第二章
既視
授業の開始を告げるチャイムが鳴った。
至福のひとときだった昼休みが終わる。
これから始まるのは午後の授業──今日は、物理だ。
──眠いなあ……
シオンは頬杖をつきながらぼんやりとしていた。
物理はシオンの得意教科だが、昼飯を食べたあとという状況が、シオンを眠くさせる。それに、大して授業も面白くないのだ。
ガラガラ──教室の扉が開く。
今日もいつもと同じように、初老の白衣男が入ってくるのだろう。眼鏡をかけた、温厚そうな中肉中背の物理教師が、今日もきっと──
しかし、教室がざわついたのを感じたシオンは顔を上げ、一瞬目を疑った。
教室に入ってきたのは、いつもの初老の男でも、担任教師のラナンという若い女でもなかった。濃紺のブラウスに黒いズボンを履いた、背の高い男性だった。
「誰?」「知ってる?」「知らない、初めて見た」──
男性は教壇に立ち、こちら側を向いた。容姿が明らかになる。
シオンは、彼から目が離せなくなる。
彼はとても、美しかった。
涼やかで、切れ長の目。そしてそれにかかる艶やかな黒髪。筋の通った高い鼻。形の良い薄めの唇。透き通るように白い肌……
──知っている。あたしはこの美しさを知っている。顔立ちや身なりから纏う空気まで、全てが洗練された隙のない美しさを。柔らかいベールの中からナイフを向けるような、危うい鋭さを。内側に隠されたものを見透かすような、真実を見極めるような、こちらを射抜いてくるような、そんな瞳を。これと酷似した感覚に、シオンは前にも陥った記憶があるのだ。綺麗なのに、内に秘めるものは鋭くて冷たい。そんな目に、シオンは一度出会ったことがある。いつ、どこでだったか。
──この人は、一体誰……?
男性は、フッと表情を緩めた。途端に、彼から発せられる鋭さが消えた。人が変わったかのようだ。優美な微笑みだった。
「──はじめまして」
低くて温かくて、よく通る声。
耳元で囁くような、それでいて腹に響くような、独特な声。
──ドクン。
心臓を掴まれたような衝撃。
──あたし、この声知ってる……!
どこで、どこで聞いた……? 思い出せ、思い出せ──
手が届きそうで届かない、もどかしさ。自分自身を急き立て、それに追われる焦燥。
一方で、今まで感じたことのないこの激しい既視感に、驚き戸惑う気持ち。
いろいろな感覚が入り交じり、シオンは目眩がしてきた。
「──今日からこのクラスの物理を担当する、アザミです。これからよろしくお願いします」
そう言って目を伏せ、頭を少し下げた。そのありきたりな動きさえ、彼がすれば優雅に映る。
アザミ──しかしその名には、不思議と聞き覚えがなかった。これだけ、彼の容姿や声にデジャヴュを感じているのに、名前だけは馴染みがない。
なぜだろうか……。
記憶の引き出しを漁る。これまでどんな人と出会ってきたか、何もかもを思い出す。
小さい頃良くしてくれた近所のおばあちゃん。よく公園で遊んだ幼なじみ。いつも行くスーパーの店員。小学生だったシオンたちを見守ってくれた巡査……
──が、アザミという名も、彼と会ったという事実も見当たらなかった。少なくとも、簡単に開く引き出しの中には入っていないらしい。
──どういうこと……?
出会ったのは、ここ数年ではなく、もっと昔ということか。
「──じゃあ、オトギリ博士はどどこ行ったんすか」
シャガという男子が手を挙げながらアザミに尋ねた。
シオンはふと現実に引き戻される。
シャガは、クラスの中でも陽気で目立つ存在だった。その物怖じしない性格から、こうして初対面のアザミに対しても距離が近めな口調だ。
そしてシャガの言う、オトギリ博士というのは、昨日までシオンたちを担当していた物理教師である。初老でいつも白衣を着ていることから、まるで博士のようだということで、オトギリ博士と呼ばれている。
「オトギリ先生は、一身上の都合により、急遽退職されることになったそうです。まあ僕も、赴任したばかりなので詳しいことはわからないんですけど」
アザミは頬をポリポリと掻きながら苦笑した。
そのどこかあどけない仕草が、第一印象からはあまりにもかけ離れていて、シオンは目が点になる。
この男、意外と幼いのでは。
「それじゃあ早速授業に──」
「えっ、自己紹介しないんですかぁ?」
今度はネリアという快活な女子が尋ねる。
ショートカットにつり気味の目、気の強そうな高い鼻。ビジュアルと、サバサバした性格で、男女共に好感度が高い。
「自己紹介……ですか?」
アザミは、不意を突かれたような顔をした。
「そう、先生の」
「……では、皆さんは僕に関して知りたいことがあるのですか?」
──え、なぜそうなる?
シオンはポカンとした。シオンの席は最後列なので、皆の表情はわからないが、きっとネリアも目が点になっていることだろう。
まさかそんな返し方をするとは。
この教師……なんだか、変わっている。
「……──じゃあ、先生いくつ?」
三拍くらい遅れて、ネリアが訊く。
「三十二です」
愛想は良いが端的な応答。
「へ、へえー。二十代かと思った」
「はは、よく言われます。童顔てやつなんですかね」
屈託のない爽やかな笑みでしれっと答えるアザミに、教室の雰囲気が緩む。
この先生は天然でちょっと変わっている奴だというレッテルが貼られ始めているのがわかる。
「じゃあもう結婚とかしてんスか?」
今度の質問はシャガからのものだ。
「してませんよ」
「てことは独身……。え、カノジョもナシ?」
「そうです」
あっけらかんと言う。色事にあまり興味がないようだ。……まあ、秘密主義で嘘をついているだけかもしれないが。
「ふーん」
シャガを含め、男子たちはつまらなそうにした。
反対に、女子たちからは「えっ、マジで?」「イケメンなのにー」「もったいなーい」「じゃああたしが代わりに〜」などと声があがった。
──この人は、もしかしたら今までもこれからも、ずっと独りなのではないか。
なんとなく、シオンはそう感じた。
先ほど、妻も恋人もいないと言ったことに納得できる自分がいるのだ。
教室に入ってきた時の、あの周りを見探るような鋭い目つきや張りつめた雰囲気は、きっと誰かと人生を共にしてきた者からは決して出ないものだろう。
普通の家庭に育ち、こうして今も十七歳らしく平和に日々を送っているシオンには理解できないはずのことなのだが、妙に感じるものがあった。
その後も、生徒たちからの質問攻めが続いていた。
「どこ出身なのー?」「ザクロ市です」「好きな色は?」「黒に近い灰色かな」「趣味は何ですか?」「うーん、ドライブとかですね」……──
アザミは生徒たちの勢いに圧されることなく、にこやかに応じている。
純粋にすごいなと、シオンは思った。生徒たちからのぶしつけな質問に、嫌な顔ひとつしない教師は珍しい。よほど心の器が広いのだろうか。
同時に、シオンは、自分もアザミと仲良くしておいたほうが良いのかな、と思い始めていた。
多少話せる仲になれば、この強烈な既視感の正体がつかめるかもしれない。
──チャンスがあれば、少し話しかけてみようかな……いやでも、何て言えばいいんだろう?
あなたを見た瞬間ものすごいデジャヴュを感じました、どこかで会ったことがある気がするんですけど、あたしのこと覚えてないですか。
──いや、それはさすがに気色悪いか……
話したこともない初対面のはずの生徒から、いきなり会ったことがあると言われても、あちらが戸惑うだけだ。
もう少しさりげなく、それとなく……
しかしシオンは、巧みな話術など持っていない。
──まあ、授業でわからないところがあったら質問に行く程度の距離感が一番か……
気がつくと、アザミの自己紹介はひと段落ついていた。授業が始まろうとしている。
──いつの間に……
シオンは現実に戻り、とりあえずこの奇妙な教師の授業に集中することにした。
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