とことわのくに

第11話 管理人形①

　自動販売機（じどうはんばいき）から取り出した缶（かん）は冷（ひ）えきった手には熱（あつ）く、プルタブを押し上げると僅（わず）かに跳（は）ねた液体が指を汚（よご）した。それを舐（な）めとってから口をつける。

　缶（かん）ジュース一本分（いっぽんぶん）の値段で救える命があると、いつか街頭（がいとう）で募金箱を持っていた人が言っていた。だとしたらこの缶に詰（つ）まった液体は救いを待っている誰かの血液に等（ひと）しいのかもしれない。

　そんな事を考えながら口に含（ふく）めば温かさに砂糖と牛乳の甘さが広がる。舌の上で少し転がした後で飲み込み、残りを啜（すす）っていく。

　命を救いたいと行動を起こす人達には願いと善意（ぜんい）がある。でも全部は救えない。

　昔、酷い飼い主から助け出された犬の映像を見た。虐待（ぎゃくたい）で足を失った犬は、それを哀（あわ）れに思った優しい人に引き取られて、それからは幸せに暮らした。

　三本足で嬉しそうに走りまわるその姿を見た人々が泣いていて、けれどその裏（うら）でなんの特徴（とくちょう）もない犬達がドリームボックスに送られているのを知っていた僕は、同じように感動する事が出来なかった。

　この間やっていた報道番組では、生まれついた病（やまい）で数億円かかる手術を受けなければ死んでしまう少女の特集をしていた。少女の事を知った有名人の呼びかけで、瞬（またた）く間に集まった寄付（きふ）が彼女を救った。微笑（ほほえ）む彼女を中心に集まった人々は誰もが笑顔で、でも同じ病（やまい）を患（わずら）っていても誰にも知られなかった別の少女は、そのまま死んでしまっただろう。

　救われた命と救われなかった命。何がその差になったのかを僕は未（いま）だに説明できない。分かっているのは人の善意（ぜんい）が結果として命に値（ね）をつけるという事だ。

　中身を失った缶（かん）は急速に冷たくなった。死んだそれをゴミ箱へ捨てる。取り込んだ温かさが身体の中に残り、吐（は）く息（いき）も熱（ねつ）を帯（お）びる。

　生きるっていうのはたぶんそう言う事で、僕達は屍（しかばね）で築（きず）かれた舞台（ぶたい）の上で踊（おど）っている。剥（む）き出しの白骨（はっこつ）に足をとられ、その仲間に加わるまで僕達は踊り続ける……。

　ああ、今のは良いんじゃないか、なんか詩的（してき）だ。そう思いながら視線を動かして嘆息（たんそく）する。

「……行きたくない」

　誰にも聞かれないようにそっと呟（つぶや）く。視線の先には木々に囲（かこ）まれた丘（おか）。最上部からは巨大な構造物（こうぞうぶつ）が斜（なな）めに突き出ていて、さらにそこからクチナワと呼ばれる太（ふと）い索（さく）が伸び、数キロメートル先の塔（とう）に繋（つな）がっている。

　この都市に八（やっ）つある索墳（さくふん）のひとつ、第三号墳（ふん）と名付けられた人形遺構（にんぎょういこう）。

　ここで向きを変えて帰ってしまいたい。けれどそう言う訳にもいかない。重い足を引き摺（ず）るように前進すれば、遺構（いこう）を取り囲むフェンスに案内板がかかっていた。

　索墳（さくふん）の内、唯一（ゆいいつ）大戦時（たいせんじ）に崩壊し内部調査が行われた場所。

　今はほぼ放置されているけれど調査の時に使われた入り口がそのまま残っていて、中に入れるという噂（うわさ）は聞いた事があった。ついでに立ち入った事がバレた人が警察のお世話になったとか、帰ってこなかったとか……。

　そんな事を思い返して少しだけ身が震（ふる）えた。

「佳都（けいと）の任務（にんむ）は三号墳（さんごうふん）の内部にある玄室（げんしつ）まで行ってその証拠（しょうこ）を持ち帰ってくる事」

　突きつけられた指を見ながら何を持ち帰ってこればいいのかについて尋（たず）ねても、千歳（ちとせ）は「行けばわかるよ」というだけで、それが何かは教えてくれなかった。

　とにかくその何かを見つけて月曜日に学校まで持っていかなくちゃならない。恐（おそ）ろしく気乗（きの）りしない任務（にんむ）だ。

　けれど負（お）い目がある。それに千歳（ちとせ）の事だ。本当に危険を伴う行為なら提案（ていあん）しない筈（はず）だ。……たぶん。きっと……。おそらく……。

　脳裏（のうり）に浮かんだあの嗜虐的（しぎゃくてき）な笑みに自信がなくなりかけて自己嫌悪（じこけんお）に陥（おちい）る。でもこれは千歳（ちとせ）がくれた優しさには違いない。信じるんだと言い聞かせ、周囲に誰もいない事を確認してからフェンスを乗り越（こ）える。

　ああ、遂（つい）に犯罪者だ。そんな意識と共に葉の落ちた木々の間を抜け、その先に現れた丘を登っていくと、巨大な構造物（こうぞうぶつ）に辿（たど）り着く前、丘の中腹（ちゅうふく）にコンクリートで出来たトンネルを見つけた。たぶん入り口とは此処（ここ）の事だろう。

　トンネルには鉄格子（てつごうし）で出来た扉が嵌（は）まっていて、張（は）り巡（めぐ）らされた鎖（くさり）に幾（いく）つもの錠前（じょうまえ）が掛（か）かっている。決意が急速に萎（しぼ）んでいくのを感じながら一応鉄格子（てつごうし）を掴（つか）む。

　いやぁ、行ってみたんだけど、なんか最近鍵（かぎ）がかけられたみたいで入れなかったんだよね。

　これでいこう。入れないなら仕方がない。僕の所為じゃない。むしろそうであってくれと祈（いの）りながら力を入れると軋（きし）みこそしたが大した抵抗も無く扉は動いた。張（は）り巡（めぐ）らされた鎖（くさり）は見た目だけで巧妙（こうみょう）に扉の開閉（かいへい）を邪魔しないように配置されている。

　扉を一度戻し溜息（ためいき）をついてから、もう一回押し込んで中に踏（ふ）み込む。

　なんて律儀（りちぎ）なんだ。凄（すご）い。偉（えら）い。そんな事を口に出さずに唱（とな）え、自分を鼓舞（こぶ）しながら携帯端末（けいたいたんまつ）をポケットにしまい、代（か）わりに「持って行った方がいいよ」と言われたから持ってきた懐中（かいちゅう）ライトを点（つ）ける。

　放射された光を奥に向けるとトンネルはそれほど長くなく、すぐにコンクリートとは違う壁面（へきめん）が現（あらわ）れた。異様（いよう）な程（ほど）に白（しろ）い壁。周りには同じ材質の瓦礫（がれき）が転（ころ）がっていて、人が一人通れるぐらいの亀裂（きれつ）がある。

　たぶんトンネルはこの亀裂（きれつ）を保護する為に作られたのだろう。この白（しろ）い壁が習った通りのものなら、人はまだ、これに穴を開ける技術を取り戻していない。

　躊躇（ためらい）いながら亀裂（きれつ）の中に踏（ふ）み込むと内部はずっと放置されていたとは思えないぐらい綺麗（きれい）だった。その事に少しだけ気持ちが軽くなって、それが無くなってしまう前に歩き出す。

　まっすぐに伸びていた通路は、一度折れた後で緩やかに弧を描き、下へ下へと続いていた。途中には分かれ道らしきものもあったけれど、崩壊していたからほとんど一本道といってよく、しばらく進んでいくと唐突（とうとつ）に広い円形の空間に出た。

　異国（いこく）の神殿（しんでん）みたいに何本もの黒（くろ）い巨大な柱（はしら）が規則正しく並んでいる。たぶん此処（ここ）が玄室（げんしつ）だ。教科書に載（の）っていた粗（あら）い写真も確かこんなだった。

　柱（はしら）を追（お）ってライトを上げれば、それがはるか遠くにある天井を這（は）って統合（とうごう）されていっているのが分かる。

　体感的には丘の一番下あたりまで降（お）りてきたような気がするから、突き出している構造物（こうぞうぶつ）は、外から分からないだけで此処（ここ）まで続いていたのだろう。

　だとしたら何本か途中で千切（ちぎ）れ、垂（た）れ下がってしまっているこの黒（くろ）い柱達は統合（とうごう）された先でクチナワになっているのではないだろうか。それなら千歳（ちとせ）が言っていた証拠（しょうこ）というのは、天井からはがれてしまった柱（はしら）の一部の事かもしれない。

　ライトを動かしてクチナワの欠片（かけら）とでもいうべきそれが落ちていないかを探す。近くにそれらしいものは無い。でも空間の中央を照（て）らした時、そこに小さな箱（はこ）がある事に気付いた。探しているクチナワの欠片（かけら）とは関係なさそうだったけど、それでも一応確認する為にゆっくりと近づいてみると、それはオルゴールのような木箱で、蓋（ふた）の隙間（すきま）から〔よく来たね。中に宝物が入っています〕と書かれた紙が舌（した）のように伸（の）びていた。

　それで全てを理解した。びくびくしていたのが馬鹿（ばか）みたいだ。呆（あき）れながら箱を手に取り蓋（はこ）を開くと何かが顔めがけて飛び出してきて、反射的に上げた悲鳴（ひめい）と共に手からライトが抜けた。

　光が遠（とお）のき一瞬恐慌（きょうこう）をきたしかける。慌（あわ）ててライトを拾い上げ、放り出した箱の方に向ける。周囲には箱（はこ）から飛び出してきたのだろう細工物（さいくぶつ）が散（ち）らばっていて、横になった箱（はこ）の中からはビー玉みたいな石（いし）が付いたストラップが転（ころ）がり出ていた。

「千歳（ちとせ）ー！」

　反響（はんきょう）した声に返事は無かった。別に怒（おこ）っている訳（わけ）じゃない。ただ、こんな古典的（こてんてき）な手にまんまと引っかかって、悲鳴（ひめい）まで上げた事が恥ずかしかっただけだ。それに千歳（ちとせ）がどこかに隠れているんじゃないかと思った。

　けれどそれは無いなと考え直す。此処（ここ）は音が良く響（ひび）くから、千歳（ちとせ）がいたならとうに耐えられなくなって笑い声が聞こえているか、自分から姿を見せている筈（はず）だ。

　だとしたら見る訳（わけ）でもないのにこんな手間（てま）をかけたのは頭がおかしいとしか言いようがなく、でもそんなところが千歳（ちとせ）らしかった。

　仕方（しかた）がないと息を吐（は）きながら転（ころ）がっているストラップを拾（ひろ）い上げてポケットにしまう。それから散（ち）らばった仕掛（しか）けの回収を始める。

　このまま帰っても良かったけど、何だかそれは気が引けて、だからどれだけ作ったんだという程（ほど）散らばっているそれを拾（ひろ）っては箱（はこ）の中に入れていく。

　ライトを動かして恐（おそ）らく最後の一枚であろうそれをつまみ上げた瞬間（しゅんかん）。床に青（あお）い光が奔（はし）った。驚（おどろ）いて手を引いている間（あいだ）に光は壁を伝（つた）い、天井に到達（とうたつ）した途端（とたん）、降（ふ）り注（そそ）いだ。

　眩（まぶ）しさから反射的に目を瞑（つむ）ると足元が揺（ゆ）れた。地震（じしん）と同じ感覚に、恐怖（きょうふ）から身体が硬直（こうちょく）する。

　そんな中、どうにか薄目（うすめ）を開けると、床に青（あお）い光の六角形が浮かび、それがせり上がってきているのが見えた。

　後退（あとずさ）りながら千歳（ちとせ）の姿を探す。違う。さすがにどう考えてもこれが千歳（ちとせ）の仕業（しわざ）だとは思えない。何故かは分からないが、何かが作動（さどう）している。

　逃げるべきだと踵（きびす）を返そうとした身体が大きく揺（ゆ）さぶられてバランスを崩した。咄嗟（とっさ）に掴（つか）んだのはせり上がってきた六角形の柱（はしら）で、上昇を続けるそれで身体を支えていると天井に到達するまで伸びるかと思ったそれは二メートル程（ほど）に到達した所で止まり、同時に揺（ゆ）れも治（おさ）まった。

　冷静（れいせい）さを取り戻す為（ため）に深く呼吸をして、とにかく此処から離れようと手を離すと、突然（とつぜん）、柱（はしら）の下から白煙（はくえん）が噴（ふ）いた。上げた筈（はず）の悲鳴（ひめい）は響（ひび）き渡る排出音（はいしゅつおん）にかき消（け）され、瞬（またた）く間に視界が真（ま）っ白（しろ）に染（そ）まる。

　吸い込んだ煙（けむり）にむせていたら柱（はしら）の中心に線（せん）が奔（はし）り、そこからも煙が溢（あふ）れだしたかと思うと柱（はしら）が割（わ）れた。

　目の前で露（あら）わになった柱（はしら）の内部は外部と同じ漆黒（しっこく）で、柔らかそうな質感の表面を吸盤（きゅうばん）みたいな凹凸（おうとつ）が埋（う）め尽（つ）くしている。

　流れ出ていく煙（けむり）を追った視線が、自分の目の高さ程（ほど）の位置にある何かを捉（とら）えた。煙（けむり）が薄（うす）れ、そこに現（あらわ）れたものを見て心臓が跳（は）ねる。

　それは人の頭部だった。煙（けむり）がさらに排出（はいしゅつ）され、黒（くろ）い服を纏（まと）った華奢（きゃしゃ）な身体も現（あらわ）れる。

　柱（はしら）の中に少女がいた。11才か12才ぐらいの少女。その瞼（まぶた）は閉じられ眠っているように見える。でも、こんな所に少女が、少なくともまともな人間がいる筈（はず）が無い。脳裏（のうり）に人形という単語とその危険性が浮かぶ。けれど目が離せなかった。

　肩口あたりで揃（そろ）えられた絹糸（きぬいと）のような艶（つや）のある白銀（はくぎん）の髪、瞑（つむ）られた瞼（まぶた）から伸びる繊細（せんさい）な睫毛（まつげ）。筋（すじ）の通った小ぶりな鼻（はな）に柔（やわ）らかそうな薄桃色（うすももいろ）の唇（くちびる）。それら全ての要素がこれ以上ない程（ほど）完璧な比率で配置された恐ろしく整（ととの）った顔。

　そのあまりの美（うつく）しさに抱（いだ）いていた恐怖さえ失くし、見惚（みと）れた。本当に人形なのかも分からなくなる。教科書に載（の）っていた復元予想図はこんなものじゃなかったし、人形坑（にんぎょうこう）に出る殺人人形の噂にも美しい少女の姿をしているなんてパターンは聞いた事が無い。

　そもそも事故から生き残った坑夫（こうふ）が口走る殺人人形の正体は事故の時に発生した化学物質による幻覚（げんかく）だとされている。

　でも、今目の前に在（あ）るものはとても人間だとは思えない。思考がまとまらず、ただ呆（ほう）けたようにその顔を見つめていたら、睫毛（まつげ）が微（かす）かに揺（ゆ）れた気がした。

　引き寄せられた視線が持ち上がっていく瞼（まぶた）を捉（とら）える。覗（のぞ）いたのは青（あお）く輝（かがや）く瞳（ひとみ）。殺人人形の目は青（あお）く輝（かがや）いていたという気の狂（くる）った坑夫（こうふ）の証言が脳裏（のうり）に浮かび、目の前にある冷たい眼差（まなざ）しと能面（のうめん）のように表情の無い顔を見て消えていた恐怖が再燃（さいねん）した。

「あっ……」

　自分が上げた引き攣（つ）った声を聞きながら辛（かろ）うじて一歩後退する。その間に人形が柱（はしら）の縁（ふち）を掴（つか）み、身体を前傾（ぜんけい）させた。

　明らかに這（は）い出ようとしている。黒（くろ）い靴（くつ）を履（は）いた足が踏み出されるのを見てそれが確信（かくしん）に変わる。

　身を翻（ひるがえ）して走り出さなきゃいけない。そう理解しているのに身体はただ後退（こうたい）する事を優先した。震（ふる）える足がもう一歩後ろを踏（ふ）み、此方（こちら）に向かって伸ばされた手が空を切る。人形（にんぎょう）がぎこちない足取りで床に降りた。

　僕の胸ぐらいの高さになった人形（にんぎょう）が、此方（こちら）に向かって再び手を伸ばす。その動きはさっきよりも早くなっている。

　焦（あせ）って下がろうとした足が縺（もつ）れた。転ぶという確信が頭の中を埋（う）め尽（つ）くす。反射的に手をつこうとした身体が強く押された。

　痛みと床を転がった感覚と同時に、何かが割れるような音が耳朶（じだ）を打った。