第2話

「ん?」


 靴を出した途端、何かが一緒に転がり落ちた。

 床に落ちた一瞬、キン……と綺麗な金属音が聴こえた。警備員が消灯した後だったので、ガラス扉越しに差し込む外灯の光だけだ。生徒の悪戯かと思いながら、床に落ちたそれを恐る恐る拾い上げる。


 それは小さな箱だった。綺麗にラッピングされ、リボンまでついている。今日はクリスマスイブだからかと思いつつ、誰からの贈り物なのかはすぐに検討がついた。


 三年一組の水橋佐知。選択授業で音楽を選んでいないから、授業ではまったく関わり合いのない生徒だ。

 入学した当初から何かと付きまとい、最初に迎えた夏休みの前日に「先生が好きです」と告白をしてきたのを皮切りに、以来終業式の日に必ず告白をしてくるという強者だ。


 毎回断られているにもかかわらず、今日も律儀に告白をしてきた。自分が学生の頃は、好きな相手に断られるのが怖くて、告白なんてとてもじゃないができなかった。

 単純に彼女が打たれ強いのか、軽い気持ちだから傷つきもせず言えてしまうのか。最近の女子高生は全く謎に包まれている。


 そんな厄介な生徒からのプレゼントなどを受け取っていいものかと一瞬躊躇するが、放り出すわけにもいかないし、このまま靴箱に居れたままで、他の教員たちの目に付くのも厄介だ。

 自らに言い訳をしつつ、肩に下げたバッグの中にそれを押し込んだ。

 




「手嶋くん、久しぶりだね」


 以前よりも白髪が増えたが、この人の場合はロマンスグレーという言葉で済んでしまうのだろう。うちの校長と変わらない年齢のはずだが、人によって歳の重ね方がこうも違うのかと改めて思う。


「お久しぶりです」


 職場から直行したのは、小さなフレンチレストランだ。都心部からは離れているが人気の店だ。ここはかつてのアルバイト先で、辞めた今でもここのオーナーとはたまに飲みに行く程度は親しい間柄である。


 まだ開店前だが、すっかり準備は整っていた。クリスマスらしいディスプレイは、レジのところにある小さなクリスマスツリーくらいだ。落ち着いた照明の下で、小さなグランドピアノが静かな光を放っているかのように見えた。


「急なのに引き受けてくれて助かったよ。せっかくのイブの日に悪かったね」

「いえ、特に予定もないので」

「あれ? 彼女いたよね、確か……」


 一度だけ、奮発して彼女を伴ってこのレストランに来たことがあった。もちろんバイト割があるからというのもあるが、単純に見栄を張っていたのだ。


「卒業前に別れましたよ」


 大学院に進んで、そのままピアノの道を進みたかったが、我が家の財政事情がそれを許してはくれなかった。コンクールで入賞でもするれば奨学金付きで留学も叶っただろうが、生憎そこまでの才能は自分にはなかった。


 公立高校の教職に付いたと報告すると、彼女に「失望した」という一言を残したまま、音信不通になってしまった。将来のない自分に見切りをつけたのか、見栄ばかり張っていて化けの皮が剥がれた自分に言葉通り失望したのか。それは彼女にしかわからない。


「そうだったんだ。それは残念だね」


 さして残念そうでもない店長の口調に、思わず笑ってしまった。


 自分のような若造が気軽に利用しにくい金額設定のせいか、この店の客層の平均年齢は少々高めだ。一応ドレスコードを設定しているから、臨時ピアニストである自分もスーツ姿である。職場ではすっかりくだけた格好に馴染んでしまったせいか、久しぶりにきちんと着込んだスーツ姿が似合わない。髪も整え、まばらに生えた無精髭も剃ったところで、まあ一応似合わないこともない気がしてきた。


 支度を終え、持参した楽譜を出そうとした時、小さなプレゼントをバッグに押し込んでいたことを思い出した。

 ラッピングが甘かったのか、包装紙が緩みかけている。無意識のうちにリボンを解いていた。


 小さなオルゴールだった。学生らしい安価なもので、内心ほっとする。

 クリアケースの中には剥きだしのオルゴールの本体が見える。ケースの上に曲名が書かれている。恐らくクリスマス向けのラインナップのひとつだったのだろう。彼女が選んだのは、古い映画の曲だった。女子高生にしては渋いセレクトだと苦笑する。


 確か学生の頃、クリスマスの時期にここで弾いた曲のひとつであった。今日の選曲リストにも載っている曲だ。これではクリスマスを迎えるたびに、思い出さざるを得ない。


 ぐいぐいと心の中に押し入ってくる水橋という存在が怖かった。懐く生徒がいれば可愛いと思うし、好きだと言われたら悪い気はしない。

 もちろん生徒とそのような関係になるつもりもないから受け入れはしないが、何度も何度も好きだと言われたら否が応でも気になってしまう。


 もし……彼女が卒業式の日に、また告白をしてきたら?


 以前までは当然相手になどするわけがないと思っていた。しかしここ最近、鉄の意志が揺らいでいることに、認めたくはないが気付き始めていた。


 だったら、彼女の告白を受け入れ、付き合うのかと言われたら……否だ。

 自分はそうまで「好きだ」と言われるような人間ではないのだから。


 彼女らの世界は狭い。家庭と学校という小さな世界の中に存在する、教師という大人たちに一種憧れのような感情を抱いているに過ぎない。もっと広い世界に出れば、その感情は瞬く間に冷めてしまうだろう。


 卒業し、もっと多くの大人たちと接した彼女は気付いてしまうだろう。自分がごく平凡で、つまらない人間だと。好きだ好きだと言われ続けて、簡単に惚れてしまうような単純な男なのだと。


 俺は……それを知られてしまうのがひどく怖いのだろう。


 真っ直ぐな感情を向けられるのは、まだ怖さを知らないからだろう。その眼差しが曇るのを目の当たりにする勇気が自分にはない。

 突如、控室のドアがノックされる。


「おーい。そろそろスタンバイ頼むよ」


 ドア越しに聞こえたオーナーの声によって我に返る。


「はい、今行きます」


 控室を出る前、小さなオルゴールをそっとポケットに忍ばせた。

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