第18話 圧倒の走者
よーい——……。パンッ
赤いバトンを持った白い道着姿の飛騨が、力強い裸足で地面を蹴って、蹴って、蹴って。
異常な速度で前を突き抜ける。
異常な速度で——。
すでに群衆が響めいている。唖然としている。何あれ、という雰囲気。道着姿、黒帯を腰に巻いた裸足の選手が、バサバサバサバサと道着の袖口の擦れる音を慌ただしく出しながら、韋駄天のように駆け抜けていく。あまりにも早い白黒が、すぐに第二走者の下へと走り着く。
「行け!」
山中さんがそう言って、待機場所から俺の目を見る。俺は黙って、山中さんの目を見て、テイクオーバーゾーンから力強く頷く。
飛騨が物凄いスピードでやってくるのを、真正面に見ながら待つ。後ろにいる三、四人の第一集団を、まるで飛騨一人が、まとめて大縄で引っ張ってきているよう。それくらいの重み、速度、そして何より圧倒的な気迫。それがどんどん、近づいてくる。近づいてくる。俺の目を真っ直ぐに見たまま、捉えたまま、近づいてくる。
ナイフを持って。
俺は完全に前を向いて、右手を後ろに伸ばしながら走り出す。
スピードに乗り切る前にバトンを受け取れるよう、微調整しながら。
不意に、俺はいま完全に飛騨に背を向けているのだな、と、俯瞰して思った。
後ろに右手を伸ばして、数秒後に渡されるであろうあの赤いバトンを、背中を向けて待っている。
完全に。
やがて俺の右手にそれが置かれたとき、俺は衝撃的に、
「刺された」
と思った。
他の選手に追い抜かれた、という陸上競技上の意味ではない。本当に、完全に見えないこの背後から、いま「刺された」のだと。飛騨の持つ気迫、速度、重みに、後ろから「刺された」のだと。
いや違う。飛騨の中に隠されている「ナイフ」に、「刺された」のだと。
俺はバトンを受け取って、走り出す。裸足でひたすら地面を蹴っていく。何の番狂わせも起こさせずに、寧ろさらに差を引き離した状態で磯貝さんにバトンを渡す。そしてアンカーの山中さんに渡される。終わってみればあっという間のことだった。
結果、空手部は二位三位の野球部と陸上部に二十メートルほどの差をつけて、ぶっちぎりの一位でゴールした。学年の人気者が集まるサッカー部でもなく、女子人気の高いバドミントン部でもない。毎日静かに、学校の隅っこの武道場で死に物狂いの稽古をしている空手部の優勝だった。何となく、場が騒然としていた。内心でニヤつきながら、俺はそれを眺めていたが。
「やったったな」
ゴールテープを切って俺の後ろに並んだ山中さんが、そう言った。
「はいっ」
やがて退場の曲が流れ始めて選手が退場する。俺は山中さんの前を走って、退場門を抜ける。先輩の前を、走って。
空手部の優勝。それがその後のかなり面倒臭い出来事へつながる一端になるのだが、このときの俺たちはまだそんなことは知る由もない。俺は先輩から渡された大きな引導を抱えたまま、先輩の前を走る。それに少し感傷的になる。がしかしそんな中でも、飛騨のあの凄まじい迫力の余韻を、やはり本物のナイフのもつ異常な狂気として感じずにはいられなかった。あれが、あの緊張の場で露わになった、本物の飛騨がいつも懐に隠している狂気なのだと思った。あれが飛騨の「ナイフ」なのだと思った。
あんな奴がこの空手部の部長。
あんな奴が。
あんな奴に俺は……。
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