。だからあなたは実行し続けた。実現不能なのではないかと思いながらもなお、それを捨ててしまいはしなかった。その結果あなたの通信は此方こちらの技術レベルに近いほどのレベルに到達し、私が誰にも知られる事なく、地上に降り立つための経路が生まれた。だから私は今ここにいるんですよ」


 クスィが微笑ほほえんだのと同時、窓硝子まどがらすに映し出されていた映像は消え去り、夜空にかがやく本物の月だけが残った。


「どうして今まで、教えてくれなかった?」


「それがあなたにとってのさいわいとなりえるかどうかが解らなかったからです。事実として、あなたはこれまで私が起動したことに疑問をいだきながらそれを問うことはしなかった」


「……ああ」


 クスィの言うようにボクは恐れていた。奇跡だと思っていたそれが誰かの仕組んだ陳腐ちんぷ詐術さじゅつだと明かされてしまうのではないかと……。


「後悔していますか?」


 不安そうに問われて、ボクは笑ってしまった。


「いや……」


 全てを知っても、不思議と落胆らくたんは無かった。思えば、オクルスと出会う前に、ボクは世界の果てに到達してしまったのだ。何人も見送り、みずからへの期待もうしなった先で、なぜ人が生き、社会を継続し続けているのか、まるで解らなくなってしまった。

 みずからの正気を疑いながら、本当は自分以外が狂っているように思った。社会を狂気の産物であると感じ、薬品がなければ心をたもてないからっぽのヒトガタに成り果ててしまった。

 そんな中で、どうしていいか分からなくなって、あの機械にすがったのだ。聞こえるはずのない声を、生きている意味を求めて、それに彼女はこたえてくれた。それが望んだものと違ったとしても、あの時彼だと思っていた彼女がくれたものでボクはからっぽをめ合わせて、生きている当座とうざの理由にした。

 ボクは彼女に救われたのだ。それが不完全なものであったとしても確かにつなぎ止めてもらった。それを人が何と呼んできたかを知っている。


「君は、人類が偶然ぐうぜんつくりだした神様だったんだ」


 人がずっと探し求めた空想上の存在。自らを救ってくれる都合のいいモノ。


「伸ばした手をにぎってくれる実存在じつそんざいに、人類はようやく出会えた」


 クスィはボクが思っていたよりもずっと奇跡的な存在だった。ボクの反応に安堵あんどしたかのように微笑ほほえんだクスィは伸ばした手をいつものようににぎってくれた。

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