5-6
ひとまず空いている席に腰かけたアナは、祭りの全体を見渡した。
酒や食べ物に舌鼓を打ち、家族や友人、恋人と幸せを分かち合う者や、稼ぎ時だとばかりに、出店で一生懸命に働く者。手作りのステージに立ち、耳馴染みは無いが、つい聞き惚れてしまうような音楽で村人を楽しませる者や、それに耳を澄ませていたり、音楽に合わせて踊ったり手拍子する者。
皆、それぞれ浮かべている表情は明るくて、アナの表情も自然と明るくなった。
(村人たちが一同に介しているというのに、目に入る全員が、喜んだ表情をしているわ。村の人たちは、この短い夏を、後悔の無いようにめいいっぱい楽しむ術を知っているのね)
村人たちの笑顔は、今まさに我々を見下ろす夏の太陽のように煌めいていて、それぞれから眩い命の輝きを感じられた。
そして、この笑顔を守る職業に就いていることが、一層誇らしく思えた。
(そうだわ。私がしなければならないのは、何に変えても村人たちを守って、何事も無く、誰も死なせることなく、もう一度この短い夏を迎えて、彼らの笑顔を見るのが、私の責務なんだわ)
自然と背筋がぴんと伸びていて、胸いっぱいに息を吸い込むと、夏の青い匂いがした。アナはもう一度彼らの笑顔を見ようと、村人たちを見渡す。
「あれ、あの姿は……?」
その中に、一人だけ生気のない顔をした人物を見たような気がして、その人物に心当たりがあったアナは、思わず立ち上がった。
祭りの会場の端っこで、一人所在無さげにしている男など、この村に一人しかいない。以前色々あった人物だが、アナの頭には、話しかけないという選択肢はなかった。
「カーン! あなたも来ていたのね!」
声を掛けると、カーンは自分の方へと駆け寄るアナを見て、驚いたように目を見開いた。
「聖女さま……。そのお召し物は?」
「これ? これはね、村人たちが私の為に作ってくれたのよ。カーンは着ていないの?」
カーンは、村の伝統衣装では無く、着古したベストにくしゃくしゃのシャツと、土で汚れたズボンとブーツという、作業終わりのいつもの服装をしていた。
「いえ、俺は元々来るつもりが無かったので……衣装も、毎年断っているのです」
「あら、そうなの。でも、ここにいるということは、今年は気が変わってくれたということよね?」
希望を捨てずに言うと、カーンは気まずそうに首を横に振った。
「……いや、少し様子を見に来ようとしただけです。もう帰ります」
そういって、カーンは一人行ってしまおうとするので、アナはそれを慌てて止めた。
「ま、待ってカーン! 折角ここに来たんだから、少しは見て回りましょうよ!」
「俺のような人間がいては、きっと皆を白けさせてしまいますから。邪魔者は退散します」
その言葉を聞いて、アナは何故か胸が痛くなった。カーンは村の皆からそういう風に思われていると考えているのだ。
折角、村人全員が楽しみにしているお祭りだというのに、自らとはいえ、カーンが一人だけ除け者にされて、家に一人で居るなど、アナには耐えがたいことだった。
唇を引き結んで、アナは真剣な眼差しでカーンを見つめると、言い聞かせるように言った。
「そんなこと無いわ、カーン。もし、村人たちの視線が怖いのなら、これを着けて顔を隠しなさい。少しはましになるでしょう」
そういって、アナは頭につけていたヴェールを外すと、背伸びをしてカーンの頭に掛けた。
「いや、ですが……」
「大丈夫よ。ここにいる人たちは皆、自分が夏至祭を楽しむので精一杯で、周りのことなんて見えていないもの。だから、あなたものお祭りをめいいっぱい楽しみましょう!」
安心させるように笑って、アナは未だ躊躇いが残るカーンの背中を、ぐっと押した。カーンはよろめくように一歩前に出ると、不安げにアナを見た。
「さあ、行きましょう」
笑みを浮かべると、アナはカーンの腕を支えるように取って、ゆっくりと会場の中心に招き入れた。
隅に居ては体感できないような人々の熱と、声や音がごうごうと耳を打つ。
久々の人込みに最初戸惑っていたが、少し経つと、そのざわめきは自分に興味を全く示さず、誰一人としてカーンを拒んでいないことが分かったのか、ゆっくりと顔を上げた。
その様子を横で見守っていたアナは、こう囁いた。
「ねぇ、カーン。どう感じる? あなたを拒絶する者が、誰か一人でもいる?」
「……いえ。皆、俺の事など、興味も無いみたいです」
「そうでしょう? だって、彼らは聖女の私のことですら、全く気にしていないんだもの。周りが白けているかどうかを気にするなんて、意味のない事だわ。だから、あなたも気にする必要なんて無いのよ。大丈夫」
アナはカーンの横顔を見つめて、そっと背中に触れた。カーンは暫く何も言わなかったが、彼の横顔は、まるで昔懐かしいものを見つめるような郷愁に満ちていた。
「アナ様」
ふと声を掛けられて、アナは正面を見た。食べ物と飲み物を持って戻ったウェインが、少し離れた所で立っていた。
「あっ、ウェイン。戻っていたのね。紹介するわ、彼はいつも礼拝室でお祈りをしてくださっているカーンさんよ。こちらは私の従者のウェイン」
「……初めまして」
「始めまして、ウェインと申します」
カーンはぎこちなく挨拶をすると、ウェインは礼儀正しく返して、会釈した。
すると、カーンは二人を見て、胸に手を当てて、アナに一礼した。
「……聖女さま。俺は一人で見て回ろうと思うので、これにて失礼します。声を掛けて下さってありがとうございました」
「あら、一緒に見回ってくれないの? 残念だけれど、一人がいいなら仕方ないわね」
「はい。では」
小さく頭を下げると、ウェインにも目配せしてから、カーンはアナの前を後にした。
一人になったカーンは、さてどうするかと周りを見渡した。
相手は従者とはいえ、アナが若い男性と二人で楽しむ所に割り込む程野暮な男では無い。
だが、いざ一人になって何をしようかと考えると、何も浮かばず、どうしたものかと首を捻った。
普段から家と森と聖堂を往復するだけの毎日で、娯楽というものに一切触れていなかったからか、何かを楽しむという感覚が、すっぽり抜け落ちてしまっていたようだった。
(この匂い……)
すん、と息を吸うと、近くから好物のシチューの匂いがした。食欲をそそる匂いに、そういえば腹が空いていたのだと思い出し、腹の辺りを摩る。
躊躇いはあったが、アナにここまで背中を押されたというのに、何もせずに帰ってしまっては、後日礼拝室で会った時になんと言えばわからなくなる。
彼女の気遣いの為にも、帰る気にはなれなかった。
(……大丈夫だ、聖女さまからお守りを貰ったのだから)
頭に掛けられた似合わないヴェールを握り締めると、カーンは意を決してシチューの屋台へと足を向けた。
「すみません、シチューを一杯ください」
「はいよ~……って、あれ、あんた……!」
日に焼けた恰幅のいい婦人が、鍋いっぱいのシチューをかき混ぜながら、カーンの方へ目を向けると、まるで幽霊でもみたかのような顔をした。
「……お久しぶりです、ジェーンさん」
彼女は以前のご近所さんで、態度は粗暴だがとても面倒見が良く、カーンにとっては第二の母のような存在であった。
だが、妻子の事があって以来、村の中心の村落から、端の林の小屋に移り住んでから、関わることがめっきり無くなってしまっていた。
気まずそうにしているカーンを見て、ジェーンは呆れたように舌打ちをした。
「……ったく、お久しぶりです、じゃないよ。最近顔も見せないで。それに、なんだいそのヴェールは。趣味が変わったのかい?」
「いや、これは……聖女さまが貸してくださったんです」
やはり男がヴェールを付けていると変に目立つのか、ジェーンに指摘されてしまい、カーンは気恥ずかしそうに触った。
「聖女さまが? なんでまた」
「……夏至祭の輪に入るか入らないかで悩んでいた時、これを着けていたら、皆の視線も気にならないからと、頭につけていただいたんです」
「なんだいそりゃ。そんなヴェール付けていたら、余計目立つだろうに。というか、なんで顔を隠す必要があるんだい。別に余所者ってわけでも無いのに」
「……俺のような辛気臭い顔をした奴がいたら、折角の夏至祭の明るい雰囲気が、台無しになってしまうでしょう」
すると、ジェーンは面白くなさそうに鼻を鳴らした。
「ふんっ、何言ってんだい。少なくとも、あたしはあんたの辛気臭い顔を久々に見られて、嬉しかったけどね」
「……え?」
つい聞き返してしまったが、ジェーンは木の器を手に取って、村の野菜と鳥肉のシンプルなシチューを素早く盛り付けると、木の匙を付けて、ぶっきらぼうに渡した。
「ほら。あんた、ちゃんと食ってんのかい? そんな痩せこけた顔して、これ以上奥さんと息子に心配掛けるんじゃないよ」
どん、と胸に押し付けられて、カーンはついジェーンの顔を見つめた。
彼女は、移り住む前と同じ、ぶっきらぼうだが優しい目をしていて、冷え固まった心が、久しぶりに熱を持ったように、じわりと胸が温かくなった。
「……ありがとう。いくらですか」
「別に要らないよ。それを全部平らげて、次会う時にもうちっとふっくらした顔を見せてくれりゃ、あたしはそれでいいさ」
そういうと、次の客を迎え入れる為に、しっしっと手で払いのけるような仕草をした。カーンは口元に微かに笑みを浮かべると、ジェーンに深く礼をして、出店の前から離れた。
テーブル席へ目を向けると、アナとウェインが二人で食事をとっているのが見えた。
カーンは、屈託のない笑みを浮かべるアナを眩しそうに見つめると、胸の中で呟いた。
(本当に、ありがとう)
すると、その声を聞いたかのように、アナがカーンに気づいて、夏の風に神を揺らしながら、満面の笑みで手を振った。
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