第9話 死に損ない①

 さかの多い街を夕日が照らしている。乱雑らんざつに立ち並んだ家屋かおく。瓦屋根の隙間すきまからのぞく細い路地は迷路みたいに入り組んでいて、その向こうには海が見える。

 陽光ようこうを反射してまたたいている海はリゾート地の宣伝せんでんにあるような優しげな海では無く、冷たく人を拒絶するような海で、吹き上げるしおかおりも何処かよどんでいる気がする。

 不便ふべんさから住民は減り続け、駅にかかげられたび付いた看板や廃墟になった土産物屋みやげものやがかつての面影おもかげとどめようとしていて、それがむしろ衰退すいたいを意識させるような、そんな街の坂道を、僕の乗った車椅子は母さんに押されながら進んでいた。かすかな波の音に混ざって、時折、海鳥うみどりやカラスの鳴き声が聞こえる。

 最後に訪れた日から数日しかっていないのに、今日の街はどこかずっと寂しかった。


「母さんと父さんが嫌いだった。いつからか嫌いになってた」


 母さんの声はまるで独り言のようにひびいた。


「何年も不妊治療を続けて、ようやく生まれた私は凄く大切にされて、だから幼い頃は二人の事が大好きだった」


 僕の反応を確かめる事無く、車椅子はただ淡々たんたんと進んでいく。


「でも学校に通い始めて周りとの違いに気付いたの。不妊治療はもう普通の事だったし、出産の高齢化も進んでた。だけど、それでも友達の両親に二人ほど歳をとった人はいなかった。

 授業参観の時に二人だけが浮いているような気がして、それが恥ずかしかった。遠足に持たされたお弁当の中身も、来ている服や持っているアクセサリー、口ずさむ歌も、母さんは皆のお母さんに比べるとどこか古臭くて、だから一緒に出掛けるのが嫌になって、お弁当は自分で作るようになって、友達を家には呼ばなくなって、授業参観には来ないでって言った。

 母さんは泣いて、私は父さんに初めてぶたれた。たぶんあの瞬間が家族の終わりの始まりだった」


 僕はそれを知っていた。だから母さんは進学と同時にこの街を出たのだ。何を口にすべきか悩んでいるような沈黙ちんもくが続いている間にいつもなら曲がる道を通り過ぎた。


「どんな事も二人で乗り越えていこうって言われたの」


 わずかに間をおいて続けられた言葉はつながっていなかったけど、何も言えなかった。


「私もそう思った。どんな事だってきっと二人でなら乗り越えていけるって」


 見上げれば母さんの目は遠くを見ていて、だからたぶん今母さんが口にしているのは新しい父さんじゃなく本当の父さんの事だった。

 母さんは大学に通っていた時。本当の父さんと出会い僕を身籠みごもって大学を辞めた。結婚を反対された二人はけ落ちし、それがきっかけで母さんは両親と絶縁ぜつえん状態になってしまったらしい。これは全部祖母から聞きだした話だ。母さんはその頃の事について話してくれなかった。 

 けれど少なくとも当時の母さんにとってそれは悲しいものでは無かったはずだ。端末の予備記録バックアップデータに残っていた写真。手作り感のある簡素かんそな結婚式で撮られたその中で、今よりもずっと若い母さんは楽しそうに笑っていたから。


「でも間違ってた。決意を語る事は簡単。だけどそれを持ち続ける事は難しい。あなたの病気が分かってからあの人は変わった。お前の所為だって言われた。不妊治療で生まれた女だからって」


 なおる事の無い僕のやまい。ただいずれ来る時を待つ生活に父さんは耐えられなかったのだろう。父さんはいなくなり、僕と母さんだけの生活が始まった。

 母さんは隠そうとしていたけど生活は明らかに困窮こんきゅうしていった。それでも母さんはいつも笑顔で、それが頑張って作っているものだと気づいていても何もできない僕は、ろくに動かない身体をのろった。 

 きっとあの日。毎月届く祖母からの手紙に目を通しても、返事を書く事もしなかった母さんがこの街に来る事を決めたのは祖父が死んだからだけじゃなく、金銭的に限界だったからだろう。

 この街に来た日の海は、何かに耐えるような面持おももちの母さんとは対照的にあおかがやいていて、初めていだしおかおりを奇妙なものに感じた。

 何度か躊躇ためらった母さんの指が呼び鈴を押すと、少し間をおいて引き戸が開き、祖母が顔を出した。

 目元が母さんに似ているその顔は一瞬驚きを浮かべ、そしてすぐにほころんだ。それから何か言おうとしながらもただ唇を震わせていただけの母さんの手を、細いえだのような指でにぎって優しい声で「おかえり」といいながら抱きしめ、そのあと、身をかがめて僕の手をにぎり「よく来たね」と言ってくれた。

 まねき入れられた部屋で横になっていた祖父は、眠っているみたいに見えたけど、呼吸で胸が上下する事は無く、触れると冷たかった。これが死なのだと思った。

 あの時、僕の横に座り込んだ母さんは、ただ茫然ぼうぜんと、そんな祖父を見つめていて、そこに遠慮えんりょがちに近づいた祖母が話し始めてからようやく顔を上げた。

 祖母は、祖父が母さんを叩いてしまったのをやんでいた事、いつも母さんの事を気にしていた事を口にした後で、自分たちが母さんの望む両親では無かった事をびて、許して欲しいとは言わないけれど、気持ちだけは分かって欲しいと言った。私達にとってあなたは最愛の娘なのだと……。

 それから「これはお父さんからあなたに」と祖母が母さんに差し出したのは母さんの名義になっている預金通帳だった。

 ずっと黙っていた母さんはそれを見てかわいた笑い声のようなものを上げた。それはすぐに嗚咽おえつになり、母さんは冷え切った祖父の手を握って「ごめんなさい」とふるえる声で何度も繰り返した。

 その背中をそっとさすった祖母が「こうして来てくれたんだから、いいんだ」とささやくと、母さんはその胸に顔を埋めて、しばらく泣き続けた。

 祖父の葬儀が終わった後、母さんは祖母を都市に誘ったけど、祖母は首を横に振って「この街で死にたい」とさみしげに笑った。母さんにとって後悔だけが残るこのさみしい街もきっと祖母にとっては大切でえのない街だったのだろう。

 それから何度もこの街に来た。祖母はいつも笑顔で僕達を迎えてくれた。帰る時に門の外に立って、見送ってくれた小柄こがらな姿を今でも鮮明せんめいに覚えている。

 母さんが新しい父さんを紹介した時も僕に弟ができた時も祖母は喜んだ。それはきっと母さんが失った家族を取り戻せた時間で、隙間風すきまかぜきこむ古い家は、きらびやかな都市の部屋よりもずっと温かかった。

 それも今日が最後。祖母が死んで家を引き払う為にこの街に来た。そして「最後にこの街を見ておきたいから」と、新しい父さんとまだ幼い弟を残して母さんは僕を連れ出した。

 坂を上りきった道のはずれで車椅子は止まった。街が一望できるだけのさみしい場所。水平線の向こうに太陽が沈もうとしている。


「また、ひとりになっちゃった」


 つぶやかれたその言葉は、僕が母さんにとって力に成れるような存在ではない事をしめしていた。


「あの子はね。病気じゃなかったの。私にも産めたの、元気な赤ちゃんが、あの子は走れるし、三輪車にも乗れるようになった。これからどんどん成長していく」


 母さんの声は少しだけはずんで、それからまた小さくなった。


「あの人は血がつながってるかどうかは関係ないって、僕達は家族になるんだよってそう言った」


 新しい父さんは、母さんと結婚する前に僕と視線の高さを合わせて言った。「すぐには受け入れてもらえないかもしれないけれど、いつか君にも信じてもらえるように頑張るから」と……。


「でも、いつまでそう言ってくれる?……もう失敗したくないの」


 僕は母さんを見た。この街最後の日に此処から見える夕日を見たかったんだとそう言ってくれると思いたかった。

 でも、話しだしてから初めて僕の方を見た母さんは無表情で、その目は深くくらいこの街の海に似た色をしていた。


「あなたの為に涙を流すわ。あの人はきっと私をなぐさめてくれる。それからあなたの写真を見せて、あの子にとても良い子だったお兄ちゃんの話をするの……悲しみがきずなを強めてくれる。死が命の大切さを教えてくれる。そしたら今度こそきっと幸せになれる。だから、だからね……もういいよね。お兄ちゃんだもの、ね?」


 その問いかけに背筋せすじこおった。母さんにとって僕はつらい過去を思いださせる存在であり未来への不安だった。母さんはずっと耐えてきたのだろう。そして必死で良い母親をえんじてくれていた。けれど祖母がいなくなった事で、そのたがが外れてしまったのだ。

 体がふるえ始め、目からは涙がこぼれた。おだやかな新しい父さんと、最近「にぃに」と嬉しそうに僕の事を呼ぶようになったまだ幼い弟。母さんの望む未来に僕の居場所は無い。

 嫌だとは言えなかった。本当ならあったはずの幸せを壊したのは僕だ。だから車椅子の車輪を回す持ち手に無意識の内に伸ばしかけていた手を引き戻して頷いた。


「ありがとう」


 きっと、ずっと良い母親でいてくれた事にお礼を言わなきゃいけなかった。でも、何も言えず。そうしている内に車椅子が少しだけ強く押され、車輪が地面という支えを失ってかたむいた。反射的に車椅子のふちを強く握る。落下する感覚。間延まのびしたような一瞬に視界がとらえた母さんは微笑んでいた。

 いつもと同じ微笑み。違うのは、柔らかな腕に抱きしめられなかった事。最後に聞いたありがとうが頭の中で反響した。まるで壊れた音声データみたいに

 何度も、

 何度も、

 何度も……。


◆◆◆


 落下する感覚に飛び起きると、じっとりと嫌な汗をかいていた。


「どうしたの?」


 暗い部屋の中にひびく声。隣で寝ていた紫依華しいかを目覚めさせてしまったらしい。


「ああ、ごめん。……ちょっと用を足しに行きたくなっただけだよ」


「嘘はやめて」


 立ち上がろうとした腕が掴まれる。最後に俺の嘘が通じたのはいつだっただろうか。


「……昔の夢を見ただけだ。なんてことはない」


「嫌な夢?」


 答えずにいるともう一方の腕が伸びてきて俺の肩をつかんだ。それに引き倒される。抵抗する事もできたが怪我をさせてはいけないから身を任せた。

 かれるようにしてベッドに転がると見えるのはもう見慣れた天井。紫依華しいかが俺の頭を撫で、それを止めようと伸ばした手はそっと払われた。


「嫌な夢を見ないように、こうしていてあげる」


 何を言っても聞いてもらえそうに無いから仕方なくそのまま目をつむった。つたわる体温と鼓動こどう。あの時と同じそれが心を落ち着かせ、覚醒していた意識をゆっくりとねむりへと引き戻していく。


 次に見るのはきっと落下した後の記憶だ。紫依華しいかと初めて出会った時の……。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る