第4話 人形を壊す人形④

「百五十年以上前に人類が作り出したとされる人形」

 

 ゆっくりと進む車椅子。それを押しながら話し始めた博士の声が、無機質な廊下に反響はんきょうする。


「当時の人形がどういうもので人とどのような関係にあったのか正確には分からない。

 およそ百年前に起きた大戦で人は持っていた技術の大半と、世界をおおっていた電子網でんしもう。なにより電子化されていた記録のほとんどを失ってしまったからね。

 けれど、当時の文明が現在よりも格段に優れていた事は確かだ。それは世界中に残る遺構。なによりもこの街にある塔と地下の巨大都市が示している」


 その言葉を聞いて、この街で目にしたとうの事を思い出す。近くの高層建築群こうそうけんちくぐんが酷く小さく見えて、遠近感が狂ってしまったような感覚と共に、あんなものを作る技術がかつては存在したのだと驚嘆きょうたんした。

 写真や映像で何度も見て、知っているつもりだったのに、それでも実物にはそう感じさせるだけの迫力があって、そしてそんなとうさえも比較にならないほどの巨大な都市がこの街の下には眠っているのだ。


「間違いなくその頃の人類は繁栄はんえい謳歌おうかしていた。現在、大戦たいせんと呼ばれている人形達との全面戦争が起きるまでは……。

 どうしてそんな事になったのかは今も解っていない。ただ伝えられている事によれば、当時、かく人形都市にんぎょうとしに一体ずつ存在し、都市の中枢ちゅうすうと直接繋がっていた人形達が一斉に反旗はんきひるがえし、大戦は始まったらしい。

 人形都市にんぎょうとしと全ての人形を支配下に置き、人類に攻撃を開始した大戦たいせん元凶げんきょう。そんな人形達に人は統治人形とうちにんぎょうという名を与えた。それは君も知っているね?」


 その言葉に同意する。それはこの国に住んでいる人間なら誰もが習う事だった。歴史の教科書には必ずっている。それが人のあいだではなく、世界で初めて起こった人が造り出した技術との戦争だと……。

 たぶん世界中、どの国でも似たように教えられているはずだ。


統治人形達とうちにんぎょうたちによって引き起こされた大戦たいせんは、被害を考えればさいわいと言っていいかは分からないが、比較的ひかくてき短期間で決着した。それは、当時の世界にあふれていた超兵器群にも由来するだろう。いずれにせよ 統治人形とうちにんぎょうを全て破壊して、人類は勝利した。だが引き換えに世界人口は大きく減少し、失われた技術にともなって文明も衰退すいたいした」


 崩壊ほうかい。そうしょうされるほど惨禍さんか。人類にとって唯一ゆいいつ救いだったのは、世界中に爪痕つめあとを残した大戦はそれでいて、この惑星の環境にほとんど影響を与えなかった事だ。

 当時の兵器群はそれを可能にする程の技術的産物ぎじゅつてきさんぶつであった。

 人形都市を破壊しつくすだけの威力をほこりながら、一方で完全に綺麗クリーンな兵器。だから人類は残された生存可能な環境と人形技術にんぎょうぎじゅつによって、文明をもう一度発展させ、そして現在にいたっている。


「さて、では君は、どうして世界中で破壊された人形都市が、この国にだけほぼ完全な状態で残っているのか知っているかな?」


 博士からの問いに、記憶を探る。


「……この国には、それができなかったから」


 僕の答えを聞いた博士の声が少しだけ嬉しそうにはずんだ。


「そうだね。人形都市にんぎょうとしを破壊するだけの兵器をこの国は持っていなかった。だからこの国は統治人形とうちにんぎょう直接ちょくせつ討伐とうばつし、人形都市にんぎょうとし強制停止きょうせいていしさせるしかなかった。

 もしそれが遅れていたか、失敗していたら、この辺り一帯いったいはそれが出来る国の介入によって、焦土しょうどしていたはずだ。

 ともあれ、この国は成功した。代償だいしょうとして当時の超破壊兵器ちょうはかいへいきを用いた場合とは比べ物にならない程の人的被害を出してね」


「皇国の愚行ぐこう


 教科書の注釈に書いてあった。皇国が行った統治人形とうちにんぎょう討伐とうばつ作戦を異国はそう呼んでいると……


「ああ、大戦終了時に異国は皇国の行為をそう名付け、そして今は妬みを含めてそう呼んでいる。

 皮肉なものだ。大戦時は恐らく異国どころか皇国すらそう思っていただろう。そうするしかなかった選択が結果として完全なとう人形都市にんぎょうとしを残し、そこから得られる多量の人形技術にんぎょうぎじゅつが皇国の復興ふっこうと現在の繁栄はんえいを可能にした。


「まぁ、それが脅威をもたらす事にもなったのだけれどね」


「脅威?」


 博士の言葉の意味が良く分からなかった。皇国のとった行動は現在、結果として最良であったと教えられている。脅威がもたらされたなんて話は知らない。


「そう。君もこの街の人形坑で事故が頻発しているのは知っているね?」

 

 その言葉にうなづく。この街にある人形都市にんぎょうとし。そこへ繋がる人形坑にんぎょうこうと、それをとおして行われている採掘さいくつは、この街が出来た理由にもなっている重要な産業であると同時に、大きな危険をともなうものだ。

 報道番組で毎週のように取り上げられているように、坑道こうどうの崩落や、有害な化学物質、或いは可燃性物質の突出とっしゅつなどによって頻繁ひんぱんに事故が発生し、ケガ人や死者が出る。


「実際の所。あれはね。本当は報道されているような事故なんかじゃなく、人形が原因なんだ。事実を知っている者の間では人形災害にんぎょうさいがいと呼ばれている。

 この国にはいまだ起動可能な状態の人形が眠っていて、そして起動した人形は見境みさかいなく人をおそうから……」


「起動可能な人形が人を襲っている?そんなの聞いた事も」


勿論もちろんそうだろう。皇国は事実を隠しているからね。知っているのはごく限られた人間だけ、なんなら坑夫こうふたちも知らない。だけど事実なんだ。そしてそれは年々ねんねん増加傾向けいこうに……」


「どうして?」


「うん?」


 思わず口にした問い。それに返された声を聞いて、自分のした問いかけが博士の言葉をさえぎったった所為で、二つの意味としてとらえられる事に気付いて問い直す。


「どうして、人形の事を秘密に?」


「ああ、それはね。おおやけにしてしまえば、採掘を止めようと言う声が出てきてしまうからだよ。

 事故ならばどれだけ起こっても、人々は非難したり、改善を求めるだけだ。せいぜい、運が無かったのだとか、高給に惹かれて自分で選んだ仕事だとか、そういう無数の意見に分かれてやがて沈静化する。

 けれど、起動可能な人形が現存げんぞんしていて、それが人をおそっていると知ったら話はきっと変わってくる。

 人々は危険な殺人人形さつじんにんぎょうの存在を知りながら、そこに人を送り込んでいた事に強い嫌悪感を抱くだろうし、何より崩落や化学物質などと違い、坑道の外にまでその被害が及ぶ可能性に危機感をつのらせるだろう。

 人はそれがどれだけの犠牲者を生んでいても自らに被害が及びそうにない限り無関心でいられるが、いざ自分にそれが降りかかってくる可能性を突きつけられるとそうはいかなくなる。

 だから、人形の事を知った人々は当然、採掘を止めるように声を上げるだろう。採掘を止めれば、人形は起動しないのではないかと考えてね。

 人形災害にんぎょうさいがいが増加傾向にある事も知れば、よりその声は強くなり、とにかく一度そうしてみるべきだとなるはずだ。そしてそれはあながち間違っているとも言えない。全てを知る研究者の中にも、採掘が停止中の人形都市にんぎょうとしを刺激した結果として、人形の起動が起きているのだと考える者もいて、それを否定するだけの根拠こんきょは存在しないからね」


 人形坑にんぎょうこうから行われている採掘は、停止と同時に全て下りてしまった人形都市にんぎょうとし隔壁かくへきを一つずつ手動で開ける事で、より都市の深くへと向かっている。その行為が人形都市を刺激しているのなら……


「それじゃあ」


 間違った事をしているのではないかと困惑こんわくした僕の背後で、博士がかすかにわらったのが分かった。


「そう皇国は間違っているのかもしれないね。けれど皇国はその可能性を理解しつつも、採掘を続けているんだ」


「なんでそんな事を?」


「一つには別の説があるからさ、人形の起動とそれが増加傾向にあるのは、採掘にるものではなく人形都市にんぎょうとし自体が、時間の経過と共に活動を再開しようとしているからだという説がね。

 それが正しいのだとしたら採掘を止めても意味が無いどころか、増していく危険性を放置する事になる」


「なら、この国やあなたはその説を」


「いいや、私は別にどちらの説も支持していない。というより、どんな説もかな。皇国政府にしても同じだろう。何がより正解に近いか知りたければ、それこそ一度、採掘を止めてみたらいい」


 自分が属している国や、味方だと思っている人は善良なものであるはずだと言う意識を、ともすれば否定するような言葉を博士は淡々たんたんと口にした。


「だけどね。そういう訳にはいかないんだ。採掘が原因だったとしても、どのみち止める事は出来ないからね」


「それはどうしてですか?」


 博士の発言で生まれたかすかな心の距離感から、問いかけは、ぎこちない敬語のようなものになった。


「採掘によって得られるものがこの国にはどうしても必要だからさ。それによって犠牲者が出るのだとしても、採掘を止めてしまえば、この国は現在の国力を維持できない。

 採掘をめるという事は今の君や、大抵の人々が思うだろう少し不便になると言うような範囲を遥かに超え、国の存続すら危うくなるような事なんだ。軍事力やそれにともなう国防だけの話ではないよ?

 君の命をこれまで保ってきた医療もまたそうであるように、この国の先端技術の全ては採掘によって手に入る人形技術にんぎょうぎじゅつ由来ゆらいしている。

 生活基盤から、あらゆる産業まで、採掘に依存していないものは無いといってもいい。

 この国は大戦の復興時からずっと限られた犠牲と引き換えに国を発展させ、大多数の生活を守ってきたんだ。君はそれを間違っていると思うかな?」


 僕は返答にまった。それを正しいと思いつつ、そう口にする事はもちろん、首を横に振る事もできなかった。

 そんな僕の様子を見ているだろう博士は、けれどそれを気にする事も無く続けた。


「それにね。いずれにせよこの世界は正しい理想論なんかで動いてはいないんだ。例え、この国が採掘から手を引いたところで、この国に眠る人形技術にんぎょうぎじゅつの価値がなくなるわけじゃない。

 事実として人連じんれんの動きがそれをしめしている」


 人連じんれん、それは大戦の後、それ以前に存在した国際機関を引き継いで設立された人類連盟じんるいれんめい略称りゃくしょうだ。

 主な活動目的は世界平和と人形技術にんぎょうぎじゅつの平和的利用。世界のほとんどの国が加盟しているそれに皇国は加盟していない。人形遺構にんぎょういこうを自国で保有している中では唯一の国家だ。

 そして、そんな皇国に対し人連じんれんが示している動きと言えば……。


「それは、人連じんれん再三さいさんにわたる加盟要求の事ですか?」


「その通り。表立っては人形遺構にんぎょういこうならびにそこから技術を得ている国家全ての加盟が世界の安定に繋がると主張しているが、実際はこの国を加盟させ、人形条約にんぎょうじょうやく拘束下こうそくかに置きたいというだけの話だ。

 人連じんれんへの加盟は、そのまま人形条約にんぎょうじょうやくへの合意に繋がるからね。条約があれば、人連じんれん国際人形技術管理機関こくさいにんぎょうぎじゅつかんりきかん査察ささつや、人形遺構にんぎょういこう及び人形技術にんぎょうぎじゅつの公開と相互提供を強制できるようになる。

 だが、それは唯一ほぼ完全な状態で残ったとう人形都市にんぎょうとしようし、起動する人形さえ存在している最大の人形技術にんぎょうぎじゅつ保有国であるこの国にとっては不利益しかない。

 なにせ、人形都市にんぎょうとし埋没まいぼつしていると予想される人形技術遺産にんぎょうぎじゅついさんの量はこの国を除いた全国家の人形遺産にんぎょういさん。その合計を軽く上回るからね」


「でも、そのせいでこの国は国際社会から孤立しつつあって、危険な状態だって」


 聞きかじった知識で口をはさんだ僕に博士は気を悪くした様子もなく同意した。


「確かに表立おもてだってはそう見える。まぁその主張の大半はこの国を加盟させたい人連じんれんの政治工作に因るものなのだけど、何にせよ完全に孤立してしまわない為にこの国は人連において強い発言権を持つ大国と密約を結んでいるんだ」


「密約?」


「この国が得た人形技術にんぎょうぎじゅつの一部提供と引き換えに人連じんれんを抑えてもらう。そんな密約だよ。

 人形技術にんぎょうぎじゅつは軍事技術に転用できるから、秘匿されているこの国の人形技術にんぎょうぎじゅつがあれば、その国は他国より優位に立てるんだ。

 それを維持する為にもその国はむしろ、皇国に加盟などされては困る訳だ。世界中で技術が共有されてしまっては優位性が失われてしまうからね。

 結局のところ、どれだけ綺麗事を並べても、人連じんれんも一枚岩では無いって事さ、過去の国際機関にも存在した問題を同じように抱えている。

 世界が一つになった事はないし、これからもきっとない。人の文明がかつての水準を上回り、この国の技術が無価値になるか、こちらがその提供を止めない限りこの密約は続くだろう。

 それに、人連じんれんが加盟要求以上の事が出来ないのには、大国との密約だけではなく、もう一つ理由がある」


「それも、人形技術にんぎょうぎじゅつ?」


 推測すいそくから発した言葉に、博士は感心したように同意した。


「君はなかなかさっしが良いね。この国の軍事力は名目上限定的で核も保有していないが、人形技術によって劣らぬ抑止力を持ち得ている。

 得体のしれない超技術。それが実際はどれ程のものか分からなくても世界がそう信じている限りそれは効力を持つ。

 採掘で得られるものは皇国の繁栄を維持するものであり、異国に対する防波堤なんだよ。もしそれを手放せば、皇国は衰退すいたいする。

 人連じんれんを代表する異国の介入を招けば、最悪、皇国の意志は考慮されなくなる。もしそんな事に成ったら異国は皇国で何をすると思う?」


 その言葉に頭を働かせる。人連じんれんや異国が欲しいもの、皇国を支配下に置いた時にするだろう事。


「採掘、ですか?」


「そう。必ずそうなる。そしてその採掘は今とは違い皇国の意志では止められないものに変わる」


 最悪を想定すればきっとそう成るだろう。採掘で出るどれだけの犠牲を許容するか、その犠牲を誰が払い、誰がどれだけの利益を得るか、その決定権さえ皇国の手から離れる。

 

「だからいやおうでも皇国はこの道を行くしかないんだ。例え採掘が災厄さいやくを招くもので、後に本当に愚行と呼ばれるのものになってしまうのだとしても、突き進むしかない。

 そうしなければ、人的資源じんてきしげんではもはや斜陽しゃようへ向かいつつあるこの国を保ち、この国に住まう人々を守る事は出来なくなる。

 故にこの国は、現在起きている事態に対処し、なによりいつか起きるかもしれない災厄さいやくそなえなければならないんだ。見て見ぬふりをしている訳にも、理想にひたっている訳にもいかない。

 その為には人知れず戦う人間が要る。どうしても、ね」


 博士がそう言い切った後、唐突とうとつに車椅子が止まった。不思議に思って振り返った僕の眼を博士がじっと見た。


「さて、私は今、君に伝えるべき事を全て伝えたと思う。だから改めて聞くよ。君はその戦いに身を投じる事を望むのかな?

 これは義務なんかじゃなく、そうする必要はない。普通の身体と変わらない義躯ぎくを選んで、普通に生きていく事も出来る。君はそういう選択をしても良いんだよ」


 この街に来る前、冗談のように問われた意志。それを今もう一度問うた博士の声は、以前とは違って、酷く真剣なものだった。

 だからそれに一呼吸おいて僕は口を開いた。


「僕は、戦おうと思います。僕が生きる為にはきっと……それが必要なんです」


 全てを教えられて、戦いというものが意味するところも知って、それでも僕はそうすべきだと思っていた。それがきっと僕の望む人達とその幸せを守る事になり、そして何より、自分がこうしてまだ生きている理由であるような気がしたから……。


「そうか……わかった」


 車椅子が再び動き出し、突き当りの自動扉が開くと、室内には沢山の機器に囲まれたベッドがあった。


「じゃあ、麻酔が効いたら眠ってしまうけれど、目を覚ましたら君はヒーローだよ。君がそう望んだようにね」


 車椅子をベッドの側に寄せた博士は、僕の横に進み出ると、片目を瞑って見せながら口元をほころばせた。


◆◆◆


 門の開く音に目が覚めた。夢、いや過去を見ていた。睡眠時に脳と同調どうちょうし最適化を行う義眼が引きりだす記憶。最近頻度が増したそれは残った生体部のおとろえを意味している。もうそれほど時間は無いだろう。

 停止した車から降り、黒服に見届けられながら何重もの警備が施されている自動扉を抜ける。無機質な通路を進み、専用の昇降機に乗って上の階に移動すれば、電子音と共に開いた扉の先で雰囲気が一変した。

 あわく黄色みがかった壁に天井から注ぐ暖色だんしょくの光。置かれている観葉植物の鉢植え。慣れていない人間なら突然の変化に目眩めまいさえ覚えるだろう。

 内部がこんな異様いような作りになっているのは、紫依華しいかこだわりだった。俺を監視下に置いておきたい神祇院じんぎいんと、身体を維持するのに設備を必要とする俺と、人らしい生活を要求した紫依華しいかの妥協点が作り出した空間。勿論、紫依華しいかは自分だけならどんな生活も可能だった。ただ俺に付き合ってくれただけだ。

 玄関扉の横に掛けられた表札。それを見る人間は俺と紫依華しいかの二人しかいないのだが、それでも必要なのだと紫依華しいかは言った。

 今にして思えば、こうして表札を見るたびにどことなく心が安らぐのだからその言葉は正しかったのだろう。


「おかえりなさい」


 扉を開けると、いつものように紫依華しいかが出迎えてくれた。差し出された手に帯から抜いた刀を預けながら「ただいま」と返す。

 刀を大事そうに抱いた紫依華しいかは俺の爪先から頭の上まで確かめるように視線を動かしてから俺の目を覗き込んだ。

 目の下にあるクマがもともと愛嬌あいきょうではなくつめたさを感じさせる顔をよりけんのあるものにしている。知らない人が見れば、不機嫌なのだと思うだろう。


「それで?今日はどこを壊してきたの?」


 投げかけられたのは、毎回服を汚して遊びから帰ってくる子供を追及ついきゅうする母親みたいな声。


「まだ、壊したとは言ってない」


「じゃあ壊してないの?今まで壊さずに帰ってきた事は一度も無かったのに?」


 紫依華しいかあきれたような顔をした。そして残念だがその指摘は正しい。向けられた指が俺の左腕をしめす。


「まず左腕。それから足、わずかだけど左右のバランスが崩れてる。右足が原因かな」


 自己診断機能では正常と判定された違和感だけのものを紫依華しいかは見ただけで指摘してきした。


「すぐに直すから」


 紫依華しいかの目の下にいつもクマが有る理由は分かっている。


「大した事は無い。少し休んでからでも構わない」


 俺の言葉は紫依華しいかの機嫌を損ねたようで、その目が僅かに細められた。


「そうして、休んでいる間に人形が現れたら、久那戸くなとは誰かに任せて此処にいられるの?」


 そう言われてしまうと何も返せない。嘘をつく事はできず口をつくのは、はぐらかす為の言葉。


紫依華しいかの事が心配だ。あまり眠っていないようだから」


 それを聞いた紫依華しいか溜息ためいきをつくように笑った。


「それなら、できるだけ壊さないで帰ってくる事。止めはしないし、止められるとも思ってない。でも、それは私ができる事を全てしたうえでの話。

 もしもそうじゃなかったら私は絶対に後悔する。だから私はいつもできる限りの事をするの。それを忘れないで」


 その声は穏やかだった。打つ手を失い黙って頷くと紫依華しいかも満足したように頷いた。


「じゃあ、さっそく始めるから」


 みちびかれるまま居住空間の奥へ進み、つながっている研究施設の中。そこにある施術台せじゅつだいに身をあずける。


「すまない」


 紫依華しいかが守ろうとしてくれている日常は俺の所為で侵食しんしょくされていて、だからそんな資格などないと解っていながらも、そう小さく口にすると抱えていた刀を台に置いた紫依華しいかは振り返って微笑んだ。


「気にしないで」


 与えてもらったそれに返せるものは何もなく、無力さとかすかな胸の痛みを感じた。何も言えなくなった俺の目の前で、紫依華しいかは手際よく準備を進めている。

 その姿から視線を横に動かせば硝子窓の向こうに少しだけ色褪せた人形の背が見える。懐かしいヒーローの人形。それが例え微かな痛みを想起そうきさせるものだとしても世界をながめるだけの存在だった頃、画面に映し出されるヒーローは俺のあこがれで、その存在に支えられていた。

 どれだけの苦境に立たされても決してあきらめず、最後には悪を倒し人々を守るヒーロー。そんなふうになりたいと思っていた。

 実際はこの有様ありさまで、鴟梟しきょうが言ったようにそんな存在は物語の中にしか存在せず、世界の複雑さに気付いてしまった今になっても、その気持ちは変わっていなかった。

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