第15話 休暇の終了
夏休みも終わるころには、一年生たちの身体は見るからに大きくなっていた。
特に心配要素だった基山は、打ち合いの相手をしていると分かるのだが徐々に上腕二頭筋に張りが出てきて、弾力が感じられて、打つ拳にも、明確な力が出てきた。
俺が相手をしているときに一度まともに鳩尾に入れられたときがあって、そのときは、少し焦ったものだ。でもそう感じる焦り以上に、俺は一人、嬉しさを噛み締めていたものだ。
他の三人も、やはりこの夏で大きく成長している。
長田、藤沢、三隈、の三人……。考えてみれば、それは当然かもしれない。平日は朝から夕方まで、土曜は午前中、休みは日曜日だけという週六のハードな稽古に、この夏休み、四人は必死にしがみついて来たのだから。それで強くなれないほうが、逆におかしい。
……それに付いて来れなかった中本は、途中で急に辞めると言い出した。
来る者拒まず去る者追わずとは言うが、さすがにこれまで一緒に頑張ってきた仲間を失ってしまうのは、何度経験しても慣れないもの。
理由が理由だけに特に催し物を開くこともなく、中本は夏休みの序盤、静かに去っていった。他の一年生には、「普段の生活でもあまり変に気にしないでやってくれ」と飛騨が言っておいた。確かにキツイことをしている、やらせているのはそうなのだが、それ以上に、空手が楽しい、面白いものだと気づく前にそうここを去ってしまったのなら、それは本当に惜しいことだった。いや、それを俺達が気づかせてあげることができなかったのか。
「そもそも俺らってさ、指導員の免許も何もないんだよな。ただこのH高校空手部っていう中で受け継がれてきた指導法を実践してるだけであってさ。帯だってさ、ほら、一年が白、二年が茶で、三年が引退すれば黒になるんだよな。自動的に。だから俺らいま黒帯だけど、世に言う初段とか二段とかの世間的な価値なんて、そこには何もないんだ。……武道を教える資格って、そもそも俺らにあるんだろうか」
誰が創始者なのかは分からないが、おそらく当時はちゃんとした顧問の先生がいて、その先生の下で指導が行われたのだろう。それが、顧問の先生がいなくなってからは、歴代の部員たちによって技も技術も気風も受け継がれてきて、そしていまの俺たちの代に至るというわけだ。
「武道の指導者になるってさ、先輩になったから自動的にそうなるわけじゃないよな。帯の色は勝手に変わっていくけど、指導者になるっていうのはさ、全く、根本から話が違うんだよ。たぶん」
飛騨は切実な目を下に向けて、俺にそう言った。中本が去って行った日の帰り道だった。
実際問題、まだ俺たちはそのとき、三年生が引退して指導員の位置と黒帯を譲り受けてから、一カ月と経っていない状態だった。どうすればもっと良い稽古ができるか、どうすればもっとみんなが成長できるか、手当たり次第に奮闘していた。そして、そんな中で後輩の一人が、稽古に付いて行けないという理由で急に立ち去られてしまうと、さすがに、自分たちの指導が間違っていたのではないかという自責の念に、立ち止まらざるを得ないのだ。
「ああ、……そうだな」
陽の沈みかける生暖かい夕方は、体中から汗を出し切った稽古後の俺達には、普段は気持ちのいい帰り道だった。時折風が吹けば、火照った身体にまとわりついた疲労が綺麗に流されていくようで。しかしその日はどうしても、疲労が疲労として身体にまとわりついたまま、教科書など入っていないはずの学校指定のカバンは、変に重たいのだ。
「でも俺たちの代ではさ、こうやって辞めていったのが四人もいるんだし。いまの一年はまだ、よく残ってるほうなんじゃないか?」
俺がそう言うと、飛騨は、特に相槌も打たずに俯くまま歩く。
数秒経っても飛騨が何も返答しないままなので、おそらくこれは、飛騨は、
「それは違うだろ」
と言いたがっているのだなと俺は考え至った。
それは違うだろ。
なんて情熱的な反論だろう。なんて先輩としての優しさ、指導員としての器量に満ち溢れた言葉だろう。一瞬のうちに眼光を鋭くして、キッ、と俺の目を睨みつけて、それは違うだろ。と。確かに一年生の中で辞めていった部員は今回の中本が初めてであって、残っている人数からすればそれは俺たちの代よりも優秀かもしれない。けどこれはそういう話じゃないだろう? そもそもそういう話になってしまうことがおかしい。そういう話になってしまうという時点で、お前は普段から後輩たちのことを、あまり気にかけてやっていないことになる。まだよく残っているほう? 何言ってんだ、お前。と。
いや、実際は飛騨は、そんなことは言っていない。でも、俺は止まらない。
そうやって俺を情熱的に落とし込んでいって、自らの先輩としての正当性を確保しておくのだろうか。その過程で自分が心に抱いている後輩への愛にどんどん気付いて、それが背中にもっともっと追い風を吹かして、俺を至極まっとうな方法と論理で蹴落としていくのだ。
でも、そんな情熱的な反論も、先輩としての優しさも指導員としての器量も、全てをぶち壊す最大の王手を俺がずっと握りしめているということに、お前は気づかないままだ。
おまえはそれに気づかないまま、そうやって「いい先輩」の演技をやっているだけなのだ。
裏では本物のナイフを手に構えているというのに、「いい先輩」?
醜いぞ飛騨。醜い。
俺が暴露すれば、俺が王手をかければ、そんなものは全て取り払われて、本物のお前が姿を現す。ただただナイフを持っただけの本物のお前が、姿を現す。
本物のお前はそんな、後輩のために情熱的に反論をしてやれるような男ではないだろう。もっと残酷で醜い、いつでもどこでもナイフを隠し持っていないとまともに立つこともできない、そんな狂気の男なのだろう。
「まあそうだけどさ」
ようやく飛騨が口を開く。
まあそうだけどさ。そういうわけじゃない、
ってか? 図星だよ。図星。
「そういうわけじゃないと思うんだよな。俺は。指導員として考えなきゃいけないのはさ、残っている頭数云々よりも……」
満足気に深刻そうな表情をして話を切り出す飛騨。俺がその横顔を見ても、飛騨はずっと前を向いたまま、トボトボと歩いている。分かってるぞ、演技だろ。そういうの全てが、狂気を隠すための演技だろ。俺にはもうお前は、そうにしか見えないのだよ。
「——いやー……。人を指導するって、難しいな」
沈鬱的でありながらも、悩みぬいたうえで少しだけ楽観的になった物言い、か。
「ああ、そうだな」
俺は悩ましそうな表情の中でフッと口角を上げて、そう返す。
「あと三日か」
飛騨が言う。夏休みが終わる。空手部員としての、最後の夏休みが。この夏休みでもう俺は完全に、実力で飛騨に追い抜かされていた。
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