想起

 ──放課後。

 シオンは友人のナノハと帰路についていた。

 くりくりした大きな目と明るい茶髪が愛らしいナノハは、シオンのクラスメイトであり、良き理解者でもある。

「──ねえナノハ」

 いつも通りの、殺風景な住宅街を歩きながら、シオンは口を開いた。

「ん?」

「あのアザミって人、ちょっと変わってると思わない?」

 誰かに共感してほしかった。最初に見せたあの鋭さから急変した、朗らかで人懐こい笑顔と口調。絶対に何か裏がある。そういう特性を持った人間だ、とは片付けられない何かが。

「あー。まあ確かに、普通の先生っぽくはなかったよね。でもさあ──」

 やっぱりナノハも感じてたんだ……

 そう思ったが。

「あのせんせーめっちゃイケメンだったくない? 顔良いし背高いしスタイル良いし優しいし。あんな先生なかなかいないよぉっ。思わずじっと見つめちゃった」

「……」

 ──忘れていた。ナノハは、容姿端麗な色男には目がないのであった。

「あたしの熱ぅい視線が、あの方に届いてるといいんだけど」

 はあ〜、と、恋煩う乙女のようにため息をつき、ひとりうっとりするナノハ。

「やめときな。そんなこと言ってると、シャガ君に怒られるよ」

「あっ、やば。と、とりあえず今のは、ここだけの話ってことで……あははー」

「まったく……」

 ナノハとシャガは恋人同士なのだ。

 イケメン好きなナノハの恋人だけあって、シャガもなかなかの好男子である。が、目移りしやすいナノハに、シャガはなかなか手を焼いているようだった。

「だけど、珍しいね。シオンがそんなこと言うなんて。いつもあんまり他人に興味ないくせに。──あっ、もしかしてあまりにイケメンだったからつい情が湧いちゃった?」

「違います。一緒にしないで」

 即答。

 確かに、絵に描いたような美男ではあったが、情が湧いたのではない。

「──でも……あたしあの人と、どこかで会ったことがあるような気がするんだよね……」

「それ、一目惚れしたときに言うセリフ」

「だからそんなんじゃ──え……?」

 シオンたちは、通学路の途中にある小さな公園の前に差し掛かっていた。

 その公園に、一人の少女と、そして彼女に話しかける男がいた。七歳ほどの、シオンと同じ姫カットをした女の子と、全身に黒い服を纏った、背の高い男。

 遠目だった。

 だが、シオンにははっきりとわかった。

 あそこにいるのは、十年前にシオンを攫い、路地裏を爆破した、あのガイコツ男だと。

 ──どうして、ここに……?

 あの時の恐怖がフラッシュバックする。

 ──『お嬢ちゃん』『ついてきてくれるかな?』『良い子だと思ったのに』『お仕置が必要だね……』

 長い長い間、引き出しの奥底に封印していたはずだった。思い出すということを忘れていた。それが、十年という時を経た今、まるで昨日のことのように鮮やかに蘇る。

 足がすくむ。身体が震える。

 ──怖い。

「シオン? どうしたの?」

 目眩がする。思わずギュッと目を瞑る。

 瞼に浮かぶのは、ガイコツのように痩せていて、目がくぼんだ男の顔。

 ──やっぱり、まだ捕まってなかったんだ……

 十年前のあの事件があった日から今日まで、シオンのもとに犯人が捕まったという知らせは一度も来ていない。

 つまりあの男は今も健在で、十年前と同じことを繰り返すつもりなのだろう。

 目を開けると、男が少女の手を引いて公園を出るところだった。

 ──ダメ……っ。その男に、ついて行っちゃダメだよっ……

 あの少女の行きつく先は、おそらく廃ビルに挟まれた薄暗い路地裏だ。シオンが連れて行かれた所と同じ場所。そして、その後は……──

 なんとかして止めなければ。

 シオンは拳を握りしめ、自分を奮い立たせる。

 怯えるな。恐れるな。ここで見逃したら、あの子はきっと、助からない──!

「ねえ、シオン。大丈夫?」

「ナノハ、ごめん! 先帰ってて!」

 カバンを放って、シオンは駆け出した。

「ええっ!? シオン! ちょっと、どこ行くのぉ!?」

 叫ぶナノハを振り返る余裕は、シオンにはなかった。

 住宅街の奥──荒んだ建物が立ち並ぶ方へと歩く彼らを、走って追いかける。

 ──あたしは……何をするつもりなんだろう? 何かあたしに、できることでもあるの?

 走りながら、シオンは自問する。

 そうだ。彼らに追いついたところで、シオンができることなどほぼ無いに等しい。冷静に考えて、武器も知識も持っていないシオンが、あの男にかなうはずがないのだ。

 しかしそれでも、シオンは引き返そうとは思わなかった。

 少女を見捨て、自分は呑気に今まで通りの平和な日常を生きるよりも、自分を犠牲にして彼女を守ることの方が、よほど価値があると思った。

 たとえ、そうすることで普段の幸せな毎日が失われてしまったとしても、自分の身を守るために犯罪を見過ごした、卑怯な人間として生きることの方が、罪深いのではなかろうか。

 ──それにあたしだって、あの青年のおかげで、今もこうして生きているんだから……

 ──待って……青年……?

 不意に脳裏に浮かんだのは、シオンを窮地から救った美しい青年。

 止まっていた歯車が、動き出すような感じがした。

 閃光が走る。

 ――まさかっ……!

 その着想が現実である可能性は、極めて小さい。

 だが、あろうはずがないと思う一方で、その考えは徐々に真実味を帯びてくる。それしかないように思えてきてしまう。

 ――嘘……そんなことって……!

 あの射抜くような瞳。突き放すようで暖かい声。浮世離れした美しい容姿……

 男は少女を振り返ることなく、ただ彼女の手を引いて右へ左へと角を曲がり、奥へ進んでいく。少女はチラチラと男の顔を見上げ、不安そうにしていた。

 しばらくして、男が止まった。彼の目の前には、確かにあの時と同じビルが立っていた。

 数十メートルほど距離をおいたところの電柱から、シオンはその様子を覗く。

 ここで初めて、男は少女を振り返った。

「――」 

 何か話しかける。

 少女はやはり不安そうに、うん、とうなずいた。

 男は、その廃れた建物同士の間の路地に少女を引き連れ、姿を消した。

 ──まずい……あの時のあたしと、本当に全く同じだ……!

 電柱の陰で、今にもくずおれそうになる体にムチを打ち、シオンはその路地へ走った。

 建物の前まで来た時、シオンは、男を公園で見かけた時よりもさらに強烈なフラッシュバックに襲われた。

 耳が壊れそうなほどうるさい鼓動と、にじむ脂汗。鉛のように重く、言うことを聞かない身体。だが、それでも進まねばならない。ここに来て引き返すわけにはいかない。

 おそるおそる、暗い路地裏を覗いてみる。

 ──誰もいなかった。

 そこにはただ、薄暗闇がいつもこうだと言わんばかりに漂っているだけだった。

 二人はどこへ行ったのだろうか。あの姫カットの少女は、建物の中に入れられてしまったのだろうか。そして、もう既に……

 不吉な予感を振り切って、シオンはゆっくりとその路地へ足を踏み入れる。

 肌寒かった。不気味だった。

 この場所は、シオンのトラウマそのものだった。

 それなのに、なぜ今こうしてここに居るのか、シオンはだんだんとわからなくなってきた。それでも、戻ろうとは思わなかった。

 それは、先述したような矜恃があるからだけではない。シオンの頭に先程からついて離れないある着想の真偽を証明できる、またとない好機かもしれないと感じたのだ。それには、単なる好奇心も含まれていた。もしかしたら、という期待でもあった。

 ゴクリと唾を飲み、ギュッと拳を握って前へと進む。少女の無事を、祈るばかりだった。

 ──ガタンッ!

「……っ!?」

 音がした。

 建物の中からだ。何かが倒れるような、大きな音だった。

 ちょうど、シオンの右横には、勝手口らしき扉があった。音はそこから漏れたようだ。サビていてツタが絡みつき、長い間使われていないことがひと目でわかった。

 ──ガタンッ! ドタドタ……ガコンッ!

 音は立て続けに、その勝手口の裏側から聞こえる。まるで、何者か同士が取っ組み合いをしているようにも聞こえた。激しい足音もしているからだ。人の気配がある。

 何故かこの時、シオンは吸い寄せられるようにその取っ手に手をかけた。少女を助けなくてはという使命感がそうさせたと言うよりは、、という妙な確信から、体が動いていたのだ。

 ──ガチャリ。

 ドアノブは、なんの抵抗もなく回った。

 意を決した。ここを開けたら、この手をこちら側に引いたら、自分は襲われて死ぬかもしれない──それでも。

 シオンは勢いよく扉を開いた。

 ──ぐるん。

「……っ!?」

 一人の男が、例のガイコツ男を背負い投げしているところだった。

 地面に叩きつけられ、「ぐあっ」という呻き声をあげる。

 シオンはしばらくその場に立ち尽くし、呆然とそれを眺めていた。が、やがてハッと我に返り、少女の姿を探した。

 その空間は、床も壁も全てコンクリートでできており、地下駐車場のように灰色で薄暗く、そして広かった。窓から差し込むわずかな光が、壁際に散乱している古ぼけたソファや脚の欠けた机などの存在を浮かび上がらせる。

 そしてその陰に隠れるように、少女がうずくまって震えていた。

 シオンは彼女を見つけるとすぐさま駆け寄った。

「大丈夫っ?」

 少女がゆっくりと顔をあげる。

 黒目がちで大きな目が可愛らしい少女だった。

「おねえちゃん、だれ……?」

 彼女はまだ怯えつつも、不思議そうに首をかしげた。

「あたしは──」

「──君は……」

 少女に答えようとした時、聞き覚えのある声がした。

 ハッとそちらに顔を向ける。

 ──それは、幾度こじ開けようとしてもびくともしなかった扉が、急に軽くなり開いたときのような感覚に似ていた。

 心底驚いたような顔で、こちらを見ていたのは──

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