第28話 不正の飛騨

 ピピピ、ピピピ——フッと力を抜いて、飛騨が颯爽とタイマーを止めに行く。三隈が終わって、いま、飛騨との打ち合いが終わった。

 俺は暴れる呼吸を制御してその白い背中を見ている。飛騨だけ特別に軽い重力しか受けていないように見える。激しく動いた上に鳩尾に重い拳を入れられたばかりで、息が苦しい。打撃で受けるダメージと内臓に響くダメージとでは、苦しいのは当然後者である。

「はい、回って」

 そんな俺を虚仮にするほど、ほとんど乱れもしない呼吸で飛騨はそう言う。相手を替えて、今度は基山と組む。これは、一日に五回する。つまり六人全員が一日に一度、他の五人と拳を交えるわけだ。

 俺は一日に一度、飛騨と拳を交える。それが日を追うごとに、怖くなっている。「ナイフ」によって得た力がいつか俺を完璧に打ちのめすのではないか。そのとき俺は、俺の好きな空手をしていられるのかどうか。

 急なことだった。

 連中がやって来た。連中はいつも急に来るが、いまのはそういう意味ではない。

 飛騨が「……ちょっと待ってて」と言ってそっちへ行く。ちょうど次の打ち合いも始まる前。手足を振ったりして、ちょっとした休憩みたいになる。鬱陶しさも慣れるほど、よくあることだ。

 俺は乱れようとする呼吸をどうにか平常通りのものにすり替えながら、チラ、とそっちを見た。見て、飛騨のその横顔を確認した。やや斜め後ろからそれを見た。

 ニヤニヤ、笑っていた。

 相変わらず稽古中にやって来た友達、に対して笑っていた。ニヤニヤと。

「来るなって」

 笑いながらそう言う飛騨に対して、連中はへへ、みたいにしている。

 脅せ、と俺が昨日言ったそれを完全に無視して。「ナイフ」を隠して。脅すことなく。

 俺はいま、お前がいれた鳩尾の苦しみの余韻に耐えているのに。

 笑いながら連中と接している飛騨。俺は、物凄くドス黒く濁った心情になる。

 ……出せ。不正だ。飛騨。

 煌びやかな万華鏡のように、視界に斑点が現れ始める。吸っても吸っても、肺に酸素が行き届かない。鳩尾が変に上下して、気持ちの悪い感触を体内で感じる。顔の表面が冷たくなっていく。

 まずい。

 クラっときて出す一歩が、目の前の基山の表情を変えた。

 基山が、

「大丈夫ですか……?」

 とまるで腫れものにでも触るように言ってくる。他の一年三人も、気まずそうに俺の顔を覗いた。

「ああ、全然?」

 一瞬でも気が緩めば即倒れると思った。いま俺をこうして立たせているのは、気力以外の何物でもない。後輩の前で倒れてたまるか、という先輩としてのプライドからくる気力。飛騨と打ち合いをした後に倒れたとあらば、俺はもう、完璧に飛騨に打ちのめされたようなものだ。

 やがて山を越えて呼吸の通りが良くなり出す。

 危なかった。

 ちょうどそのころに飛騨が戻って来る。

「すまん。『もう来んな』、って言っといたから」

 緩急のある物言いをした飛騨に、後輩たちが笑う。後輩たちが笑ったのを見て、俺は何かを自覚した。後輩たちの笑う顔。それを眺めている俺。眺めているだけの俺。

 俺は、笑ってない。

 いつもそうだった。俺は全然、後輩と喋らない。俺は全然、後輩と繋がっていない。先輩と後輩だけど、俺たちは師匠と弟子なのだから、そう簡単には繋がれないものだと思っていた。でもそれなのに、この飛騨という男は後輩と繋がっている。その上で飛騨は後輩から慕われている。先輩と後輩で、ちゃんと師匠と弟子でもある。

 全て俺を追い越していく飛騨誠司。お前は「ナイフ」を持っているのに。持っているくせに。それを隠したまま。それはずるい。

 不正だ!

 ドス黒く濁った心情が、俺の足を動かしていた。俺は部室へ歩いて行く。スタスタスタと。

 そして、部室の扉を開ける。

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