第19話 境界の暗部

 格闘技の流行りがまだ続いていて、廊下を歩いていればミット打ちの真似事をしている連中を必ずと言っていいほどにまだ見かける。変に血気盛んで、そのくせ授業中は堂々と寝ているようなのろまな連中。

 ガードを固めながら上半身を折って相手のストレートを避けるフリ。グッと腰に力を入れて相手の空いた脇腹に左でフックを入れるフリ。

遅すぎる。

 どうか話しかけられませんように、と思いながら、俺はいつもその傍を通る。仮にも俺はそういう、格闘技という部類に入ることをやっている人間なのだから。

 変なノリで「あ、空手部の川越だ」なんて思ってこっちに向かってシュッシュッ、と軽いジャブでも噛ましてこようものなら、俺はそれに対してどう対応すればよいのかまだその最適解を見出していない。ちなみに見出すつもりもない。

「やめろ」

 と言って静かに睨みつけてやろうか、なんて冗談交じりに本気で思っている。

 フランクな飛騨にはクラスを越えた交友関係があって、廊下を歩いているとそういう事がよく起こる。例えばいまみたいに、連中は飛騨の太い肩に向かって肩パンを入れるのだ。

「チョロいぜ」

 と飛騨は言って、寧ろ「もっとこいよ」と言わんばかりに袖を少しめくって、生身の肩を連中に向ける。横で一緒に歩いている俺はそのために立ち止まり、その光景を振り返り気味に見ている。

 言ったなぁ? おらっ

 と握り切れていない拳で飛騨の肩を殴る。殴る、というか、握った拳をぶつける、というか。ピッチャーが振りかぶるようにそう力を貯めたところで、それは全然威力へと繋がっていない。

「じゃ、次は俺の番だな」

 冗談っぽくそう言う飛騨の拳を受けてみた者は未だおらず。誰も知らない飛騨の拳の威力を、誰もが果てしなく恐れているからだ。

「いやいや、お前のはダメだろ」と敬遠する連中。

「はは、賢明だ。じゃな」

 知らないからこそ、無限の威力をそこに想像して、恐れている。

 俺は知っている。飛騨の拳の威力を。なぜなら毎日のようにその拳を我が身体に受けているのだから。確かに飛騨の拳は中々重くて強いが、少々力に頼りすぎている節がある。物理的な力というか。筋肉をフルに使った威力。俺の場合は、身体の連動を生かした、しなやかな威力。飛騨のそれは全然、武道的な力ではない。そういう物差しで測るのなら、ゴリマッチョが正解ということになる。武道的な力とは、そういうことではない、はず。

「飛騨って顔広いよな。思ってたけど」

 一年の頃から同じクラスなわけであって、俺の知らない同級生は飛騨にとっても面識のない同級生なはずなのに。それなのに、俺の知らない同級生が、飛騨を知っていることがいまみたいに多々ある。以前「ああすまんすまん」なんてぶっきらぼうに言っていた連中と、気づけばこうやって仲良くなっている次第。

「そうか? そうかもな」

 ちょっと得意げに言ってみる飛騨は、両手に教材を持ちながら人差し指だけで第二理科室の扉をスーッと開ける。先に飛騨が中に入ってそれに続く前に、俺はまだ廊下という空間の中で、

 だってそういう演技をしてるんだもんなお前は。ナイフを隠しながら。

 と飛騨の背中に向けて言う。そして一歩進んで、飛騨と同じ空間に入る。

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