第21話 部長の譲渡
言いながら、俺は何を言っているんだ、とあのとき思った。俺のために開けられた席を、なぜわざわざ誰かに譲る必要がある。と。
「本当か?」
飛騨は汗の浸透した白い道着を部活用カバンに仕舞う手を止めて、俺に訊いた。打診するような響きだった。三年が引退した日の稽古後だった。飛騨の本当か? を耳にして、俺は本当か? と心の中の自分に訊いた。
嘘だ。
と俺は思った。
俺がいま言った言葉は嘘だ、と。現時点で言うならば、実力もあって後輩にうまく指導できるのは飛騨じゃなくて俺だ。それは客観的に見てそうだ。世間体なんていうのは、正直言ってどうでもいいことだ。それはただの言い訳に過ぎないのだ。
でも。
「ああ。そう思う」
俺は朗らかに醜い表情でそう言った。飛騨は「そうか」と言って止めていた手を動かし始めて、
「じゃあもっと頑張らないとな。俺」
と静かに俺の心をエグった。
俺は怖かったのだ。多分。
飛騨がこのままのスピードで俺を追い抜かして、そして気づいたときにはもう手の届く位置に飛騨がいないということが。ど素人だと思っていた人間が、たった一年と少しで、三年分の経験差を実際にいま埋めようとしてきているのが。
俺は怖いのだ。俺は保身に走っているのだ。たった二人しかいない二年生の内の俺が部長になって、その後に飛騨が俺を物凄いスピードで追い抜かして行って、そのときに空手部部長という体裁を自分で守れなくなることを。
小休憩がすぐに終わって、六人が間隔をとって並ぶ。上座はもちろん飛騨、その横に俺。後ろに一年生四人が並んでいるという位置。
「はい、じゃあもう一回」
と少し冗談交じりにそう言ってみる飛騨に、場が少し笑う。「もう一回すか」という含意でありながらも、嘲笑的な意味は一ミリとしてない。さっきから同じ型を、もうこれで四回連続でやることになる、が。
たった一、二秒の間に場の空気はキリリと立って、飛騨が「礼」と静かに号令をかける。静かに腰を折って、六人が礼をする。
俺は空手が好きだ。その気持ちに、嘘はない。絶対に。
「準備」
俺は手を抜いているつもりなどない。手を抜いた結果として追い抜かされるのは、ただの馬鹿だ。でも、俺は絶対に手を抜いていない。手を抜いていないこの俺を、この飛騨誠司は後ろから物凄いスピードで迫ってきた。そして、俺と飛騨との実力差はいまもう、悲しいくらいに開いて行く段階。飛騨は全然息を上げず、お茶も飲まずに涼しい顔で稽古をする。それに対して俺は、もっと飲みたいはずのお茶を一口だけに終わらせて、もっと吸いたい呼吸を全身全霊で自制して、変なプライドを守り続けている。
「始め!」
全身の筋肉、骨格を連動させて動き出す。その瞬間に俺の淀んだ思考はどこか遠くへ吹き飛んで行く。
ただ、型をやっている一人の人間になる。
川越裕也じゃなくなる。
何者でもない、ただ一人の人間として。それが、他の五人と共に型をしているだけ。
今のところそんなことはないが、でもいつか飛騨がそうしてかける号令にとてつもなく醜い感情を持ってしまって、それが薄汚く尾を引いて、こうして真っ新な心を持って綺麗な型が出来なくなることがなければいいなと、俺は遠くの世界で思う。
いまはただ、この六人で型を揃えている。それだけ。
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