第6話 咎人②

 あれからどれだけっただろうか、吸った息をゆっくりと吐きながら姿勢を変える。布団に潜り込んでもう一時間はっているはずなのに、眠りはやってくる気配さえなかった。

 原因は千歳ちとせが泊まっているという事を妙に意識してしまっている所為だ。前の時と違うのはみさきさんが家にいないだけ、ただそれだけの事なのに、こんな状態になるなんて最低だった。みさきさんの部屋で寝ている千歳ちとせが知ったらきっと軽蔑けいべつされるだろう。もう若干悟られている可能性すらある。

 まっていく事が決まってからの僕は確実におかしかった。いつもみたいに話す事が出来なくなって会話はぎこちなくなったし、お風呂に行く時に言われた「のぞかないでよ」という冗談にも上手く返す事が出来なかった。 

 スウェットに着替え、携帯用の歯ブラシを持ちながら居間に戻ってきた千歳の姿を想起して、それを振り払う為にまた体の向きを変える。

 お風呂で雑念ざつねんを払いたくて身体を丁寧に洗っていたら、それがまた何かを意識しているように思えたのも最低だったと自分をなじる。

 本当に最低で、でも朝になればきっとこんな気持ちも無くなる筈だと言い聞かせ、眠ろうと努めていた意識が不意に微かな足音を捉えた。それに続く小さな声。


佳都けいと、まだ起きてる?」


「……うん」


「入ってもいい?」


 何故返事なんかしてしまったんだろうと後悔する。でも、もう遅かった。


「……いいよ」


 答えながら掛布団かけぶとんを持ち上げて身を起こす。開かれた扉から、廊下の照明の光が差し込む。


「どうか、した?」


 動揺がそのままあらわれて裏声みたいな変な声が出た。


「眠れなくて、その……そこに座ってもいいかな?」


 その言葉に反射的に頷くと、千歳は部屋の照明をつけ、扉を閉めた後でベッドに腰を下ろした。無意識に注視しようとする視線を逸らす。見慣れないスウェット姿は色が違うだけで学校のジャージとほとんど変わらないのに意識しすぎている所為か刺激が強すぎる。

 千歳は何か悩み事があって相談に来たのかもしれないのに、そんな事を考えている僕はやっぱり最低だった。


「あー、あのね。岬さんがいつもカップ麺で済ませてるみたいだから心配だって言ったのは本当なんだけど、今日とまって行ったらいいって言ったっていうのは嘘なんだ。お母さんたちに連絡したのも」


「え?」


 千歳の悩みを聞く為に必死に作ろうとしていた心が乱れた。


「でも安心して、今日、家に二人が帰ってこないって事と小柴こしばの事は本当だから」


「いや、まずいよ」


 まずい。どう考えてもまずい。安心できる要素は一つもない。


「今からでも送って……」


「外は寒いし、こんな遅くに外に出るのは危ないよ。此処に居た方が良い。そうでしょ?だけど、確かに、今日私が泊まっていった事を誰かに知られたらまずいかもね。だからこれは秘密」


 唇の前に人差し指を当てた千歳があやしく微笑む。


「それでね。それで……えっと……」


「……うん」


 動揺から、ただ頷きながらやっぱり今すぐに家まで送っていくべきじゃないかと考える。けれど、何故か急に歯切れが悪くなった千歳ちとせの声にそう言い出せなかった。

 やっぱり千歳ちとせは何か悩み事があって、それを僕に聞いてほしいのかもしれない。千歳ちとせが悩むような事なんて思い当たらないけれど、もしそうなら僕は僕が出来る事を……


「その……して、みる?」


 躊躇ためらいがちにささやかれた言葉に思考が一瞬停止した。処理が追いつかず意味が理解できなかったみたいに頭の中で何度か反芻はんすうされる。


「……なに、を?」


 若干じゃっかん解ったうえで、そう口にしていた。千歳は言葉を続けずにポケットから四角いビニールのパッケージを取り出して見せた。買った事は無いけど、それが何かは知っている。


「興味無い?それとも……私とじゃ嫌?」


 その言葉に視線が反射的に千歳の身体をなぞっていく。スウェット越しにも分かる自分とは違う曲線的な身体。布団の下で足を引き寄せて、粘っこくなった唾液だえきを飲みこむ。


「そんな事ないけど……」


「けど?」


 こっちを見ている顔がかしげられる。良く知っている筈の千歳に困惑こんわくしていた。千歳はこういう事に慣れているのだろうか?そう考えるとなんだか胸がぞわぞわした。

 でもそうだとしても不思議じゃない。手入れが面倒だからと昔から短くカットされている髪。運動できたえられた細身ほそみの身体。勉強もできて頼りになる千歳はその人当たりの良さもあって、男女問わずにモテるから……。


「けど、なに?」


 自分の中に生まれた感情を上手く認識できないでいるうちにもう一度聞かれた。


「その、僕たちは友達で……だから……」


「あー、えっとね。私達もう付き合ってる事になってるんだ。……まぁ、噂でだけど……」


「……そう、なの?」


「ああ、やっぱり知らなかったんだ。でも、これだけ一緒にいてそう思われない方が凄いと思わない?」


 揶揄からかわれた事はあるけど、そこまでいってるとは思ってなかった。確かに手をつないだ事も冗談のように抱きしめられた事もある。それを思い返せば千歳ちとせは僕を異性として意識してくれていたのだろうか?

 そう考えてみてもそれが正しいのか分からない。異性同士のそういった駆け引きに僕は全く通じていない。千歳ちとせれているのなら、それほど深い意味さえそこには無いのかもしれないし……。

 それに、もしそこに深い意味があったとしても僕は千歳ちとせを正しく好きだと言えるのだろうか?嫌いなわけは無い。ただ僕がこれからしようとしている事は本能的な欲求を満たす為だったり、通過儀礼つうかぎれとして自らにはくをつけたいというような自己満足的な行為ではないと言えるかという事で、受け入れてもらえるからといって自分の認識も曖昧なままそこに付け込むのは不誠実な気がする。

 でも、もしかするとむしろ此処でこばむ事の方が寧ろ失礼なのかもしれなくて、けれどそれも自己正当化の為の理屈かもしれなくて……

 いや、きっと思考が何度も同じところをまわっているのは、此処に至る前につき合っているという相互の確認が得られていないからだ。

 周りから完全にそう思われていて、それを千歳ちとせが否定していなくても、僕はまだ千歳ちとせに言ってない。何となくここまできてしまったから順序じゅんじょがおかしくなっていて、つまり必要なのは千歳ちとせに……。


「また、なにか考えてる?」


「あー、その、今からしようとしてる事は、一時の気の迷いによる過ちじゃないか、とか」


 まとまらないうちに問われ、あせった思考が咄嗟とっさに漏らした言葉は、完全に逃げに入っていて、言ってしまった後で絶望的に最悪だと思った。部屋の空気が凍った気がした。

 次の瞬間にほおを打たれるのだろうと思い目をつむったが、想像していた痛みはやってこなかった。


「フッ」


 ひびいた声に目を開ければ千歳ちとせが吹きだすように笑っていた。その手がゆっくりとのびてきて僕のほおに触れる。深い鳶色とびいろ虹彩こうさいがアーモンドがたをした瞳の中から僕を見つめている。


「それじゃいけない?一時の気の迷いが生んだ過ちだとしても、私は後悔しないよ」


 いつもの調子を取り戻した千歳ちとせのその強すぎる視線に目を合わせていられなかった。間違いなく顔は紅潮こうちょうしている。自分でも情けないと思う。

 本当はたぶん僕が踏み出さなきゃいけなくて、千歳ちとせの言葉の真意が例え僕の思っているものと違っていたとしても、少なくともきっと、僕は伝えなくちゃいけなくて、だから躊躇ためらいいながら口を開いた。


「僕は、その、なんていうか……」


「したことない?」


 思わずうなずく、千歳ちとせの勘違いが話を先に進めてしまう。それもある、それもあるけれど。


「大丈夫だよ。私もだから」


 顔を上げると千歳ちとせわずかにほおを染めていた。その言葉に胸の中にあったぞわぞわしたものが消えていく。


「ほら、こんなにドキドキしてる」


 千歳ちとせが僕の腕を取って、自分の胸に触れさせた。生地を通しても伝わる柔らかな感触の奥で心臓が速く打っているのが分かる。

 これまでそうだったみたいに今も千歳ちとせに手を引いてもらっていて、このやり取りはきっと教本を読んだなら全ての悪い例を踏んでいるだろう。それでも聞きかじった知識や、こっそり見た映像を頼りに玄人くろうとぶって失敗するよりはずっといいはずだと言い聞かせ、言えなかった事は後で必ず言おうと決めた。

 千歳ちとせうながすように目をつむったから、ぎこちなく顔を寄せる。僅かに触れた唇は柔らかくて少しだけ甘い気がした。近づいた事で強まった千歳ちとせの匂いの所為せいかもしれない。

 離そうとした唇が軽く噛まれ、驚いた僕を見て千歳が笑った。


「緊張してる?」


「……そんなことないよ」


 心臓は破裂しそうで、揶揄からかうような声に返した精一杯の虚勢きょせいは、千歳ちとせの笑みを深めただけだった。


「普段どんなものを見ているか知らないけど、そんなに気負わなくてもいいから」


 否定したい気持ちと嘘を吐くことに対する拒否感がぶつかって曖昧あいまいに頷く。その間に千歳ちとせが立ち上がってズボンを脱いだ。それからその下にあった水色のショーツも降ろし始める。太腿ふとももに引っかかってよじれるのも構わずにそのまま片足ずつ抜いて、ズボンの上に落とした。

 丸まったそれは扇情的せんじょうてきで、慌てて逸らした視線がすらりと伸びる足の曲線を追い、千歳の秘部ひぶとらえそうになって、さらにらす。


「何してるの?佳都けいとも脱いでよ」


 聞こえてきた問いかけと共に布団がはがされ、制止する前にズボンと下着のふちが掴まれた。


「まっ」


 ようやく上げた声が言葉になる直前、千歳の手が一気に引かれた。それが後退あとずさろうとして腰を上げた瞬間と重なって、脱げはしなかったものの、押さえつけられていたものが跳ね上がった。

 羞恥から何も言えずにいると、実行した千歳ちとせも何も言ってくれず一瞬沈黙が生まれた。


「こ、興奮してたんだね……」


 そう言った千歳ちとせが急に手を離したから、一気に引き戻された下着のゴムが、あらわになったものを直撃した。


「あっ」


 伝わった衝撃に変な声が出た。戻ってきた衣類の外に、充血したものの先端だけが取り残される。


「ごめん、痛かった?」


「いや、ちょっと驚いただけ」


 そう答えながら立ち上がって、これ以上何かされる前にズボンと下着を脱いだ。下半身に何もまとわないまま対面しているという奇妙な状況に頭が付いてこない。「あ」とか「その」とか言い合って、二人して沈黙し、ぎこちなく笑い合った。


「く、口で、してあげようか?」


 妙な空気に耐えかねたように千歳が上擦うわずった声でそう口にした。


「いや、あれは……、その、高等技術だと思うから」


 返した僕の声も上擦うわずっていた。あれは良く見るけど、される事にも、させる事にも抵抗がある。


「ああ、そう、そうかもね」


「普通のにしよう」


「うん、普通のね、普通の、初めてだしね」


 何が普通なのか、たぶんどっちも知らないけど、そう言って頷き合う。


「じゃあ、とりあえずベッドに寝て、みるね」

 

 その提案に首を縦に振った。それが自然な流れのような気がする。とにかくこの何だか良く分からない状況から抜け出したい。

 千歳ちとせがベッドに身を横たえ足を軽く曲げる。考えた末に、その足元の方に上り、座ってみた。千歳ちとせがこっちを見て確認するように頷く。


「見える?ここ」


 そう言って千歳は、指を両足の間。整えられているのだろう巻き毛の下にわせると、湿しめり気をびた薄桃色うすももいろの割れ目を広げて見せた。初めて見た自分のものとは違うそれに違和感を覚える。知ってはいたけれど実際に目にすると想像していたよりもずっと生々しい。

 千歳も僕のものを見て同じような印象を受けたのだろうか?


「あんまりじっと見ないで、恥ずかしいから」


「あっ……ごめん」


 うつむきがちに視線をらしたいつもからは考えられない千歳ちとせの態度に、自分が酷く不躾ぶしつけな事をしているのに気付いて謝る。まだ現実感がついてこない。

 そんな中で太ももの付け根近くにあったホクロだけはなぜだか確かなもののように思え、いきなり奥に手を伸ばす勇気も無かったから、とりあえずそれに触れてみた。

 瞬間、千歳が小さく声を上げて身をよじった。何かまずい事をしたと思って慌てて手を戻す。


「ごめん」


「ああ、違う。ただ佳都けいとの手が、冷たくて、くすぐったかったから」


 そう言われて自分の手が人よりも冷たかった事を思い出す。左手で右手を握って温めようとすると、千歳がそれを包み込むようににぎって息を吹きかけてくれた。


「これでよし」


 温まった僕の手を千歳ちとせつかんでみちびく。割れ目の入り口に触れ、さらに奥へ。はさみ込まれた指先が温かさの中で粘性ねんせいびた湿しめり気を感じる。

 包み込む柔らかさをなぞりながら指を曲げると、身じろいだ千歳が吐息といきのような声をらした。その事を恥じるみたいに、そむけられた千歳ちとせほおが赤く染まる。

 初めて聞いた千歳ちとせのそんな声に一瞬気恥ずかしさを覚え、けれどそれ以上にたかぶっていく、躊躇ためらいを失い急こうとする気持ちを抑えつけ、優しく丁寧に反応を探りながら指を動かす。


「ちょっ……ちょっと待って」


 荒い呼吸の合間に制止しようとする声が、どこか遠く聞こえた。指は千歳の弱い所を求めて彷徨さまよう。指先の感触に粘り気のある液体が増え始める。


「やめっ」


 強い口調と共に手を掴まれて身体が硬直し、抜けた指先から、付着した液体が糸を引いた。


「もう十分。私だけが恥ずかしいからっ」


 怒りを買ったのではないと理解したのと同時にかき消されていた含羞がんしゅうあふれる。


「……ごめん」


 指にまとわりついた千歳ちとせ愛液あいえきはぬらぬらとかがやいていて、気が付けば自分の呼吸も荒くなっていた。何か言うべきだと思うのに、何も思いつかない。


「上も見せてあげようか」


 気遣うような声に視線を向けると交差した手が上着のすそを握っていた。僕が気まずさに負けそうになっている間に千歳ちとせはもう立ち直ったらしい。

 声にするのは恥ずかしかったのでうなずいて見せると、それが可笑しかったのか千歳ちとせは薄く笑った。

 身を起こした千歳ちとせが上着をまくり上げると、隠れていた腹部とへそ、骨盤から描かれるくびれの曲線が露わになり、最後に現れた胸をさっき脱ぎてられたショーツと同じ色のブラジャーがおおっていた。千歳ちとせまとっている最後の衣類。


「外してみてよ」


 上着を完全に脱ぎ去った後で、挑発ちょうはつするように胸を張った千歳に、おずおずと近づき抱きしめるように手を伸ばした。

 みさきさんのものをたたんだ事があるから構造は知っている。だから理論上は外せるはずで、実際、れた千歳ちとせの髪とその匂いが鼻をくすぐる中、緊張とあせりからぎこちなくはなったけれど、留め具を外す事に成功した。


「できたね」


 めるような声。千歳が腕を伸ばすのに合わせてそっとブラジャーを取り除く。現れた乳房にゅうぼうりがあって、桜色をした小さな突起とっきが重力に逆らうみたいにかすかに上を向いていた。


「どう、かな?あんまりおっきくないし、ガッカリした?」


 不安そうな声に、見惚みとれていた事に気付く。


「そんな事ない。なんていうか、その、綺麗、だと思う」


「そ、そう、それなら良かった」


 千歳ちとせが恥ずかしそうに言って、僕は壊れた機械みたいに数回頷いた。


「その、触ってみても……」


「いいよ、っていうかもっと大事なとこ触ってたでしょ」


 千歳がつっこみながら笑う。慣れてきたのか、段々といつもの千歳に戻ってきた気がする。


「ああ、うん。そうだ、ね。それじゃあ」


 声をかけてから胸に触れた。てのひらに伝わる柔らかさ。指で押してみると沈み込むような不思議な感触がして、その心地よさと同時に生まれた気恥ずかしさから視線を下げると呼吸とともにほんの少しだけ浮き上がる肋骨の凹凸の上にもホクロを見つけた。


「えっと、そろそろ入れてみようか」


 そう言われて胸から手を離した。少し名残惜しかったけれど執着しゅうちゃくすると引かれそうな気がする。


「つけてあげる」


 千歳はベッドの上に転がっていたパッケージを拾い上げてふうを切りながら、僕のものを軽くつまんだ。自分で触るのと違って唐突に訪れた感触に、思わず身を引きかける。


「じっとしてて」


 そう言われて身体が動かないように耐える。


「そう、そのまま」


 まるで何か重要な処置を施している執刀医しっとういみたいに、千歳ちとせはパッケージの中から取り出した円形のものを先端に押し付けた。

 それがクルクルと展開されてあっという間に根元までおおわれる。


「うん、たぶん上手くいった。じゃあ、ね?」


 その言葉にうなずいて、みちびかれるままに自分のものを千歳の指示してくれた場所にあてがう。


「そのまま、ゆっくり前に」


 言われるがままぎこちなく前進させると、想像していたよりもずっとせまいそれに躊躇ためらいを覚えた。先端が包まれるのを感じながら、これ以上押し込めば千歳ちとせを傷つけてしまう気がした。


「入っ、た?」


 その声が少し苦しそうに聞こえる。


「先っぽだけ、でもこれ以上は」


「心配しなくても大丈夫だよ。そういうふうにできてるんだから」


 そっと背中に千歳ちとせの腕がまわされ引き寄せられる。それに従って恐る恐る身体を押し込む。

 強引に抵抗を超えた感覚。肌と肌が接した瞬間、かすかな苦鳴くめいと共に千歳の顔がゆがんだ。


「だ、大丈夫?」


「だいじょう、ぶ、でも、少しだけ待って」


 咄嗟とっさに上体を退いてうなずくと赤い液体がシーツに垂れた。躊躇ためらいながら伸ばした指にそれが付着する。


千歳ちとせ、血が……」


 視界に映るあかに、動揺どうようが生まれた。


「たぶんまくが裂けただけ、普通の事だから、大丈夫だからね」


 そう言ってほおに触れた千歳の指先から伝わる体温。あの時と同じ温かさに身体がふるえ始める。


「大丈夫」


 くり返された言葉にいつかの声が重なる。幻聴げんちょう反響はんきょうし、鼻の奥に濃密のうみつな鉄臭さが満ちる。両手が血にまみれているような気がした。


「大丈夫、だよ」


 僕を引き寄せようとした千歳ちとせの腕を思わず払いのけていた。驚いたその顔を見て急速に現実感が戻ってくる。鉄臭さは消え両手も汚れていなかった。


 自分がしてしまった事に気付いて、けれどもうどうしようもなかった。身体はまだ震えていて抜けたものはもうえてしまっている。


「……ごめん。本当にごめん」


 後退あとずさると、もう一度伸ばされようとしていた千歳の腕が宙を彷徨さまよった後で戻っていった。


「気にしないで、初めてだし、きっと、その……今日は、やっぱり帰るね」


 服を拾った千歳ちとせが部屋から出ていくのをただ見送った。しばらくくして玄関の扉が開閉かいへいする音を聞いて、それでも追いかけられなかった。

 最低だった。そのまま布団を引き寄せて頭までおおった。暗い闇の中で、全てをなかった事にしたかった。いっそこのまま目が覚めない事を願いながら身を縮めた。


◆◆◆


 どれだけそうしていただろう。布団からわずかに顔を出すと、カーテンと壁の隙間にはもう朝日が差し込んでいて、明けない夜は無いとかいう耳当たりのいい言葉が頭の中で白々しく響いた。

 重い足を引きって登校し、そそくさと自分の机に座れば、千歳ちとせとその近くに集まった女子達がこっちを見ていた。

 机の上に腰かけたり、椅子の背もたれに気だるげに腕をのせたりしている彼女達の表情から伺えるのは、嫌悪やさげすみ、或いはそれ故の興味であり、好意的なものはひとつも無い。座っている僕と彼女達との間には見えない線が引かれていて、けれど不意にこちらに向かってきた千歳ちとせはそれを躊躇ためらいなく越えて僕の前に立った。

 僕は千歳を見上げ愛想笑いを浮かべようとして失敗した。向けられた冷ややかな眼差しに背筋が凍る。千歳の口が開き、そこから言葉が……。


◆◆◆


 悲鳴と共に目を開けると、そこは自分の部屋だった。カーテンと壁の隙間から陽光がれている。同時に今日が休日だった事を思い出す。全部夢だったのかもしれないと祈りながら布団を取り除いてみるとシーツには血で出来た染みがはっきりと残っていて、それを隠す為にもう一度布団を被せた。

 時計を見るともう十時を過ぎている。みさきさんがいつ帰ってきてもおかしくない。そう思っていると玄関扉が開く音と「ただいまー」という声が聞こえた。本当にみさきさんが帰ってきた。慌てて昨日脱ぎ捨てたズボンと下着を穿きながら視線を動かす。何処かに転がっているだろう避妊具ひにんぐとそのパッケージを回収しなくてはならない。そんな事をしてももう終わっているのに何故かつくろおうとする気持ちはまだあった。


佳都けいとー?」


 みさきさんの声と足音が近づいてくる。布団の中にあった避妊具ひにんぐを掴んだ後で、床に落ちているパッケージを見つけた。


「寝てるの?鍵かけ忘れて……」


 音を立てないように動きながら手を伸ばす。間に合いそうにない。みさきさんは高確率でノックを忘れて扉を開ける。

 扉の取っ手がかすかに下りた瞬間に呼びりんが鳴った。取っ手が持ち上がり、呼びりんに対する応答と共に足音が遠ざかっていく、助かった。パッケージを握りしめて息を吐き、そのまま崩れようとしていた身体が玄関から聞こえてきた声に硬直した。

 理解できないままに逃げ道を探す。部屋の外には出られない。


佳都けいとー。千歳ちとせちゃんが来たよー」


 みさきさんの声を無視して布団に潜り込み息を殺した。みさきさんが僕を呼ぶ声がもう一度響く。

 みさきさんが来たら調子が悪いっていう。

 みさきさんが来たら調子が悪いっていう。

 みさきさんが来たら調子が悪いっていう。

 すべき事を呪文じゅもんのように頭の中で繰り返していると、扉が開く音がした。軽い足音。一瞬の静寂せいじゃく


「あのさ、まさか本当にまだ寝てるわけじゃないよね?」


 想定と違う声。さっきみさきさんと話していた時とは違う声色こわいろに心臓が止まりそうになる。


「そのままなら布団引きがすけど、いい?」


 もうどうにもならないとさとって、恐る恐る布団を下げると千歳と目が合った。夢で見たよりもずっと冷ややかなゴミを見るような眼差しに耐えきれず目をらす。


「……ごめん」


「それは昨日聞いた。それより映画を見に行くから、支度して」


 かろうじてしぼり出した謝罪をさえぎった声には一切の反論を許さないだけの圧力があった。

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