夢視ル為ノ器
「お待たせして申し訳ない」
声をかけると
「いえ」
そう言って立ち上がった夫人は、
進むごとにセキュリティーチェックが入る為、
夫人の視線が動き、そして
「どうかされましたか?」
自らの視線を恥じるように、夫人はこちらに視線を戻した。
「まさか、貴方が説明してくださるとは思いもしませんでしたので……」
「ここはいつでも人手不足ですから」
そう答えつつ、夫人の視線が動いていた先、押している車椅子に座るクスィについて紹介する。
「彼女はクスィ、私の助手
「初めましてクスィです」
クスィの自己紹介を受けた夫人は微笑んで見せたが、その表情にはまだ
「私は足が余り良くないので杖の代わりと言いますか、それに話し相手にも……立場上気兼ねなく話せる相手というのは限られてしまいますからね。ああ、彼女の事でしたら心配は無用ですよ。彼女はこの施設の何もかもを知っていますし、見聞きした事を
「私は年齢が足りないので、ここでお手伝いをしています。だから気にしないでください。
ボクの説明を
「それでは行きましょうか、準備が整うまでもうしばらくかかってしまいますので」
悲しげな顔をした夫人を
無機質な廊下に出てから口を開く。まずは既に知っているであろう基本から。
「ソムニウム・ドライブは内部で眠る人間に現実と区別がつかない
「
それはソムニウム・ドライブに批判的な人々が広めた呼び名だった。それを此処で口にしたと言う事は彼女の中に不安があるのかもしれない。ならば説明はより丁寧かつ
「まぁ、そのように呼ばれる方もいますね。けれど」
「分かっています。ソムニウム・ドライブはあの装置とは違い本当に夢を見せるだけのもの。そうなのでしょう?」
「ええ、その通りです」
夫人の言葉に少し
「ですが、その装置が私の望みを現実感のある夢として見せられるのだとしても、眠っているだけならば定期的に目覚める必要があるのでは?」
「確かにただ眠っているだけならばそうです。けれど、ソムニウム・ドライブにその必要はありません。クッションを形成している有機体が貴方の皮膚と同化し、生存に必要な物質の提供と不要な物の排出を行います。同時に肉体が
衣類は専用の物に着替える必要がありますが簡単なものです。体にケーブルを刺したり、液体に沈む必要はありません。また有機体とは容易に分離可能なので、望めば元の生活に戻る事も可能です」
「それなら夢が簡単に醒めてしまう事もあるのですか?」
「いいえ。本当の夢と違い夢だと気付いて覚めてしまうと言う事はありません。使用者の意志なしでそれが起きたとしたら、それは外部から装置を停止させた場合か、もしくは施設の異常を検知した装置が緊急停止した場合ですね」
「
「ええ、そのとおりです。方法さえ知っていれば簡単に目覚める事が出来ます。ソムニウム・ドライブが
「ゲート?」
「そうです。例えば、ある者のゲートは老いた姿が映る鏡だったそうです。他の鏡には例外なく若い自分が映るのにたった一つだけそうならないものがあった。ソムニウム・ドライブが
「そうやって今までに戻ってきた人も?」
「いますよ。その場合、費用の幾らかを
「どうして?」
「世界はあまりに
その返答に何処か納得したように目を
白い石をくりぬいたような島に向かう小舟。岸壁には無数の穴。島の中央には
「これは本物ですか?」
絵を
「どう思います?」
答える事は簡単だが、聞かれた時はいつもそう返す事にしている。それは重要な問いだからだ。
「……本物?」
夫人は此方の反応を
「どうしてそう?」
「
「そうですね。その着眼点は正しい。けれど残念ながら、この絵はよく出来た偽物ですよ。本物から
夫人はそれを聞くと同時に、絵から興味を失ったようだった。
「そう、まるで此処を表しているみたい。本物は何一つない……いえ、ごめんなさい」
夫人は
「構いません。おっしゃる通りですよ。ですが
現代において美術品の価値は、それ自体よりもむしろそれに
「貴方はこの絵に興味を持った。けれど私が偽物だと言った瞬間にそれは失われた。さて絵は変わっていません。変わったとすれば貴方の
夫人の視線がもう一度絵に
「この場所にある事で本物だと思えた絵は、貴方の言葉で偽物になった。そしてそれが嘘である可能性を告げられた事で、
夫人の答えに
「自信がおありなのですね?この絵画の
「その確認はご自身で、言葉は意味を成しません」
「そうですね。貴方がどれだけ丁寧に説明してくださっても、結局は分からないのでしょう。けれど、私は不安なのです」
「ええ、そうでしょう。でも今日はひとときの体験だけ、二時間もすれば貴女は自宅へ向かっていますよ。何も不安を覚える必要は無いのです」
「もう一つ聞きたいことが」
「何でしょう?」
「例えば、夫と一緒に入ることはできないのでしょうか?」
迷いながら口にしたその表情から、問いに対する答えを夫人はもう持っている気がした。だからそれは質問と言うよりも確認だった。
「残念ですが、ソムニウム・ドライブは一つの仮想空間に多数が接続するようなものでは無くあくまで夢を見せる装置にすぎません。それぞれの
「そう」
少し
「それでもあなたが望めばソムニウム・ドライブの中でも旦那さんに会うことはできますよ」
「でもそれは本物じゃない。私の想像の中の夫。そうでしょう?」
「ええ」
取り
「でも、そうね。おかしいわよね。私は、あの子にもう一度会えるのなら幻でもいいと思っているのに、一方で本物に
「いいえ、それが恐らく人間というものですよ」
夫人はおかしいと言ったが、それは此処に来る大半の人間が
準備が整った事を知らせに来たスタッフに夫人を任せ、クスィとロビーに戻れば、ガラス窓の向こうで巨大な作業アームが壁面から中抜き出した六角柱のような
あらゆる資源が再利用される
個人社会の到来によって
今立っている場所の
「私は本物の人間のように振る舞えていたでしょうか?」
「ああ、完璧だったよ」
「そうでしょうか?あの方は、私を見て
「あれは君が人間かどうか疑っていたんじゃない。君の姿に
「それならいいのですけど」
電気
「すまない。君の身体を完全なものにできなかった事はボクの落ち度だ」
謝罪を口にしたボクの手をひんやりとした手が握った。
「そんな事はありません。私はこうやって貴方の手を
優しい微笑みを浮かべたクスィの手を
◆◆◆
一時間半後に戻ってきた夫人は目元をハンカチで
「あの子がいた。この腕の中で確かに笑ってた」
震えた声。その表情は別れる前より
「今すぐにでも契約したいの」
扉の向こうに消えていくその背中を見ながら、彼女はきっと一月後にまた来るだろうと思った。その時に会う事は無いが……。
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