第35話 人殺し②

 車の中はあたたかかった。でも、いつもはひびいているテンポのいい音楽もラジオも今日は流されていない。居心地の悪いしずけさ。


「どう言えばいいのか良くわからない」


 唐突とうとつひびいた声に身体が強張こわばる。


「……きっと怒らないといけないんだけど。そうしようと思ってたんだけど。でも顔を見たらそんな気がなくなっちゃった。安心したっていうのもあるし、負い目を感じているって分かったから。千歳ちとせちゃんにもお願いされちゃったしね」


 みさきさんは冗談めかして付け加えた。それはいつも通りのみさきさんだった。


「聞いてはいけないと言われたから何があったのかは聞かない。でも私は佳都けいとが単純に悪い事をするとは思ってない。一緒に暮らし始めてからそんな事は一度もなかったし、同級生と喧嘩けんかした時だって何も言ってくれなかったけど、千歳ちとせちゃんが教えてくれたから、私のためにそうしてくれたんだって知ってる。まぁ、暴力はよくなかったけど……だから今回だってきっと佳都けいとなりに考えて、それで行動したんだと思ってる。結果として警察けいさつのお世話になったんだとしても、佳都けいとが正しい事をしようとしてそうなったなら、私はそれでいいんだ」


 胸がまって、涙があふれそうになった。もしも僕が、それにあたいする人間だったらありったけの感謝を口にしていただろう。


「……ごめんなさい」


「だから、謝らなくてもいいんだって」


 謝罪しゃざいの意味を誤解ごかいしたみさきさんは笑った。前方の赤信号に向かって減速げんそくする車の中で、もうどこにしまったのかさえ忘れてしまったプラスティックカードの事をおもった。ふさわしくないと思ったらと、そう言ってくれたみさきさんに僕こそがふさわしくなかった。


「……僕は人殺し、でした。……みさきさんに会う前に、父親ちちおやを殺していました」


 ずっとだましていたようなものだった。僕はみさきさんの世話になっていていいような人間じゃなかったし、千歳ちとせのそばに居ていい人間でも無かった。人を危険にさらしている事を知ってもクスィを壊せなかったし、助ける事もできなかった。沈黙ちんもくしたみさきさんにさらにつたえるべき言葉を探す。


「そうか……全部思い出しちゃったんだ……」


 返ってきたのが困惑こんわくではなかったから僕は思わず顔を上げた。みさきさんはただ前を向いていた。


「ごめんなさい。今まであなたに嘘をついてた。記憶を失っていることも、何があったのかも私は知ってた」


 僕の口はわずかに開いただけで何も言葉をつむげなかった。


「状況から考えて更生施設こうせいしせつに入れる事は適切てきせつとは考えられなかったし、一般的な保護施設ほごしせつで受け入れる事も最善さいぜんとは思われなかった。だから、あなたの保護者として私が選ばれた」


 自分の足元が崩壊していくような感覚。マフラーの温もりが、その匂いが、何か別のものに変わってしまった気がした。


「……仕事だったから?」


「それは違う」


 叫ぶように否定した岬さんの声。その顔がくるし気にゆがんだのを見て、口にしてしまった事を後悔こうかいした。


「……信じてもらえないかもしれないけれど。あなたと過ごした私は嘘じゃない。本当にあなたを大切に思っている」


 弱々よわよわしくひびいた言葉。だまされていたような感覚は確かにある。けれどそれでも停車中の車から飛び出してしまうほど、もう子供では無かった。

 それに何もかも無くなってしまったような気がしてもみさきさんがこれまでにくれたあたたかさが嘘じゃないなんて事は分かっている。どれだけ否定しようとしても、それを嘘だと言ってしまえないだけの思い出があふれてくるから。

 僕がクスィを助けようとしたのが最初は母さんの代わりだったからだとしても、途中からはそうじゃなくなっていたように、始まりがどうであったとしても、今、身体を包んでいるマフラーの温もりと匂いは、母さんと同じで、でもそうだからじゃない安心感を確かに僕に与えている。

 何も言えないでいる内に信号が変わって車はゆっくりと走り出し、みさきさんも口を開かなかったから車内はまたしずかになった。

 やがて見知った通りに出て、馴染なじぶかかどを曲がった時。見えてきたマンションの車寄くるまよせに千歳ちとせがいる事に気付いた。どんな顔をしたらいいかもわからない内に車はそこに着いてしまい。仕方なく降りると駆け寄ってきた千歳ちとせに抱きしめられた。わずかにねた髪がほおに当たる。


「良かった」


 耳元でひびいたその声を随分ずいぶん久しぶりに聞いた気がした。千歳ちとせの身体はあたたかかった。クスィとは違う、生き物のぬくもり。そのぬくもりが恐ろしくて、抱き返す事も、押しのける事もできずにただ立ち尽くした。

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