第9話 死に損ない①
最後に訪れた日から数日しか
「母さんと父さんが嫌いだった。いつからか嫌いになってた」
母さんの声はまるで独り言のように
「何年も不妊治療を続けて、ようやく生まれた私は凄く大切にされて、だから幼い頃は二人の事が大好きだった」
僕の反応を確かめる事無く、車椅子はただ
「でも学校に通い始めて周りとの違いに気付いたの。不妊治療はもう普通の事だったし、出産の高齢化も進んでた。だけど、それでも友達の両親に二人ほど歳をとった人はいなかった。
授業参観の時に二人だけが浮いているような気がして、それが恥ずかしかった。遠足に持たされたお弁当の中身も、来ている服や持っているアクセサリー、口ずさむ歌も、母さんは皆のお母さんに比べるとどこか古臭くて、だから一緒に出掛けるのが嫌になって、お弁当は自分で作るようになって、友達を家には呼ばなくなって、授業参観には来ないでって言った。
母さんは泣いて、私は父さんに初めてぶたれた。たぶんあの瞬間が家族の終わりの始まりだった」
僕はそれを知っていた。だから母さんは進学と同時にこの街を出たのだ。何を口にすべきか悩んでいるような
「どんな事も二人で乗り越えていこうって言われたの」
「私もそう思った。どんな事だってきっと二人でなら乗り越えていけるって」
見上げれば母さんの目は遠くを見ていて、だからたぶん今母さんが口にしているのは新しい父さんじゃなく本当の父さんの事だった。
母さんは大学に通っていた時。本当の父さんと出会い僕を
けれど少なくとも当時の母さんにとってそれは悲しいものでは無かった
「でも間違ってた。決意を語る事は簡単。だけどそれを持ち続ける事は難しい。あなたの病気が分かってからあの人は変わった。お前の所為だって言われた。不妊治療で生まれた女だからって」
母さんは隠そうとしていたけど生活は明らかに
きっとあの日。毎月届く祖母からの手紙に目を通しても、返事を書く事もしなかった母さんがこの街に来る事を決めたのは祖父が死んだからだけじゃなく、金銭的に限界だったからだろう。
この街に来た日の海は、何かに耐えるような
何度か
目元が母さんに似ているその顔は一瞬驚きを浮かべ、そしてすぐに
あの時、僕の横に座り込んだ母さんは、ただ
祖母は、祖父が母さんを叩いてしまったのを
それから「これはお父さんからあなたに」と祖母が母さんに差し出したのは母さんの名義になっている預金通帳だった。
ずっと黙っていた母さんはそれを見て
その背中をそっとさすった祖母が「こうして来てくれたんだから、いいんだ」と
祖父の葬儀が終わった後、母さんは祖母を都市に誘ったけど、祖母は首を横に振って「この街で死にたい」と
それから何度もこの街に来た。祖母はいつも笑顔で僕達を迎えてくれた。帰る時に門の外に立って、見送ってくれた
母さんが新しい父さんを紹介した時も僕に弟ができた時も祖母は喜んだ。それはきっと母さんが失った家族を取り戻せた時間で、
それも今日が最後。祖母が死んで家を引き払う為にこの街に来た。そして「最後にこの街を見ておきたいから」と、新しい父さんとまだ幼い弟を残して母さんは僕を連れ出した。
坂を上りきった道の
「また、
「あの子はね。病気じゃなかったの。私にも産めたの、元気な赤ちゃんが、あの子は走れるし、三輪車にも乗れるようになった。これからどんどん成長していく」
母さんの声は少しだけ
「あの人は血が
新しい父さんは、母さんと結婚する前に僕と視線の高さを合わせて言った。「すぐには受け入れてもらえないかもしれないけれど、いつか君にも信じてもらえるように頑張るから」と……。
「でも、いつまでそう言ってくれる?……もう失敗したくないの」
僕は母さんを見た。この街最後の日に此処から見える夕日を見たかったんだとそう言ってくれると思いたかった。
でも、話しだしてから初めて僕の方を見た母さんは無表情で、その目は深く
「あなたの為に涙を流すわ。あの人はきっと私を
その問いかけに
体が
嫌だとは言えなかった。本当ならあった
「ありがとう」
きっと、ずっと良い母親でいてくれた事にお礼を言わなきゃいけなかった。でも、何も言えず。そうしている内に車椅子が少しだけ強く押され、車輪が地面という支えを失って
いつもと同じ微笑み。違うのは、柔らかな腕に抱きしめられなかった事。最後に聞いたありがとうが頭の中で反響した。まるで壊れた音声データみたいに
何度も、
何度も、
何度も……。
◆◆◆
落下する感覚に飛び起きると、じっとりと嫌な汗をかいていた。
「どうしたの?」
暗い部屋の中に
「ああ、ごめん。……ちょっと用を足しに行きたくなっただけだよ」
「嘘はやめて」
立ち上がろうとした腕が掴まれる。最後に俺の嘘が通じたのはいつだっただろうか。
「……昔の夢を見ただけだ。なんてことはない」
「嫌な夢?」
答えずにいるともう一方の腕が伸びてきて俺の肩を
「嫌な夢を見ないように、こうしていてあげる」
何を言っても聞いてもらえそうに無いから仕方なくそのまま目を
次に見るのはきっと落下した後の記憶だ。
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