忘却

 その後は青年の言ったとおり、警察があたしを保護し、家まで送り届けてくれた。

 家に帰ると父や母は涙ながらにあたしに飛びついてきた。かなり心配していたらしい。……無理もない。



 しばらくして、警察からの事情聴取があった。

 訊かれた内容は、男の背格好や声の特徴、口にしていたことなど、主にあの男に関する詳細情報だった。

 最近、少女が誘拐される事件が相次いでいるらしい。

 ──そういえば、あの青年もそんなことを言っていたような……

 しかし、あたしはあの青年のことについては誰にも口外しなかった。警察に何を聞かれても、青年のことは決して口に出さず、返答に困ったら、覚えていない、で押し通した。

 別に青年から口止めされていたわけではない。ただ何故か、彼の存在はあまり人に知られてはいけない──そう思ったのだ。明確な根拠もなにもない。もしかしたら、そんな謎だらけの青年をあたしだけの胸に閉じ込めておきたいだけだったのかもしれないが。

 幸い、覚えていないと言うあたしを警察は、爆発の恐怖や衝撃で軽い記憶喪失になったのだろうと解釈してくれた。



 事件が起きてからも、日常は当たり前のようにあたしたちを取り巻き、時間は慌ただしく過ぎていく。

 時間が経つにつれ、あたしの記憶は徐々に薄れていった。少女が連れ去られるという話も聞かない。

 思い出すきっかけがなくなったのだ。

 しかし、あたしを助けたあの青年だけは、どうしても風化させることができなかった。

 一緒にいた時間はわずかで、交わした言葉も少ない。

 それでも、彼はあたしにとって鮮烈だった。ただ単に、容姿が美しかっただけではない。うまく言い表せない、あたしの心を強く惹きつける何かを、彼は持っていた。

 何度か彼の夢を見たこともあった。ある時は彼とはしゃいで遊び、ある時は彼に厳しく叱られ、またある時は彼に守られる夢だ。

 だが夢の中の青年は、いつも決まってその顔に靄がかかっている。声や仕草は鮮明なのに、どうしてもその顔だけが思い出せない。もどかしかった。痒いところに手が届かないような、そんな気分だった。



 さらに年月が経った。やがてあたしは、事件だけでなくあの青年すら思い出すことをしなくなった。忘れたわけではない。ただ、記憶の引き出しに仕舞い込み、滅多にそれを開かなくなったのだ。何をどうしたって、青年の顔は思い出せないし、正体はわからない。

 だが、それでいい。それでいいのだ。

 過去のことにいつまでも囚われていては、前に進めないのだから。

 顔すら思い出せないような青年の記憶を、いつまでも大切に持っていたって、何にもならないのだから。

 もう二度と、会うことなどないのだろうから──



 

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