6-3
ドゥルジは、彼女たちの姿が見えなくなるまで、何も考えられずその場に立ち尽くしていた。
「……くそっ!」
吐き捨てると、また全身に不快感を覚えて、苛立ちをぶつけるように首の後ろを掻きむしった。
掻き過ぎて肌が傷ついたせいか、指先が血で濡れているような気がしたが、ドゥルジは痛みすら感じていないのか、少しも気にしなかった。
(あの女さえ居なければ! あの女さえ居なければ!)
胸に渦巻くどす黒い感情が、ついに制御できなくなり、ドゥルジは胸の中で何度も罵った。
その間も、首の後ろを掻きむしっていると、指に何か紐のようなものが引っ掛かって、ふとそれを見た。
それは、アナがこの村に来た初日に、村人全員に配った木彫りのお守りであった。
気づいた瞬間、憎きアナから渡されたものをずっと身に着けていたことが、尋常でない憎悪を煽り、胸に燻っていた激情が、ついにピークに達した。
「こんなものッ!」
叫んだドゥルジは紐を千切ると、木のお守りを、力任せに地面へと叩きつけた。
お守りは小さく音を立てて転がっていき、上がった息を整えていると、急に、周りが静寂に包まれて、耳の傍で自身の鼓動だけが鳴り響いているような、奇妙な感覚に陥った。
背筋に寒気を感じて、ドゥルジは頭の中の冷静な部分が、自身を諭すように囁いた。
(俺は何で、こんなにも怒り狂っていたんだ? いつからこうなった?)
思えば、初めは些細な嫉妬だったはずだ。それがいつから、こんなにも自分を狂わせたのだと考えると、全身に冷や汗が止まらなくなった。
(俺はなんてことをしてしまったんだ、早く、お守りを取らなければ……!)
咄嗟に手を伸ばして、あと少しでお守りを拾える、という所で、その手が、何者かに触れられたような気がした。
〈お前、それでいいのかい?〉
男とも女ともつかない声で囁かれた途端、世界が真っ暗になり、自身とお守り以外が黒く塗りつぶされたかのように、消え去ってしまった。
「だ……誰だ……!」
〈聞かずとも分かっているだろうに。お前たちが必死に逃げているモノだよ〉
背後から声は聞こえるが、振り向いてもその姿が見えることは無く、ドゥルジは何度も振り返りながら叫んだ。
「やはり魔獣か……! 俺の身体に何をした!」
〈別に、ちょっと弄んでみただけさ。ただの人間の分際で、聖女に嫉妬するような傲慢な奴をからかってやったらどうなるかと思ってね。まさか、お守りを投げ捨てるとは思わなかったがね〉
くすくすと馬鹿にしたような笑みが反響するように聞こえ、ドゥルジは胸がざわめいた。
拾いかけていたお守りの事を思い出して、咄嗟に手を伸ばそうとするが、いくら腕を動かしても、身体が一切動かない。
ドゥルジは焦りを感じながら、辺りに喚いた。
「い……一体ここはどこなんだ!」
〈ここは、お前と私しかいない世界さ。私達は野蛮な連中とは違って、肉体に直接干渉することは出来ない。だから、代わりに弱った精神を経由して、肉体に乗り移るのさ。それくらい知っているだろう?
常に機会を窺っていたが、この村人は全員信心深いのか、私がどれだけちょっかいを掛けても、魔除けのお守りを常に離さなくて、ずっと退屈だったんだ。だから、お前がそれを手離してくれた時は、思わず目を疑ったね〉
「お、俺の身体を返せ!」
〈それは無理な相談だ。私を受け入れたのは、他でもないお前だからね。ただでさえ結界を挟めば影響力が落ちるというのに、その上、魔除けのお守りまで付けている人間を、その気にさせるのは、本当なら力がかなり必要だが……お前は、いとも簡単に私の術にかかったんだ。どうせ私が力を貸さずとも、いつかはあの聖女に一矢報いようとしていたんだろ?〉
「……!」
図星を突かれて、ドゥルジは口を噤むと、魔獣は喉をくつくつと鳴らして笑った。
〈ほうら、言った通りだ。安心するがいいさ、私とお前が成し遂げたいことは同じなのだから。今更拒んでも無駄だよ、私とあんたの間には、既に縁が出来てしまっている。お前に断ち切ることはできない。さあ、私に身体を委ねなさい……〉
背後から耳元で囁かれると、不意に、目を塞がれたような感触と共に、視界すらも暗闇に塗りつぶされてしまう。
次第に平衡感覚すら奪われていき、ドゥルジは後ろにゆっくりと倒れこみながら、意識を失っていった。
* * *
「なあ……最近、村長の様子が、ちょっとおかしくないか?」
酒場のカウンターにたむろする取り巻き連中が一人、不可解そうに呟いた。
「お前もそう思うか? 最近妙に機嫌がいいよな」
もう一人が同調するように言うと、酒を飲んでいた男が、不満げに呟いた。
「それどころか、最近飲みに誘っても、家族がどうこうって言って、断るようになったよな。ったく、あの人に奢ってもらえるから、傍でヨイショしてたってのによぉ」
「まあ、それは否定しねぇけどよ。なんつーか、それにしたって、ちょっと変じゃないか?あんだけ毎日のように言っていた聖女さまの悪口も、急に言わなくなったしよ」
言い出しっぺの男は、ドゥルジの事を本気で心配しているのか、剣呑な表情で言った。
「それに、ドゥルジ村長の反応は、聖女さまのことがどうでもよくなったというよりかは、聖女さまに抱いていた憎しみ自体を、すっかり忘れちまっているというか……とにかく、なんか不気味だとは思わねぇか?」
「そりゃ、今までずっと文句を垂れていた人が、急に何も言わなくなったら気味も悪くなるだろ。どうせあれだろ、聖女さまのお傍にいる厳つい従者のどっちかが、村長の噂を聞いて、聖導院の名の元にきっちり締め上げたんじゃねえか?」
嘲笑うように言うので、男は諫めるように言った。
「おいっ、不敬だぞ。まあ、なんとも無ければそれでいいんがな。ただの杞憂だしな……」
男はそう言ったが、自身の不安が拭い去られることは無く、杯に注がれた酒に映る、頼りなさげな顔をした自分を、じっと見つめた。
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