第8話 武人の基本
小さな駅前で、アスファルトに紺色のLOGOSタープを突き立てて待っていた飛騨。今日は日曜。稽古はなく、飛騨が言っていた、皆で海に遊びに行く日だ。
「おっす。晴れたな」
と飛騨がまず言ったのは、昨日、土曜日が土砂降りの雨だったからである。気温と湿度の高い室内でハードな稽古をしていると、徐々に空気中の酸素が少なくなっていく錯覚を起こすものだ。吸っても吸っても、身体が必要としている酸素の三分の一ほども吸いきれないような状況。一年生五名中、基山と中本の二人が途中で倒れかけて、休ませざるを得なかった。他の長田、藤沢、三隈の三人は入部してからの数か月で順調に身体もできてきているが、この二人は、一年生の中で少し遅れている印象。
「ああ、地面ももう乾いてる」
雨が続けば今日は中止になるところだった。とりあえず、昨日の稽古での反省は置いておいて、今日は楽しむ日だと決めている。
俺は、両手に抱えて持ってきた大きなクーラーボックスを地面に置いて、その上に、担いできたリュックを下ろす。これで持つものはなくなり、随分と身軽になった。
ふと飛騨の下半身を見てみて、「俺も履いてくりゃよかったな」と、俺は半ズボンを横に引っ張って見せた。
「はは。ノーパンみたいでさ。何か変な爽快感よ」と笑いながら飛騨が言う。遠目には柄物の短パンに見えるが、それは水着だった。それにサンダルとポロシャツという出で立ちで、いかにも「これから海に行きます」な雰囲気だ。鍛えられたその筋肉も、照り付けるアスファルトの熱気に生暖かく映えていて、似合っている。
飛騨が腕時計を見る。「十時十四分、か」
昨日の土砂降りの稽古後に飛騨が指示したのは、「A駅に十時半」だった。集合時刻よりまだ十六分前ではあるが。
「あいつらにも教えておかないとな」と飛騨。
「だな」と俺。
十分前集合は武人の基本で、肝心なのはそれよりも前に皆が揃っていることだ、と。揃って、少し駄弁ったりなんかして、本来の集合時刻よりもちょっと早めに、余裕をもって出発できるのが武人のステータスなのだ、と。飛騨が言いたいのはそういうことだろう。
「二回目なんだな意外と。裕也と外で会うのはさ。
そう、意外と二回目だ。これほどいつも学校生活で一緒に行動しているのに。
ちなみに一回目は、去年度の三年生の卒業式の後、部で送別会を開いたときだった。焼き肉の食べ放題で、吐く寸前まで食べさせられたものだ。まだ俺らも一年生だった頃だ。
「ああ、そうだな。意外と」
そこで遅刻ギリギリに息を弾ませながらやってきて、時間厳守について厳しく教えられた同級生の奴は、もう辞めている。残ったのは、俺と飛騨だけ。
「お、長田」
俺が身軽になった身体で筋肉を伸ばしたりピョンピョンと跳ねたりしていると、地に足を着いた飛騨が、遠くを見ながら言った。リュックは、下ろさないままだった。
見ると、向こうにアウトドア用の椅子やら、机やらを持った五人が、こちらへ歩いてやってきているのが遠目に分かる。先頭は長田。ちょうど、信号に引っかかったところで長田がいち早く待っている俺たち二人に気付き、そこで、
「おはようございますっ!」
といった風に頭を下げた。
それを見た他の四人は、すぐに長田に倣う。サッ、と挙げた手のひらで俺たち二人は返事をしてみる。なんだか偉そうな先輩たちだな、と自分で思ってみるが、代々、こういう習わしなのだから仕方ないものか、とも同時に言い聞かせる。
飛騨は腕時計を見る。「まあ、ギリセーフってところか。一応まだ十分前だしな」
言いながら、ピッピッピッピと腕時計の横ボタンをあまり意味もなさそうに四回押す飛騨。
「でも、先輩よりは早めに来ていたほうがいいんじゃないか?」
ちょっと厳しく言ってみる俺。それを先輩の自分が言うのも何か傲慢だな、と思いつつクックッと屈伸をする。飛騨が言いそうな返しを何となく想像してみる。
「まあ俺らが早く着きすぎたってのもあるし。そういうルール知らなくてもちゃんと早めに集合できるのは合格ラインだろ」
「まあ、そうだな」
だいたい同じことだった。全く、後輩に甘い先輩たちだった。
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