第30話 川越の「ナイフ」

 水筒をカバンに仕舞い、俺は部室を出る。二人が部室から出てきたのを見た一年生たちは、何事か、と分かりやすく頭上にハテナマークを浮かべている。

 もう、教えてやろうか。本当のことを。本物の飛騨を。

 俺はそう思った。いまここで飛騨のあのナイフを持って来て、それが飛騨の所有物なのだと説明すれば、一年生たちはどうなるだろう。すぐには信じないのだろうが、でもやがて、言われてみれば、と飛騨の演技に気付き始めて、まさか、となるのではないか。まさかこの平常の飛騨先輩が、本当はただの演技だったのかと。

 見せてやろうか。出してやろうか。晒してやろうか。

……。

 でもなぜだろう。いざそれを本当に実行できるときになってみて、そのチャンスと覚悟が均衡したときになってみて、俺の意志はそれに、あまり乗り気でないのだ。

急に、自分のやろうとしていることの卑劣さを思い知ってしまって。

 飛騨の隠したがっている「ナイフ」を、俺は晒そうとしている。誰にも見せたくないものを、俺は力ずくで奪って、人前に晒してやろうと考えている。

 ずるいな。と思った。

 飛騨、お前はずるいよ。やっぱり。

 俺にはできない。そんな真似。人の「ナイフ」を晒してしまう「ナイフ」を、俺は持っていない。俺は「ナイフ」を持たない。静かに、弱々しく生きていくだけの平和主義者。寡黙に、あまり人と喋らない、静かな平和主義者なんだ。

「はい。次ぃがラストだったか?」

 飛騨がそう言って一年生たちは、そうっすよ? と言わんばかりに頷く。演技を続ける飛騨に、俺は、

「ああ」

 と頷く。

 俺も、演技をしているのかもしれない。

 頷きながら、そう思った。俺も、心の中で掃き溜めてきた罵詈雑言を出さないで、飛騨と友達のように接している。心の中にあるものを吐き出さないで、友達のように演技をしている。よく考えれば、俺も同じだった。

 俺もそれなりの「ナイフ」を持って生きている。それを口に出さないだけであって。

 口に出してしまえばたぶん、すぐに人は離れていく。俺はそういう「ナイフ」を持っている。俺は無口だから、そんな「ナイフ」がまだバレないで済んでいる。箍が外れれば、俺の「ナイフ」はバレる。いまここで飛騨の「ナイフ」を晒したいと思う醜い「ナイフ」を、俺は隠しながらいまも生きている。俺は変だ。ずっと。それが俺の「ナイフ」だ。「ナイフ」を持っていないなんてことはない。「ナイフ」を隠しているだけなのだ。

 たぶん、俺だけじゃない。

 そう気づいて、俺はいまから相手をする基山の目をじっ、と眺める。

 皆、「ナイフ」を持って生きている。この可愛い一年生たちも、「ナイフ」を持って生きている。

「うるせえな飛騨」

 と思っているかもしれない。

「偉そうに。川越」

 と思っているかもしれない。でもダメなのだ。そんな「ナイフ」が人に見られては。バレた瞬間に全てを失うのだから。威厳も迫力も、信頼も友情も、何もかも全て。

「ナイフ」を懐に隠したままの上っ面の笑みで笑い合い、すぐに「ナイフ」を取り出せる空っぽの手で俺たちは手を取り合って、この人間関係を築いている。

 ピッ——「始め」

 飛騨のいつも通りの号令でお互いに礼をする。そして、構える。基山が、俺に攻撃を始める。

 俺はサンドバッグになる。いったい何を考えているのだろうか。基山は。

 余裕ある体裁で、俺は余計なことを考え出す。

 そうやって俺の身体に拳を入れるとき。お前は何を考えている。何を考えながら俺を殴っている。

 それがお前の「ナイフ」。お前は一体、どんな「ナイフ」を持っている。


(完)

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「ナイフ」 イチ @Ta_1

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