第5話 酸味の道場
何事もなく、夏休みに入った。
午前中に開講されている課外授業を終えて、俺と飛騨は武道場へ行く。
重い扉を開けて広がる薄暗い空間に向かって、俺と飛騨は、
サッ、
と静かに礼をする。
そしてこれは癖なのだが、スンスン、と俺は鼻孔を広げる。匂いの元となる分子がいくつか嗅覚細胞に触れる程度だ。空気の僅かな隙間に干乾びた酸っぱさを感じるが、これはもう、いつものことである。なぜだか、この酸っぱい匂いを嗅ぐと、俺は安心する。
何も言わずに一旦荷物をその場に置いて、俺と飛騨は窓を開けていく。ちゃんと前日に換気をしなかったときは、これが激臭となって籠っているものだ。
一応更衣室みたいな場所はあるのだが、男子校だから別にどこで着替えたって大した問題になることはないものである。更衣室を更衣室として使うことはほとんどなく、そこはもっぱら、空手部の部室、という扱いになっている。
俺と飛騨は、そこでもう代々、何年使っているのか知れない朽ち果てた椅子に座って、家から持ってきた弁当を食べ始める。暗黙の内に、後輩は使ってはいけないことになっているのがこのボロボロの椅子。この椅子を俺たち二人が使い始めて、実はまだ一週間である。
夏休みに入る前、つまりつい一週間前に三年生の四名は引退し、いまは二年生の俺と飛騨、それと後は一年生五名の、計七名が空手部の総部員となっている。
ちなみに飛騨が部長で、俺が副部長。
実際のところ、二人の実力としてはそう大差ないところだ。そこに関しては俺の方がまだ若干上と把握している。でも世間体として、飛騨誠司が部長を務めていればたとえ粗暴な教師陣でさえも、俺たちの活動に文句をつけることはないだろう、と踏んで、策略的に飛騨が部長になっただけの話である。顧問は一応いるのだが、それは隣の柔道場で活動する柔道部の顧問、鷹岡が、同じ武道系ということでかけ持つ形で引き受けている形で、こっちの方はもう、ほとんど放置状態だ。そもそも、その大柄な顧問鷹岡は武道と言っても柔道しかやったことがなく、ただ空手部顧問の席を形の上で埋めているに過ぎない。だから、他校と何のツテもないために練習試合の一つもないし、責任者もいないために、大会にすら出ることもない。
「大会に出られない部活なんて、やってて意味なくね?」
何度そう言われたことだろうか。クラスメイトから、親から。どれほど圧巻の型が出来ても、どれほど組手がうまくても、それが実績として履歴書に残ることはないのだ。そう言われれば確かにうまくは返せない。それは紛れのない事実なのだから。でも、別にいいじゃないか。俺たちは空手が好きで、空手をやっているのだから。本当のところ、俺たちの実力は他の高校の空手部の連中よりも、ずっと上だと思っている。ただ、大会には出ないだけの話。ただただ、俺たちはこの武道場で、日々、自己鍛錬に向き合っているだけの話。
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