邂逅

「助けてっ! 誰か、こっちに来てよぅ」

「──彼女から離れろ」

 声がした。低くて、よく通る声だった。

 声がした方へ目を向けた。すると路地の入口付近に青年が立っていた。

 半泣きだったあたしは、涙でかすんでぼんやりとしか見えない。それでも、彼が青年ということはわかった。

 彼は白いブラウスに黒いズボンといういたって普通の出で立ちだった。が、纏う空気と放つ声は、中年男の比べものにならないくらい、研ぎ澄まされていて鋭かった。

 青年がこちらに向かって歩いてくる。

「君は誰だ」

 男は尋ねる。その口調には、敵意が込められていた。「僕の邪魔をしないでいただきたい」

 男の意識が青年に向き、あたしを押し込もうとする力が弱くなったのを感じた。

 今だ、と思った。

 思いっきり窓枠を蹴り、身をよじって男の腕から逃れた。それなりの高さから地面に落ちたので足裏が痺れたが、そんなことは今は構わない。

 とにかくこの男から離れなければ。

 あたしは路地裏の入り口──青年がいる方へ向かって走り出した。

 が、そううまくはいかず。

 足がもつれ、バランスを崩し、ベシャリと地面に倒れ込む。激しい転倒。

 その隙に男はあたしに追いついたようだ。うつ伏せになったままのあたしに跨って、首に冷たい何かを当ててきた。

「こらこら。あまり下手に動かない方がいいよ。そうじゃないと、余計痛い目に遭う」

 どうやらあたしの首には、ナイフが突きつけられているらしい。恐怖のあまり声も出ない。

 もう、ダメだ……

 上に跨がれては、あたしの逃げ道などほぼ無いに等しい。

 諦めかけた、その時。

 不意に、あたしの上に覆い被さる男の気配が消えた。同時に、「ぐあっ」という男のうめき声。首元のナイフの感触もなくなっている。

 え……?

 何が起こったのかわからず、あたしはゆっくりと体を起こした。後ろを振り返る。

 青年が、男の胸ぐらをつかみ、壁に押し付けているところだった。刃のごとく、その瞳で男を射抜いている。

「最近少女が誘拐される事件が相次いでいるらしいが、それは全てお前の仕業か」

 囁くようだが、トゲのある恐ろしい声だった。

「はっ……何の、話だ……」

 青年に殴られたせいか、腹のあたりを押さえ、息を荒くしながらも男は答える。その顔には、何故か余裕の笑みが浮かんでいた。

「とぼけるな」

「とぼけてなど──」

「答えろ」

「ふっ……甘いな」

 男は青年を嘲笑し、ポケットから何かを取り出した。栓のようなものを抜き、そしてそれを上へと投げる。

 青年の顔に焦りが現れた。

「手榴弾──!」

 青年は男から離れ、あたしに向かって走ってきた。

 それが爆ぜる寸前、青年はあたしに覆いかぶさり、そのままあたしを抱えて転がった。

 その直後、爆音と熱風。そしてあたしをきつく抱く、青年の身体。

 あたしはパニック状態になり、悲鳴をあげた。

 ここはどこなのか。あの男は誰なのか。どうしてこんな爆発に巻き込まれなければならないのか。

 怖い。もしかしたらもう死んでいるのではと疑ってしまう。

 何が起こっているのか、あたしにはさっぱりわからない。

 だけど、あの男は悪い奴でこの青年はあたしの救世主。それだけはわかった。

 しばらくして青年が離れ、あたしを助け起こした。無事を確認するように、あたしと目を合わせてくる。

「大丈夫か」

 この時、初めてこの青年と面と向かった。

 あたしは、美しい、と思った。

 あたしを庇ったせいで、彼の顔や体にはところどころ血が滲み、黒いすすがついていた。それなのに、美しい、と思えてしまった。どこがどのように、ではなく、ただひたすらに美しい、と。綺麗で、整った顔立ちだった。まだ七歳だったあたしが、彼に見惚れた。

「どこか、痛いところは?」

 先ほど、男と対面したときとはうってかわった、とても温かい声だった。低く、それでいて優しくあたしを包み込むような、独特な声。

 ──我に返る。そうだ、あたしは連れ去られて、爆発に巻き込まれたんだ。だけど、それをこの人が助けてくれて……──

 あの男はいつの間にか姿を消していた。どこへ消えたんだろうか。おそらく死んではいないだろう。またあたしの前に現れるかもしれない。だが今は、あたしを守ってくれた頼もしい青年が、ここにいる。

 急に安堵が押し寄せてきた。

 あたし、生きてる……!

「──うん、だいっ……──」

 ──大丈夫、痛くない。

 そう言おうとしたのに、涙を止められなかった。

 あたしの精神は、もう限界だった。ギリギリで保っていたものが、完全に崩壊した。堰を切ったように、とめどなく涙は溢れてくる。

 怖かった、怖かったっ……

 青年の胸に抱きつき、しゃくりをあげながら泣いた。

「よく、頑張ったな」

 彼はあたしの頭を撫でてくれた。

 しばらくして、パトカーのサイレンが聞こえてきた。警察がここに駆けつけてきたのだ。人街で爆発があったとなれば、確かに大騒ぎになっているだろう。

 泣き止んだあたしは青年に向き直り、ずっと言うべきだったことを伝える。

「助けてくれて、ありがと……」

 青年は、やはり優美な微笑みを、その顔にたたえた。あたしの言いたいこと全部を受け止めるような、そんな笑み。

「じゃあ、俺は行くよ。すぐ警察が来て、君を保護してくれるだろう」

 青年は立ち上がり、あたしに背を向けた。

「待って」

 その背中に向かって言う。「あなたは、誰? どうしてもう行っちゃうの?」

 青年はあたしと視線を合わせるようにしゃがみ、人差し指を口にあてながら囁くように言った。

「俺が誰なのか、それは、もう一度君に会うことがあったら、その時に言うとしよう」

 青年は今度こそ立ち上がり、あたしに背を向けて立ち去った。

 あたしは、その背中をただ呆然と見送ることしかできなかった。



 

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