教師と生徒と探偵と

霜月りんご🍎

第一章

発端

 あたしはその時、友達を待っていた。

 夕方と呼ぶにはまだ少し早い時間に、公園で。

 今朝、帰宅後すぐにここに集合して遊ぼうという約束を友達と交わしたのだ。

 帰宅後すぐに。でも、少し早すぎたかもしれない。友達はまだ来ない。

 暇だなあ……

 こういう時、どうやって時間を潰せばいいんだろう。

 小学一年生のあたしには、わからない。

 とりあえず、ブランコに座って待っていよかな、と思っていたその時。

「ねえ、お嬢ちゃん」

 後ろから声をかけられた。驚いて振り向く。

 そこには、一人の男性が立っていた。三十代前後だろうか。ガイコツのように細身で背が高く、肩まである黒髪とやたらぎらついた目が印象的だった。茶色いウインドブレーカーのファスナーを首まで閉め、下はタイトな黒いズボンをはいていた。

 腰をかがめ、あたしと目を合わせてくる。

 なんだろう。

 男性は穏やかに言う。

「突然ごめんね。僕、今困ってて、助けて欲しいんだ」

 ──あたしに、このおじさんが助けを求めてる?

「ついてきてくれるかな?」

 よくわからない。まだ七歳のあたしに、できることなどあるのだろうか。

 しかし、困っている人がいるなら助けなさいと学校で習った。

 ここであたしがこの人の手助けをしたら、あたしは救世主になれるかもしれない。

 それは少し夢のあることに思えた。

「うん、いいよ」

 単なる好奇心と、困っているなら救わねばという使命感、そして「救世主」へのわずかな憧れ。断る理由もなく、あたしは頷いていた。男がほくそ笑んだことに、気づきもしないで。

「ありがとう。──こっちだよ」

 男はあたしの手を取った。その手は異様に冷たかった。

 男はあたしの家と反対方向に歩き出した。

 住宅街の奥の方へ進んでいく。

 そのまま歩くこと約五分。

 家からかなり離れてしまった。建物は廃れたものが多くなり、なんとなく淀んだ雰囲気に包まれている。

 男はあたしの手を引きながら、一言も喋らず歩いている。

 だんだんあたしは不安になってきた。

 この男の人、どこまで行くんだろう……? 何に困っているの?

 引き返して逃げようかと思ったが、しっかりと手を握られており、それは難しかった。

 男は急に立ち止まった。

 四階建てほどの高さの、蔦の這った廃ビルの前だった。

 同じように廃れた建物が、左右にも並んでいる。

 男は再び歩き始めた。進んだ先は、廃ビルの入口ではなく、その横の、建物同士の間にできた狭い隙間。路地裏だった。

 途端に光が遮られ、視界は暗くなる。そこはしんと静まり返り、空気が冷たかった。そこだけ、時間に取り残されているような、時間そのものが止まっているような、気味の悪い空間だった。

 ──やだ、怖い……。ここどこ……?


 路地の入口からかなり進んだところで、男が止まった。あたしを振り返る。その目が爛々と光っていて、あたしは足が竦んだ。

 ──怖い。帰りたい。この人は、一体何者なの……?

「着いたよ」

 先程と変わらぬ口調で言う。それが余計に恐ろしかった。「君には、ここから中に入ってもらいたいんだ」

 男の視線の先には窓があった。

 コンクリート製の、ツタの生えた廃墟を思わせる壁。そこに埋め込まれるようにして、男の胸のあたりに引き戸式のガラス窓が。すりガラスなので中の様子はわからない。ただ、暗いことは確かだった。

 この中に入ったら、きっと何か『悪いこと』をされるに違いない。頭の中で、警鐘が鳴っている。

 ──早く、早く引き返せ。今すぐにここから逃げろ……

 わかっている。聞こえている。この男の言う通りに動けば、きっとあたしの明日はない。すごく『悪いこと』が今から起きる。だから、逃げないと──

 だけど体は、縄できつく縛られているかのように動かない。

 心臓がうるさい。耳鳴りがする。息が詰まる。

「──っ!」

 不意に男があたしを持ち上げてきた。異常に冷えたその手で。

 その途端、あたしの体は解き放たれた。

 身をよじり、あたしを抱える男の腕から逃れようとする。そして叫んだ。

「いやっ! 離してっ!」

 すると、男の雰囲気が、先程の穏やかなものから一変した。

「どうした、僕を助けてくれるんじゃなかったのかい」

 子供をあやすような口調だが、その声からは温度というものが感じられず、暗闇に浮かぶ双眸は、獲物を狙うネコ科の動物を思わせた。

「いやだっ、帰る! 誰かぁっ、助けて!」

 あたしは叫び続ける。こんな路地裏で、あたしの声が誰かに届くとは思えないけれど。

「──まったく、君は僕をシアワセにしてくれる良い子だと思ったのに。お仕置きが必要だね」

 お仕置き? あたしに何するの?

 男は例の窓を開け、無理矢理あたしを入れようとしてきた。

 あたしは窓の縁を掴み、枠に足をかけ、必死で反抗する。

 その建物の中にはただ灰色の暗がりがあったように思うが、よく覚えていない。顔を背け、見ないようにしていた。

「助けてっ! 誰か、こっちに来てよぅ」

 嫌だ。怖い。怖い。嫌だ。嫌だ。嫌だ。誰か──!

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