第12話 事故の重複

 それにしてもなぜあのとき担任は飛騨に注意をしなかったのだろうか。生徒のカバンの中にスマホがあるかないかをチェックしていたら、いきなり本物のナイフが出てきたのである。しかもそれは、先生からも生徒からも信頼の厚い、飛騨誠司という男のカバンの中に。

 何度考えたって、あれは事故の積み重なりだったのだと結論に至る。次々にカバンの中にスマホを見つけていき、その調子で飛騨のカバンの口を開けてみれば、そこには思いもよらぬナイフがあった。

 本物のナイフが、圧倒的な存在感を持って。

 担任はほとんど条件反射のようにカバンを閉めたに違いない。

「見てはいけない」

 とでも言うように。

 その様子を廊下から見ていたほとんどの生徒が、すぐに、

「飛騨ずりー」

 と喚いた。カバンを開けてすぐに閉じるという担任のその不可解すぎる行動を、飛騨の崇高な人間性に基づいた誤認識として、意味づけしてしまった。そのカバンの中に一体何が入っていたかなんてことになど誰一人興味を抱くことなく、ただただ飛騨はその人間性ゆえに鞄の中身チェックを一秒でクリアしたのだろうと、そんな想像の水面下で、重大な事件は静かに過ぎ去った。どんな凶悪犯罪も、こんな思い込みとちょっとした事実の捻じ曲げの重なりによって、闇に葬られるに違いない。

 あのとき担任だった教師は他の高校へと転勤し、二年生のいま、もうH高校にはいない。飛騨のカバンの中に隠されている狂気を知っているのは、飛騨の周りにはもう、この俺ただ一人になったのだ。

 思い返してみれば、飛騨には何かこう、あまり人に見られたくない部分が、心の中に確かにあったように思う。それをどうにか多大な努力で、この男はひた隠しにしてきたのだ。

 まだ高校で部活を始めて数カ月の頃である。当時は飛騨と俺を含めた一年生が六人いて、その内の俺だけが、中学の頃からやっている経験者だった。他は初心者だった。

 最初のうちは一年生は全体での稽古に参加させてもらえずに、一人、中学の頃からの経験者である俺はそこに不満があった。もちろん、ガキみたいな醜い喚きなどではなく、

「もっと稽古したい!」

 という、それは情熱に満ちた不満だった。

 そんな俺を見ていた先輩たちは、

「すまんが少し我慢してくれ」

 となだめていた。俺は得意げに、

「仕方ないですね」

 などと答えて見せるが、既に自分の実力がこの場で認められているのだということを認識できて、まんざらでもない気分だった。

 飛騨誠司はそれを、陰で黙って見ていた。

 一年生にも、全体の稽古に参加できる場面が最後にある。

 それは筋トレだ。

 ほとんどフラフラになるまでハードな稽古をして、その後にする筋トレ。ダンベルもベンチプレスも使わない、強いて言うなら、自分の体重を重石として行う自重トレーニング。ただの腕立て伏せ、ただの腹筋と言えども、疲労ある状態でするそれは、並の過酷さではない。

 全体で最後に行うその筋トレの場面で、一番最初のときから、飛騨は三年生よりも誰よりも、熱心にそれを行っていた。

 別に、俺は手を抜いていたわけではないが、間違いなく、そんな俺よりも飛騨の方が熱心にやっていた。三十回の腕立て伏せのところを、例えば三十二、三回やっていた。息を吸うべきところで吸わずに、自分で酸素の少ない状況を作ってやっていた。そんな事せずとも恐るべきキツさだというのに、更に自分でそこまでやってのける飛騨のそれは、誰が見たとしても、凄いな、と思わせる熱量だった。

 あるとき、飛騨がそうやって勝手に自分流の筋トレをしていることが、三年の先輩にバレることがあった。今からちょうど一年前の夏の話で、もうその三年生は卒業しているのだが。

「飛騨。勝手なことはするな」

 と。

 もちろん飛騨は、

「はい。すみません」

 とそのときは謝罪した。先輩の号令に合わせて「一、二、三、……」とやっていくのだから、飛騨はつまりその先輩の号令を無視していた形となる。確かに、注意されてもおかしくないところではあった。

稽古が終わって一緒に帰る道で、

「いやでも飛騨すげぇよ。もう結構俺も、追いつかれてる感あるもん」

 と、俺はちょっとした慰め的な意味の言葉をかけた。別に本格的に怒られたわけではなくて、寧ろ「熱心にやりすぎて注意される」という、その日飛騨は初心者として誇るべき怒られ方をしたわけであって、その帰り道、飛騨自身、それに対して落ち込んでいるわけでは決してなかった。だから俺がそう声をかけてみたのは、帰り道の会話の中に少し沈黙が生まれてしまって、それを繋ぐ目的で何ということのない話題を振ってみただけだったのだ。

 これを受けた飛騨は、自信ありげにさらりとこう返した。

「すぐ追い抜いちゃうぜ」

 本当に、何の気ない言葉だった。いかにも、飛騨らしい言葉だった。

傍からすれば。

 でも、その言葉には煮えたぎるほどの情熱と、張り裂けるほど静かな羞恥が含まれていて、横で聞いた俺の耳には、それがジワリと痛く滲んだ。

すぐ追い抜いちゃうぜ。

——お前なんて。

 そう、俺には聞こえた。お前なんて、と。

 現実として、丸々三年の経験差を埋めるというのは、容易なことではない。特にこの武道の世界においては技や呼吸が身体に馴染むまで一定の時間がかかるため、容易でないのだ。

 そのときも、客観的な視点から見て、まだまだ飛騨に追いつかれる気配など微塵もなかった。繰り返すが、いまから一年前の夏の話だ。だからそのときの俺の言葉の中には、飛騨に対するお世辞が確実に含まれていた。

「追いつかれてる感あるもん」

 なんて。飛騨はそれに多分カチンときて、

「すぐ追い抜いちゃうぜ」

 と返したのだ。

 飛騨は自分の中にある羞恥、醜い部分を嫌っている。だからそれをたぶん、努力によって隠してきた。己の肉体の弱いことを恥じて、鍛えてきた。動き、技の未熟さを許せないで稽古に励んできた。他には、そう。勉強ができない自分が醜くて、勉強してきた。バレないように、バレないように。

 でも飛騨よ、お前のカバンの中にあるそのナイフは、俺には隠そうにも隠し切れないのではないか?

現実的に。俺はあの時、もうそれを見てしまったのだから。もう俺にはバレているのだから。

 明るく仲良く取り繕って、いつだって殺気に満ちたナイフを持ち歩いている自分をどうにかひた隠そうとしているお前であるが、俺はちゃんと分かっている。明るく面白く話しているその目の奥で、本物のお前は、悪意に満ちたナイフを握り締めていることを。

 お前のいまのその努力は、俺の目にはただ、痛々しく映るだけだ。お前の明るい表情、お前の馴れ馴れしい性格。そう取り繕う全ての努力の裏に隠れている残酷な狂気が、同時に俺には、見えてしまって……

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